第2話「しっかりした子」
時間ができた時にも随時更新します!
ぜひお楽しみに!
それでは、本編をお楽しみください。
店員さんが、モップを持ってきて、割れた卵を片づけはじめた。
「すみません。すみません」
わたしは、何度も頭を下げた。床にひろがった黄身が、自分の失敗そのもののように、いつまでも消えなかった。
「弁償します」
「いいですよ、これくらい」
あの人が、横から言った。財布を出そうとしている。わたしは、あわてて首を振った。
「けっこうです。知らない人に、払ってもらう理由はありません」
声が、思ったより硬くなった。それから、さっき口にしてしまった言葉を、打ち消しておきたくなった。
「母のことも、何かのまちがいです。母は、死んでいます」
あの人は、言い返さなかった。ただ、ゆっくりとうなずいた。
「そうですねぇ。亡くなってます」
その言い方が、なぜか、引っかかった。死んでいる、と、亡くなっている。同じことのはずなのに、その人の口から出ると、まるで、まだどこかにいる人の話をしているみたいに聞こえた。
あの人は、ポケットから一枚の紙を出した。名刺だった。
「気が向いたら、どうぞ」
わたしは、受け取らなかった。かごを持って、レジへ向かう。うしろは、振り返らなかった。
会計をして、袋に商品を詰める。店員さんが、これ落とされましたよ、と、何かを袋に入れてくれた。家に帰ってから、気づいた。あの、名刺だった。
帰り道、あの人の言葉が、頭からはなれなかった。亡くなってます、と、あの人は言った。死んでいます、とわたしが言ったのに。まるで、いなくなったわけではない、とでも言うように。
昔から、わたしは、しっかりした子だと言われてきた。お母さんのお葬式のときも、親戚の人たちが、口々にそう言った。あの子は、しっかりしているから。まだ中学生なのに、えらいわね。ほめられるたびに、わたしは、うまく笑えなくなった。しっかりしていないと、いけない気がした。しっかりしていない自分は、ここにいては、いけないように思えた。
◇
次の日、進路面談があった。
進路指導室で、田辺先生は、わたしの成績表を見ていた。
「一年のときは、国立も狙えた。でも、この出席と、最近の点数だと、正直、厳しいな」
「就職します」
わたしは言った。
「大学には、行きません」
先生は、少し驚いた顔をした。
「どうして。もったいないだろう」
本当の理由は、言えない。お父さんを、置いていけない。そのかわりに、用意していた嘘を口にした。
「勉強が、好きじゃなくなったんです」
鞄のなかには、あの大学のパンフレットが、まだ入っている。机の奥から、今日は持ち出してしまった。好きじゃなくなった、なんて、嘘だった。
小さいころ、お母さんは、よく本を読んでくれた。寝る前に、絵本を一冊。声色を変えて、お姫さまや、動物のまねをして。わたしが眠るまで、何度でも読んでくれた。だからわたしは、いつか、子どものための物語を、自分で書いてみたいと思っていた。児童文学、という言葉を知ったのは、あのパンフレットを見つけたときだ。胸の奥で、小さな灯りがついた気がした。今は、その灯りに、ふたをしている。
「宮下。将来を、投げるなよ」
先生は、そう言った。悪い人ではない。ただ、わたしの家のことを、何も知らない。
家族を守るために、あきらめる。それが、どうして、将来を投げることになるのだろう。わたしには、わからなかった。
◇
教室に戻ると、藤田さんがいた。
「紗季、文化祭の図書委員の企画、一緒にやらない? 前みたいに」
「ごめん。今回は、いいや」
藤田さんの顔が、少しこわばった。
「紗季って、最近ずっと、そうだよね」
声に、とげがあった。
「何かあるなら、言えばいいのに」
わたしは、考えるより先に、言い返していた。
「言ったって、どうにもならないから」
言ってしまってから、しまった、と思った。藤田さんの目が、傷ついたように揺れる。あやまりたかった。でも、あやまるための言葉を探しているあいだに、次の授業の予鈴が鳴った。時間は、いつも足りない。
◇
家に帰ると、玄関の鍵が、開いていた。
「お父さん?」
返事がない。かわりに、廊下の奥で、かすかな物音がした。
お父さんは、トイレに行こうとして、廊下で倒れていた。杖が、手の届かないところに転がっている。携帯電話も、居間のテーブルの上だった。どちらにも、手が届かなかったのだ。
「ずっと、ここにいたの?」
時計を見ると、わたしが学校を出てから、一時間以上たっていた。
お父さんを起こそうとした。肩の下に腕を入れて、力をこめる。でも、大人の男の人の身体は、思っていたより、ずっと重かった。腰に、鋭い痛みが走る。それでも、近所の人を呼ぶことは、しなかった。お父さんが、いやがるから。
壁のむこうに、隣の家の窓明かりが見えた。声をかければ、きっと、手伝ってくれる。でも、お父さんは、それをいちばん、いやがった。他人の世話になることを、自分が惨めになることだと思っている。だから、わたしは、呼ばない。呼べなかった。
何度も、失敗した。汗が、あごから落ちる。持ち上げては、ずり落ちて、また持ち上げる。ようやくお父さんをベッドまで運んだとき、わたしの腕は、震えていた。息が、うまく吸えなかった。
お父さんは、こわい顔をしていた。こわがっているときの、あの顔だ。
「どうして、もっと早く、帰ってこなかった」
学校にいた、とは、言えなかった。
「……ごめんなさい」
◇
その夜、わたしは、痛む腰を押さえながら、洗い物をして、洗濯物をたたんだ。
午前四時。いつものように、お母さんの声がした。
でも、いつもと、少しちがっていた。低くて、冷たい。
「遅かったわね」
わたしは、布団のなかで、身をちぢめた。
「お父さんに、何かあったら、どうするの」
「……ごめんなさい」
「あなたしか、いないのよ」
「ごめんなさい、お母さん。明日は、もっと早く帰るから」
制服を、ハンガーにかけようとしたとき、ポケットから、白いものが落ちた。
あの名刺だった。
拾おうと、手をのばす。
「捨てなさい」
お母さんの声がした。
わたしは、名刺を持ったまま、動けなくなった。指のあいだで、その紙は、なぜか、少しあたたかい気がした。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
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