第1話「午前四時」
2008年初夏
午前四時。目覚まし時計が鳴る数秒前に、お母さんの声がした。
「紗季。朝よ」
わたしは目を開ける。天井の木目が、暗がりのなかにうっすらと浮かんでいた。部屋には誰もいない。カーテンの隙間は、まだ夜のままだ。
枕もとの時計は、まだ鳴っていない。液晶の数字が、三時五十九分から、四時に変わる。それを見届けてから、いつも音は鳴った。だからこのごろは、目覚ましのボタンを止める必要さえ、なくなっていた。
声を聞いても、こわいとは思わなかった。むしろ、ほっとする。お母さんが起こしてくれた。そう思えるだけで、冷たい布団から起き上がる力がわいてくる。
この声が聞こえるようになったのは、半年ほど前からだった。最初は夢だと思っていた。けれど声に従って起きると、お父さんの薬も、朝ごはんも、洗濯も、遅れずに済む。一度も、失敗しなかった。だからわたしは、こう考えることにしている。お母さんは死んでからも、わたしたちを見てくれているのだと。
お母さんが亡くなったのは、二年前の、ちょうど今ごろだった。初夏の、風のやわらかい季節。入院していた病院の窓から、青い葉が揺れているのが見えていた。あのときわたしは、十四歳だった。泣いてばかりは、いられなかった。お母さんが逝ったすぐあとに、お父さんが倒れたから。
足音を立てないように、台所へ下りた。廊下の板が、素足に冷たい。
米を研いで、炊飯器のスイッチを入れる。味噌汁の鍋を火にかけると、だしの匂いが、まだ暗い台所にひろがった。減塩の味噌を、少なめに溶く。塩分は、お医者さんに止められている。お父さんの薬を、朝の分だけ小皿に並べる。白い錠剤が四つ、青いのが一つ。数をまちがえないよう、指で一つずつ押さえて確かめた。まちがえたら、お父さんの身体にさわる。それだけは、してはいけない。
ゆうべ干した洗濯物を取りこんで、新しいぶんを洗濯機に入れる。お父さんの下着は、手で先に洗った。乾かないと、明日が回らない。
それから、寝室の襖を開けた。
「お父さん、朝だよ」
お父さんは、右腕をかばうようにして起き上がる。着替えを手伝おうとすると、麻痺したほうの腕が、パジャマの袖に引っかかった。
「違う。そっちから通すんだ」
「ごめん」
「前にも言っただろ」
「……うん」
わたしは謝る。何度手伝っても、袖の通し方は、その日によって正解が変わる気がした。お父さんは、言いすぎたという顔をして、それでも謝らない。かわりに、しばらくたってから、小さな声で言った。
「いつも、悪いな」
その一言で、胸の奥が、少しあたたかくなる。わたしは、必要とされている。ここに、いていいのだと思える。それだけで、腰の痛みも、寝足りない頭も、どうでもよくなった。
介護、という言葉を、わたしは使わない。学校の先生も、近所の人も、しっかりした子だと言う。でも、しっかりしているわけじゃない。ただ、家族のことをしているだけだ。お母さんがいなくなってから、それが、わたしの役目になった。だれかに頼まれたわけではない。自然に、そうなった。
お父さんの朝ごはんを、手の届くところに並べる。昼のぶんは、冷蔵庫に入れておいた。行ってきます、と言うと、お父さんは、テレビのほうを向いたまま、ああ、とだけ答えた。
お父さんは、日中、ひとりになる。杖をつけば、家のなかは歩ける。でも、それだけだ。学校にいるあいだ、わたしは何度も、家のことを考えた。転んでいないか。むせていないか。考えても、どうにもならないのに、考えることを、やめられなかった。
◇
一時間目に、また遅刻した。
担任の田辺先生が、廊下でわたしを呼び止める。
「宮下、今月これで三回目だぞ。二年の一学期の出席は、進路に響く」
「はい。すみません」
家のことは、話さなかった。話したところで、どうにもならない。先生の目は、わたしを、やればできるのにやらない生徒として見ている。その目のなかに、うちの朝を置く場所は、どこにもなかった。
机のいちばん奥に、県外の大学のパンフレットが入っている。児童文学の勉強ができる学部の紹介。もらってから一度も、家に持って帰っていない。持って帰る資格が、自分には、ないと思っていた。
昼休み、藤田さんが席まで来た。図書委員を一緒にやっていたころは、本の話で、よく笑いあった。
「紗季、駅前に新しい本屋できたの、知ってる? 放課後、行かない?」
行きたい、と一瞬だけ思った。紙とインクの匂いのする場所に、時間を気にせず立っていたい。棚のあいだを、端から端まで歩きたい。
けれど、耳のうしろで声がした。
「お父さんが待ってるわよ」
わたしは、鞄の持ち手をにぎった。
「ごめん。今日は、用事があるから」
用事、という言葉が、自分でも嘘くさく聞こえた。藤田さんは、そう、とだけ言って、離れていく。その背中を見送ることしか、わたしにはできなかった。断るたびに、なにかが少しずつ、遠くなっていく。それでも、しかたがないと思う。わたしには、帰らなければいけない家があった。
◇
帰り道、神宝町の商店街のはずれにある、いつものスーパーに寄った。
かごに入れるものは、だいたい決まっている。やわらかい介護食のパック。紙おむつ。減塩の味噌。薬を飲みやすくするためのゼリー。自分のためのものは、ほとんど入っていない。
財布を開いて、小銭を数えた。卵を、棚に戻そうか迷う。今月は、少し厳しい。あと十日を、この財布で回さないといけない。
その手の横から、誰かが卵のパックを取った。
顔を上げると、知らない大人が立っていた。しわの寄ったアロハシャツ。細い目は、笑っているのか閉じているのか、わからない。手にしたかごには、お酒と、煙草しか入っていなかった。昼間から、こんな買い物をする大人を、わたしは知らない。
変な人だ。わたしは、そう思った。
その人は、わたしのかごを、上からのぞきこんだ。介護食を、紙おむつを、ゼリーを、順番に。値踏みするのではなく、ただ、読んでいるみたいだった。それから、ゆっくりと視線をずらす。わたしの、うしろへ。
そこには、誰もいない。棚と、蛍光灯の白い光があるだけだ。
なのに、その人の目は、たしかに、誰かの顔を見ていた。
「毎朝、起こしてくれるんですかぁ」
のんびりと、間延びした声だった。わたしの手が、止まる。
「……何のことですか」
「お母さんですよ」
指の力が、抜けた。卵のパックが、床に落ちる。殻の割れる音がして、黄身が白いタイルにひろがった。
しゃがんで拾おうとした。でも、手が動かない。その人は、割れた卵を見ていない。わたしのことも、見ていない。わたしの、すぐうしろを見ている。誰もいない、そこを。
まるで、そこに立っている誰かと、目の高さを合わせるように、その人は、少しだけ首をかたむけた。
「でも、お母さん」
やわらかい声だった。子どもに言い聞かせるみたいな、やさしい声。
「娘さん、もう起きてますよ」
その瞬間、耳のうしろで、お母さんの声がした。いつもより、低く。
「この人と、話しちゃ駄目」
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
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