第6話「娘だった」
時間ができた時にも随時更新します!
ぜひお楽しみに!
それでは、本編をお楽しみください。
借りた部屋着のまま、わたしは、玄関で、靴を履こうとしていた。
手が、震えている。うまく、かかとが入らない。
身体は、くたくただった。まぶたが、重い。ほんとうは、眠りたい。それなのに、足は、玄関へ、向かっていた。頭より先に、身体が、動く。ずっと、そうやって、生きてきた。考える前に、動く。考えてしまったら、動けなくなるから。
「お父さんをお願いね」
お母さんの声が、繰り返す。
「あなたしか、いないの」
「しっかりしなさい」
玄関の、小さな鏡に、お母さんが映っていた。
でも、その顔は、はっきりとは、見えなかった。目も、口も、ぼやけている。わたしが覚えている、お母さんらしい姿を、ただ、しているだけ。ほんとうのお母さんの顔は、もう、思い出せないのに。
二年しか、たっていない。それなのに、お母さんの、笑った顔も、怒った顔も、うまく、思い出せなかった。思い出せるのは、わたしを、心配する顔だけ。お願いね、と言う、あの顔だけ。ほかの表情は、ぜんぶ、どこかへ、消えてしまっていた。わたしが、消してしまったのかもしれない。
◇
うしろで、声がした。
「帰るんか?」
大原さんだった。止めもせず、ただ、そこに立っている。
わたしは、うなずいた。
「……お父さんが、困るから」
「紗季ちゃんは、帰りたいんか?」
わたしは、口をつぐんだ。それから、小さく言った。
「……分かりません」
「そうか」
大原さんは、うなずいた。
「ほな、分からんまま、座っとき。答えは、今、出さんでええ」
わたしは、玄関の、冷たい床に、座りこんだ。
◇
座っていると、二年前の、あの病室が、よみがえってきた。
やせてしまったお母さんが、わたしの手を、握った。窓の外には、初夏の、青い葉が、揺れていた。
「お父さんをお願いね」
「紗季は、しっかりしているから」
あのとき、わたしは、十四歳だった。お母さんを、安心させたかった。だから、うなずいた。
「……任せて」
お母さんは、ほっとしたように、目を閉じた。それが、最後だった。
お母さんは、わたしを、頼りにしていた。それが、うれしかった。頼られることが、いつのまにか、わたしの、生きる意味みたいに、なっていた。だから、お母さんが、いなくなったあとも、わたしは、頼られる自分で、いつづけた。そうしていれば、お母さんと、まだ、つながっていられる気がしたから。
あの約束を破ることは、わたしにとって、お母さんを、もう一度、死なせることと、同じだった。だから、破れなかった。ずっと、破れなかった。
◇
大原さんが、しゃがんで、わたしと目の高さを合わせた。
「なあ、紗季ちゃん」
やわらかい声だった。
「あんた、お父さんの世話をするために、生まれてきたんか?」
ちがう、と、言おうとした。
でも、声が、出なかった。かわりに、目のふちから、あたたかいものが、こぼれた。ひとつぶ、また、ひとつぶ。とめられなかった。
「……帰りたくない」
言葉が、勝手に、あふれてきた。
「今日は、帰りたくない。眠りたい。学校に、行きたい。友達と、本屋に、行きたい。大学にも、行きたい」
わたしは、泣きながら、言った。ずっと、ふたをしていたものが、いちどに、あふれた。
言ってはいけない、と、思っていた。しっかりした子は、こんなこと、言わない。でも、一度あふれると、もう、とまらなかった。わたしは、しっかりなんて、していなかった。ずっと、こわくて、さびしくて、たすけて、と、言いたかっただけだった。それを、言ってはいけないと、自分に、禁じていただけだった。
声が、みっともなく、ふるえた。鼻の奥が、つんとして、息が、うまく、吸えない。しっかりした子は、こんな声を、出さない。でも、もう、どうでも、よかった。
「……わたし、お父さんの、お母さんじゃない」
その瞬間、鏡のなかの、お母さんの姿が、すうっと、消えた。
◇
消える、その間ぎわに。
遠くで、お母さんの声が、一度だけ、聞こえた気がした。
「……そうね」
ほんとうに、お母さんが、答えたのか。それとも、わたしが、お母さんなら、そう言ってくれるはずだと、思っただけなのか。
わからない。今も、わからない。
わたしは、玄関で、泣きつかれて、そのまま、眠ってしまった。
◇
朝。
目を覚ますと、壁にもたれて、慈恩さんが座っていた。
「おはようございます」
わたしは、目をこすった。
「……いつから、いたんですか」
「午前四時、くらいですかねぇ」
慈恩さんは、いつもの、のんびりした声で言った。それから、少しだけ、まじめな顔になった。
「じゃあ、次は」
「お父さんに、言わないと、ですねぇ」
わたしの顔から、ほっとした気持ちが、すっと、引いていった。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
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