第5話 倒れた相談屋
相談屋が…
次の日、美紀は仕事を早めに切り上げて、また神宝町へ向かった。
自分でも、なぜ行くのか、うまく言えなかった。
会社の後始末は、まだ山ほど残っている。
あの男に会ったところで、二十枚目の謎が解けるわけでもない。
それでも、欠勤という二文字が、指の奥に刺さったまま、抜けなかった。
休むはずのない人が休んだ。
ただそれだけのことが、一日じゅう、頭の隅で小さく鳴っていた。
仕事の手を動かしながらも、心のどこかが、あの煉瓦のビルの十階を、ずっと見上げていた。
夕方の光のなかで、ビルは、前と同じように茶色く沈んでいた。
古いエレベーターを待つ数十秒が、ひどく長く感じられた。
十階の、灰色の鉄の扉は、鍵がかかっていなかった。
ノックをして、返事を待つ。
返事はなかった。
もう一度叩いて、それでも静かなままで、美紀は思いきって、そっと押し開けた。
部屋には、誰もいなかった。
窓から、夕方の光が長く射しこんで、机の上を照らしている。
飲みかけのコーヒーが、白いマグカップのなかで、冷たく澄んでいた。
表面に、うっすらと膜が張っている。
何時間も、あるいは半日も、ここに置きっぱなしなのだろう。
淹れた人は、一口だけ飲んで、そのまま、立てなくなったのかもしれない。
カップの取っ手に指をかけたまま、動けなくなる。
そういう朝が、この人にはある。
カップの脇に、銀色の薬の空き袋が落ちていた。
印字された日付は、今日だった。
美紀は、それ以上近づかなかった。
あの日、男が胸へ指を当て、十秒ほど動きを止めた姿を思い出した。
美紀は、部屋の入口に立ったまま、しばらく動けなかった。
踏み込んで、冷えたコーヒーを片づけて、窓を開けて、換気をして――そうしてやりたい衝動が、こみ上げた。
放っておけない、と体が言う。
だが、そう思った次の瞬間、美紀は、はっとした。
それこそが、自分の悪い癖だった。
頼まれてもいないのに、他人の後始末へ、真っ先に手を伸ばす。
この部屋の主も、きっと、同じことをして、こうなったのだ。
人の分ばかり片づけて、自分のカップは、冷えるにまかせて。
美紀は、伸ばしかけた手を、そっと引いた。
階段を下りると、二階の受付の女性が、美紀を覚えていて、声をかけてきた。
「佐藤オーナー、今日はお休みで」
と彼女は言った。
「前の日は普通だったのに、次の日、ぱたっと動けなくなることがあるんです」
受付の女性は、それだけ言って、口をつぐんだ。
冷えたコーヒー。
今日の日付がある薬の袋。
横線で消された請求書。
そして、欠勤と印字された二十枚目。
――この人もまた、自分を、数に入れていない。
理屈は分からない。
それでも、欠けた形だけは、美紀にも見覚えがあった。
頼まれれば断らず、立て替えを請求せず、自分だけを最後の処理から外す。
その行き着く先が、冷えたコーヒーなのだとしたら。
帰り道、駅のホームで電車を待ちながら、美紀は口のなかで、小さく言いかけた。
「私の分は――」
言いかけて、やめた。
いつものように、打ち消そうとした。
私がいなくなったら、あとの手続きは誰が。
みんなが困る。
私が最後まで残らないと。
だが、今日は、うまく打ち消せなかった。
冷えたコーヒーと、銀色の空き袋が、まぶたの裏に、はっきりと残っていた。
ゼロ円の明細が、まだ鞄のなかにあった。
私の分は、と言いかけた言葉の続きが、初めて、喉のところで消えずに残っていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




