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燃えカスの守り人  作者: K3/KASANE
最後の給与明細

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第3話 相談屋の佐藤

明細に刷られた住所は、隣町の古い雑居ビル


 神宝町の煉瓦のビルは、すぐに見つかった。


 十階建て。


 まわりに新しいマンションや貸しビルが並ぶなかで、そこだけが茶色く沈んで、時代から少し取り残されて見えた。


 角の落ちた煉瓦、蔦の枯れた跡。


 それでも、みすぼらしいという印象はなかった。


 むしろ、古いものを大事に使い続けている、そういう静かな品があった。


 一階には古びた喫茶店が入っていて、硝子戸の内側で、老夫婦がゆっくりと動いている。


 看板の塗料は褪せていたが、拭き掃除だけは、隅々まで行き届いていた。


 入口の郵便受けを、美紀はつい確かめてしまった。


 集合ポストの、最上階の札に、姓が一つだけ入っている。


 佐藤、と。


 ほかの階には会社やクリニックの名が並んでいるのに、そこだけが、素っ気ない個人の姓だった。


 ビルまるごとを持っている人間が、最上階に、姓だけの札を出して住んでいる。


 それだけで、少し奇妙な人物像が立ちのぼった。


 狭いエレベーターは、二階で一度、扉を開けた。


 小さな内科のクリニックがあり、受付の白衣の女性が、電話を取っている。


 扉が閉まるのを待つあいだ、その声が耳に入った。


「はい、佐藤オーナーには、お伝えしておきます。ええ、上の――」


 佐藤オーナー。


 美紀は、その呼び名を頭の隅に留めた。


 この煉瓦のビルの持ち主が、その男らしい。


 金には困っていない人なのだろう。


 それがなぜ、給料がゼロの明細を、隣町の会社に降らせているのか。


 分からないことが、また一つ増えた。


 十階の扉には、看板も表札もなかった。


 ただの、灰色の鉄の扉だ。


 ノックをすると、しばらく間があって、けだるい声が返ってきた。


「あー、開いてますよー。どうぞー」


 なかは、事務所というより、物置と客間のあいだのような部屋だった。


 窓から午後の光が斜めに射しこみ、埃がゆっくりと泳いでいる。


 書棚には古い本が背表紙も読めないほど詰まり、机の上には書類が乱雑に積まれていた。


 奥のくたびれた革の椅子に、男がひとり、深くもたれていた。


 黒いスーツ。


 ひどく痩せた身体。


 肌は、燃えたあとの灰のように白い。


 目は糸のように細く閉じられて、ちょっと見には眠っているようだった。


 年齢の見当がつかない。


 四十くらいだろうか。


 もっと上にも、下にも見える。


 生気というものが、ずいぶん前にどこかへ抜けてしまった人のようだった。


 それでいて、部屋に入った瞬間から、こちらの一挙一動を、閉じた目の奥でちゃんと追っている気配があった。


 眠っている人の前ではなく、目を閉じて全部を聞いている人の前に立っている――そんな居心地の悪さが、美紀にはあった。


「山辺製作所の、相原と申します」


 と美紀は名乗った。


「突然すみません。少し、お尋ねしたいことがありまして」


 男は身じろぎもせず、「はいはい、なんでしょー」とだけ言った。


 美紀は二十枚目の明細を、机の空いた隅に置いた。


 会社に存在しない社員のこと。


 支給額がゼロであること。


 夜のあいだに勤務日数が一日ずつ増えること。


 そして、この住所が、ここになっていること。


 順を追って、事務的に、できるだけ感情を混ぜずに説明した。


 感情を混ぜれば、頭のおかしな女だと思われる。


 数字の話として、静かに並べるほかなかった。


 男は薄目で、その紙を眺めた。


 驚く様子は、まるでなかった。


 眉ひとつ動かさず、紙の隅を細い指で軽く弾いて、言った。


「へえー。ぼくの給料、出るんですかー。いい仕事ですねぇ、それー」


 軽く受け流された、と美紀は思った。


 からかわれているのかもしれない。


 だが、そのわりに男は明細を裏返し、勤務日数の欄を、しばらく見ていた。


 三百六十六。


 その数字の上で、糸のような目が、ほんの少しだけ止まった気がした。


 机には、請求書の控えが積まれていた。


 金額を横線で消し、ゼロと書き足したものが、いくつもある。


 金に困った部屋ではない。


 それでも、この男は受け取るはずの金を、自分から消していた。


 説明の途中、男は一度、細い指を胸のあたりへ当てて、動きを止めた。


 痛みをこらえるのとも違う。


 ただ、電池の切れかけた機械が、しばらく充電を待つような、静かな止まり方だった。


 十秒ほどして、また、けだるく口を開いた。


 何ごともなかったように。


「相原さんは、十九人を、印刷対象にしたんですねー」


 男は、糸目をこちらへ向けた。


「それで――あなたの、最後の給与明細は、どこです?」


 美紀は、答えられなかった。


 毎月の明細なら、美紀にもある。


 だが、今回の最後の処理からは、自分だけを外していた。


 未申告の残業も、立て替えた費用も、自分の欄だけ空白だった。


「……私は、いいんです」


 と、やっと言った。


「私が最後まで残らないと、みんなが困りますから」


 男は「はあ、なるほどねー」とだけ返して、また椅子に深く沈んだ。


 それきり、何も言わなかった。


 追いかけても来なければ、慰めもしない。


 答えを教えてもくれない。


 ただ、こちらが勝手に置いていったものを、置いたまま眺めているような沈黙だった。


 帰りの電車で、揺れる窓に自分の顔が映った。


 会社をたたむというのに、美紀は自分の離職票も、最後の給与計算も手をつけていない。


 十九人の分は端数まで合わせたのに、自分だけを印刷対象から外していた。


 ――でも、私がいなくなったら、あとの手続きは、誰がやるの。


 窓に映る顔から目をそらして、美紀はその考えを、いつものように打ち消した。


 打ち消したはずなのに、あの糸のような目が、まだこちらを見ている気がした。


ありがとうございます。

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