第3話「家族だから」
時間ができた時にも随時更新します!
ぜひお楽しみに!
それでは、本編をお楽しみください。
学校から帰ると、玄関に、見たことのない靴があった。
居間から、話し声がする。お父さんの声と、もう一つ。聞き覚えのある、間延びした声だった。
襖を開けると、あの人が、座っていた。スーパーで会った、アロハシャツの人。お父さんと向かいあって、お茶を飲んでいる。
「あ、こんにちはぁ」
その人は、わたしを見て、のんびりと手をあげた。どうして、ここにいるのだろう。心臓が、いやな音を立てた。
この人は、スーパーで、いもしないお母さんに話しかけた人だ。その人が、うちに上がりこんでいる。お父さんの隣に、あたりまえみたいな顔で座っている。見られたくないものを、ぜんぶ、見られている。そう思った。流しの食器も、わたしの教科書も、この家の、ぜんぶを。
お父さんが、不機嫌そうに言った。
「役所のほうから、紹介されたとかで来たんだが。うちは、困ってないと言ってるんだ」
どうやら、市の相談窓口の人が、この人を寄こしたらしい。前に一度、訪問介護をどうかと言われたことがあった。お父さんが、断った。それきりだと思っていた。
「困ってない。娘が、全部やってくれてる」
お父さんは、そう繰り返した。あの人は、うなずきながら、部屋のなかを、ゆっくり見まわしている。
すり減った杖。お父さん用の、介護の道具。流しに重なった食器。居間のすみに置いた、わたしの教科書とノート。わたしの生活と、お父さんの生活は、この部屋のなかで、すっかり一つになっていた。境目が、どこにもない。それが、ふつうだと思っていた。
◇
お父さんは、わたしのことを、ほめはじめた。
「こいつは、昔から、しっかりしてる。母親が死んだときも、泣いてばかりいなかった。俺のことも、いやな顔ひとつせず、やってくれる」
わたしは、笑った。ほめられているのだから、笑うのが正しい。
でも、ほめられるほど、苦しいとは、言えなくなる。しっかりした子は、苦しいと言わない。言ってはいけない。だから、わたしは、うまく笑う練習だけが、上手になった。
お母さんのお葬式でも、わたしは、泣かなかった。泣いたら、お父さんが、もっとつらくなると思ったから。えらいわね、しっかりしてるわね、と、みんなが言った。その言葉が、わたしの背中に、一枚ずつ、板を貼りつけていく。板は、だんだん重くなって、今では、下ろし方が、わからない。
あの人が、わたしのほうを見た。細い目の奥が、こちらを、まっすぐ見ているようだった。
「いやじゃないんですかぁ」
答えたのは、お父さんだった。
「いやなわけがない。家族なんだから」
あの人は、お父さんではなく、わたしを見たままだった。だから、わたしも答えた。
「家族だから、当たり前です」
言いながら、それが、自分の言葉なのか、覚えさせられた言葉なのか、わからなくなった。
◇
あの人の視線が、わたしから、台所のほうへ動いた。誰もいない、暗い台所へ。
そこを、じっと見ている。
つられて、わたしも台所を見た。何もない。いつもの、うちの台所だ。
なのに、気づくと、わたしの手は、エプロンをつかんでいた。いつのまにか、立ち上がっていた。お茶をいれかえなきゃ。洗い物をしなきゃ。誰にも言われていないのに、身体が、勝手に動いていた。まるで、誰かの動きを、なぞるみたいに。
誰の動きを。そう思ったとき、背すじが、ひやりとした。わたしは、いつも、こうしている。お母さんが生きていたころ、台所に立っていた、あの人の動きを。同じ順番で、同じ手つきで。気づかないうちに、なぞっていた。毎日、毎朝、ずっと。
お茶は、ぬるめにいれる。お父さんは、熱いのが飲めない。麻痺した、右の唇から、こぼれてしまうから。薬は、朝が五種類、夜が三種類。味噌汁は、塩を減らしたぶん、だしを濃くする。物足りなく、ならないように。そういう、こまかいことを、わたしは、ぜんぶ、覚えていた。覚えようとして、覚えたわけじゃない。なぞっているうちに、身体に、しみこんでいた。
「……座っててください」
あの人が、静かに言った。声から、間延びが、消えていた。わたしは、自分が立っていることに、そのときはじめて、気づいた。
◇
帰りぎわ、あの人は、玄関で、わたしに何かを差し出した。
あの名刺だった。わたしが、捨てられずに持っていた、あの名刺。ポケットに入れたままだったはずのそれを、どうして、この人が持っているのだろう。
「家族だから、やる。それで、いいと思いますよぉ」
あの人は言った。
「……なら、何しに来たんですか」
「確認、ですかねぇ」
あの人は、少し考えるように、天井を見た。
「紗季さんが、いやだからやめたことって、あります?」
「……あります」
「じゃあ、やりたいから始めたことは?」
わたしは、答えられなかった。口を開いても、何も出てこない。やりたいから、始めたこと。そんなもの、いつからか、一つも、なくなっていた。
いつからだろう。中学生のころは、たしかに、あった。本を読むこと。物語を書くこと。友だちと、本屋をまわること。それが、一つずつ、指のあいだから、こぼれていった。こぼれたことにさえ、気づかないくらい、ゆっくりと。
あの人は、それ以上、何も聞かなかった。ぼくは、また来ますよぉ、とだけ言って、帰っていった。
◇
玄関の戸が閉まると、耳のうしろで、お母さんの声がした。
「あの人は、お父さんを、連れていくつもりよ」
わたしは、お父さんの部屋のほうを見た。それから、手のなかの名刺を見た。
裏に、何か書いてある。さっきまで、なかったはずの文字。あの人の字で、一行だけ。
あなたがやりたいことは、何ですか。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
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