第1話 十九人分
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倒産する会社の、最後の給与計算から始まります。
午前零時を回っても、山辺製作所の事務所には明かりが一つだけ残っていた。
相原美紀の机の上の、蛍光灯である。
工場のほうは、とうに静かだった。
昼のあいだ床を震わせていたプレス機は止まり、油の匂いだけが廊下の奥からうっすら流れてくる。
ほんの半年前まで、ここは朝から晩まで音の絶えない場所だった。
金属を打つ低い響き、フォークリフトの電子音、寺田さんが機械の調子を確かめて低くうなる声。
その一つひとつが、いまはもう、思い出のなかでしか鳴らない。
二十年、美紀はこの匂いのなかで数字を打ってきた。
給与、勤怠、社会保険。
誰が何時間働き、いくら受け取るのか。
人の一か月を、一円の単位で正しく数える仕事だった。
その会社が、なくなる。
親会社が生産を海外へ移し、受注が消えた。
秋になって、山辺社長は廃業を決めた。
決算書を前にした六十過ぎの男は、机の木目をなぞりながら、美紀に頭を下げた。
「相原さん。みんなの、最後の給料だけは、間違えないでくれ。ほかのことは、もう、しかたがない。だが、それだけは、頼む」
美紀は、はい、と答えた。
だから、こんな時刻まで残っている。
従業員は、美紀を含めて二十人。
そのうち、自分を除いた十九人を、今夜の印刷対象に選んでいた。
自分の最後の給料は、みんなが済んでからでいい。
いつものことだった。
誰かを先に通しているうちに、自分の順番が来なくなる。
それにも、もう慣れていた。
パートの桑野は、帰りぎわ、いつも美紀の湯呑みまで流しへ運ぼうとした。
「相原さんが最後じゃ、悪いから」
美紀は、そのたびに断った。
自分の湯呑みは、自分が最後に洗う。
それでいいと思っていた。
寺田は五十五歳。
プレス一筋で、欠勤は一日もない。
大野は二十四歳。
来月から、隣町の工場へ移る。
美紀は名簿を開かなくても、十九人の入社年月と、端数の交通費まで言えた。
残業。
深夜割増。
控除。
電卓を叩き、十九人分を検算する。
一円のずれも残さなかった。
ふだんの給料なら、来月もある。
だが、今度は最後だ。
一度きりで、会社も、この席もなくなる。
だからせめて、数字だけは正しく渡したかった。
湯呑みの茶は、冷えていた。
美紀は印刷対象が「十九名」であることをもう一度確かめ、ボタンを押した。
プリンターが動きだす。
一枚、二枚。
紙が吐き出されるたび、美紀は上端の名前を確かめていく。
大野、桑野、寺田……。
指先が、いつのまにか、束の厚みを数えている。
何度、この動作を繰り返してきただろう。
何人分を刷ったかは、束を持った瞬間の重みで、たいてい分かる。
十九枚のはずだった。
二十枚あった。
美紀は手を止めた。
錯覚だろうと思い、机に伏せて、もう一度、一枚ずつ数えなおす。
何度めくっても同じだった。
二十枚。
いちばん下の一枚に、見たことのない名前が印字されている。
佐藤士恩。
さとう、しおん――とでも読むのだろうか。
読み方すら、確信が持てない。
基本給の欄には、たしかに数字が入っている。
ところが支給額の欄は、〇だった。
ゼロ。
差引で、何もかもが消えている。
書式は正しい。
彼女がいつも打ち出してきたものと、罫線の一本、判子の位置まで、寸分たがわぬ体裁だった。
こんな社員はいない。
山辺製作所の二十人を、美紀は全員知っている。
プリンターの記憶に、古いデータが残っていたのかもしれない。
深夜の入力ミスかもしれない。
美紀は名簿を開いた。
相原、大野、桑野、寺田……佐藤という姓は、どこにもなかった。
画面へ戻る。
印刷対象、十九名。
何度確かめても、十九名。
なのに、二十枚。
給料の出ない明細が、一枚だけ余っている。
美紀はその紙を、蛍光灯の真下へ近づけた。
勤務日数の欄に、数字がある。
ほかの十九人は、その月の出勤日を打ってあるだけだ。
二十日。
二十二日。
ところが、この一枚だけが違っていた。
三百六十五日。
一年を、一日も休まずに。
給料は、一円も出ずに。
この会社に、そんな社員は、いない。
読んでくださって、ありがとうございます。




