第4話 最後に残る人
辞めていった人たちの後始末が、美紀のもとへ
会社へ戻ると、電話が鳴りやまなかった。
辞めていった元社員たちからだった。
離職票がまだ届かない。
ハローワークで求職の手続きができない。
先月の残業代の計算が、どうしても一円合わない。
健康保険を、これからどうすればいいのか分からない。
会社がなくなるというのは、給料が止まるだけのことではなかった。
一人ひとりの暮らしから、これまで会社が肩代わりしていた手続きが、いっせいに剥がれ落ちる。
その剥がれた端を、みんな、美紀のところへ持ってきた。
若い大野くんは、泣きそうな声で電話をよこした。
転職の初日、必要な紙が一枚足りなくて、上司の前で頭を下げたのだという。
「相原さん、俺、なにも分かんなくて」と彼は言った。
美紀は、大丈夫、と静かに答えた。
今日じゅうに書類を作って送るから、月曜には間に合う、と。
電話の向こうで、彼が小さく洟をすすった。
その日のうちに書類を仕上げ、速達で送った。
切手を貼りながら、二年前、面接で声を裏返らせていた、線の細い若者を思い出す。
次の場所で、ちゃんとやっていけますように。
手続きの一枚に、そんな祈りを込めるのは、総務の仕事ではない。
それでも、込めた。
込めて、次の受話器を取った。
桑野さんからもかかってきた。
自分のことではなく、いっしょに辞めた同僚のパートさんが、保険の切り替えで困っている、という相談だった。
「相原さんに訊けば、なんとかしてくれるって、みんな言うから」と、桑野さんは申し訳なさそうに言った。
美紀は、その同僚の名前と生年月日を控え、あとで折り返しますと伝えた。
寺田さんは、電話をかけてこなかった。
あの無口な人らしい。
だが、退職金の振込が一部先送りになったことを、美紀は誰よりも気にかけていた。
欠勤一日もなく、機械の前に立ち続けた人だ。
その人にだけは、一円も、間違えたくなかった。
会社に残る金では、寺田の退職金も満額では払えない。
美紀は、いま払える分と、あとに回す分を、一円単位で切り分けた。
書類を作り直し、封筒へ入れる。
区役所と年金事務所へ電話をかける。
一件済むたび、また電話が鳴った。
机の書類は、減るより早く増えていった。
気づけば、昼を食べそびれていた。
いや、気づいてはいたのだ。
あとで、と思っているうちに、電話が鳴り、また鳴り、そのたびに、あとで、が後ろへずれていった。
給湯室のポットの湯は、朝に沸かしたきり、とうに冷めている。
自分のためにお茶を一杯淹れる、その十秒すら、美紀は惜しんだ。
相談ごとを持ちこまれれば、その人が帰るまで、自分のことは何一つ手につかない。
昔から、そういう質だった。
山辺社長は、この数日、ほとんど事務所に戻らなかった。
債権者との話し合いが続いていて、たまに顔を出しても、くたびれた背広の肩を落として、「すまんね、相原さん。ほんとうに、すまん」と繰り返すだけだった。
悪い人ではない。
悪いことをした人ですらない。
ただ、時代に押し流されて、静かに擦り切れていく人だった。
責める相手のいない疲れが、事務所の空気に沈んでいた。
昼を過ぎても、自分の手続きは一つも進んでいなかった。
離職票。
最後の給与計算。
次の職。
すべて、机の隅に伏せてある。
みんなの分が片づいてから。
あの相談屋の声が、耳の奥で鳴った。
あなたの、最後の給与明細は、どこです。
夕方、また、あの二十枚目を刷ってみた。
もう、癖のようになっていた。
刷らずにいられなかった。
あの男に会ってからは、なおさら。
佐藤士恩。
支給額、〇円。
勤務日数の欄を見て、美紀は指を止めた。
これまで、夜ごと一日ずつ増え続けていた数字の、その横に、初めて、別の文字が並んでいた。
欠勤。
三百六十九日、そのあとに、小さく、欠勤、と。
一日も休まなかった人が、初めて休んだ。
増える数字より、止まった数字のほうが、美紀を不安にした。
あの男に、何かあったのだろうか。
考えても仕方がない、と自分に言い聞かせながら、美紀は電話帳でビルの内科クリニックの番号を調べ、受付にかけた。
上の相談屋さんは、今日、おいでになっていますか、と。
用件も名乗りもせず、ただ、それだけを尋ねた。
他人のことばかり尋ねる自分に、少しだけ、可笑しさと、後ろめたさがあった。
自分の離職票一枚、まだ作れずにいるくせに。
受付の女性は、少し間を置いてから、答えた。
「佐藤オーナーですか。今日は――朝から、お姿を見ていません」
美紀は受話器を置いた。
明細には、欠勤とある。
会社にいないはずの男が、今日は、どこにもいなかった。
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