第4話「母の、声」
時間ができた時にも随時更新します!
ぜひお楽しみに!
それでは、本編をお楽しみください。
その日の昼休み、わたしは、ひさしぶりに図書室に入った。
進学資料の棚に、県外の大学のパンフレットが並んでいた。机の奥に隠しているのと、同じもの。もう一冊、手に取ってしまう。
学生寮のある大学だった。児童文学を研究している先生の紹介が、載っていた。子どもの本が、どんなふうに子どもの心を育てるのか。それを、一生かけて調べている人がいる。
寮は、月に、二万円と少しで住める、と書いてあった。奨学金を借りれば、通えないことも、ない。パンフレットのすみの、小さな数字を、わたしは、指で、そっとなぞった。逃げていくかと思った数字は、ちゃんと、そこに、あった。行けるかもしれない。そう思うことさえ、久しぶりだった。
読んでいるうちに、忘れていた気持ちが、戻ってきた。
行きたい。もっと、本を読みたい。自分でも、物語を、書いてみたい。
その気持ちが、胸の奥から、あたたかく広がって――
「お父さんが待ってるわよ」
耳のうしろで、お母さんの声がした。
わたしは、パンフレットを閉じた。反射のように、時計を見る。まだ、昼休みだった。お父さんに何かあったなんて、わかるはずがない。連絡も、来ていない。
なのに、どうして今、その声がしたんだろう。はじめて、そう思った。
いつもなら、声がすると、ほっとしていた。お母さんが、見ていてくれる。そう思えたから。でも、今日は、ちがった。楽しいことを、考えたとたんに、声がした。まるで、それを、してはいけない、とでも言うように。胸のなかに、小さな、とげが刺さった。抜こうとすると、よけいに、深く入る。そんな、とげだった。
◇
午後の授業中にも、声がした。
「早く帰りなさい」
じっとしていられなくて、わたしは、保健室へ行った。携帯電話を出して、家にかける。お父さんは、出なかった。
倒れているのかもしれない。この前みたいに。不安が、みるみる膨らんでいく。わたしは、早退の許可をもらって、家まで走った。
息を切らして、玄関を開ける。
お父さんは、居間で、テレビを見ながら、眠っていた。
何も、起きていなかった。
全力で、走ってきた。心臓が、まだ、うるさく鳴っている。汗が、背中を、つたっていく。それなのに、お父さんは、軽く、いびきをかいて、眠っていた。テレビの音だけが、部屋に、流れている。わたしは、いったい、何のために、走ってきたんだろう。
わたしは、その場に、立ちつくした。それから、はじめて、お母さんに、腹が立った。
「……何もないじゃない」
声は、答えなかった。
◇
物音で、お父さんが目を覚ました。わたしが早退したと知ると、こう言った。
「ちょうどよかった。悪いが、買い物を、頼まれてくれるか」
わたしは、思わず、言い返していた。
「……学校が、あるんだけど」
お父さんの顔が、こわばった。
「俺は、一人じゃ動けないんだぞ」
「……分かってる」
「分かってるなら、そんな言い方をするな」
わたしは、謝った。いつもなら、すぐに立ち上がって、財布を持つ。でも、今日は、身体が、すぐには動かなかった。
自分の部屋に入って、鞄から、大学のパンフレットを出す。しわになった表紙を、手のひらで、そっと伸ばした。
◇
わたしは、名刺の番号に、電話をかけた。
何回か鳴って、眠そうな声が出た。
「はぁい……もしもし」
あの人だった。わたしは、名前も言わずに、聞いた。
「あの声は……本当に、母なんですか」
あの人は、すぐには答えなかった。少し間があってから、逆に、聞いてきた。
「声は、お母さんの声ですか?」
「……そうです」
「言ってることも、お母さんの言葉ですか?」
「……そうです」
「じゃあ、それを言ってるのも、お母さん、ですかねぇ」
わたしは、混乱した。声も、言葉も、お母さんのものだ。なのに、それを言っているのが、お母さんじゃないなんて。そんなこと、考えたこともなかった。
あの人は、のんびりと、その声が聞こえる場面を、聞いてきた。
わたしは、思い出しながら、答えた。声がするのは、わたしが眠っているとき。学校で、楽しいことをしようとしたとき。お父さんじゃない人生を、考えたとき。
言いながら、気づいてしまった。声がするのは、お父さんが、あぶないときじゃない。いつも、わたしが、外へ出ようとした、そのときだった。
背すじが、ぞくりとした。半年のあいだ、わたしを起こし、友達の誘いを断らせ、大学のことを、忘れさせてきた声。その声は、いつも、わたしが、外の世界へ、ほんの少し、手をのばした、その瞬間に、聞こえていた。お父さんのためじゃ、なかった。わたしを、家のなかに、とどめておくためだった。
◇
「お母さんは、お父さんを、助けてるんじゃないですねぇ」
あの人が、ゆっくり言った。
「紗季さんが、家を出ないように……見張ってる、みたいですよぉ」
わたしの、息が、止まった。
その瞬間、すぐうしろで、お母さんの声がした。
「電話を、切りなさい」
今度は、声だけじゃなかった。
消えているはずのテレビの画面に、お母さんが、映っていた。電源は、入れていない。暗いはずの画面に、お母さんが、こちらを、じっと、見ている。ただ、その顔だけが、やっぱり、はっきりとは、見えなかった。ぼやけた顔のまま、お母さんは、わたしを、見張っていた。
わたしは、震える指で、電話を、切った。切ってしまってから、切ったことを、後悔した。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
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