表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アリアドネの指先  作者: 藤井寺市絵
知恵を呑む機械
6/15

職人の意地

 翌朝、リネットはエルザを作業場へと呼び出した。

 昨夜、回廊の闇で聞いた言葉が、今も耳の奥で毒のように回っている。

(私は、ただの不安定な土台だったのか。私の知恵は、私を消すためにあったのか)

 リネットは一睡もせず、机にかじりついていた。昨夜の言葉が、針を運ぶ指をいっそう冷たく、鋭く加速させる。


「エルザ様、もう一度だけ、私に賭けていただけませんか」


 リネットの手元には、狂ったような密度で書き込まれた、ドレスの新しい「回路図」があった。

 それは市場で見つけた自動織機の弱点を突き、人間の指にしか不可能な領域をこじ開けるための、執念の結晶だ。


「リネット、でもお父様は……。機械の導入をほぼ決めてしまっているわ」


 エルザの声は弱々しい。彼女もまた、機械が約束する「安定」という誘惑に抗いきれずにいた。

 リネットは一歩踏み出し、エルザの手をしっかりと握った。その指先の針の痕が、エルザの柔らかな肌に触れる。


「機械にできるのは、統計に基づいた『平均的な最適化』だけです。でも、私は違います。私は、その日のあなたの体温、呼吸の深さ、ダンスの一歩目の踏み出し方までを読み取り、その瞬間のあなたのためだけに雫を分配することができます」


 リネットの言葉は、熱を帯びて加速する。

「機械は過去を記憶しますが、未来の『あなた』を予測することはできません。ドレスをあなたの肌の一部に変えられるのは、この銀の針を持つ人間だけなのです。自動織機が百滴使うところを、私は一滴で光らせてみせます。そうすれば、機械の維持費さえも無駄だと、男爵様に証明できるはずです」


 エルザは息を呑んだ。

 リネットの瞳に宿る、職人としての、あるいは技師としての苛烈な誇り。


「……一滴で? 本気なの、リネット」


「本気です。これが、私の戦いですから」


 エルザの瞳に、再び希望が灯る。それは昨日、市場の機械を見て感じた安堵よりも、ずっと危うく、けれど熱い輝きだった。

「わかったわ。信じさせて、リネット。あなたの魔法が、鉄の針に勝つのを」


 それは、彼女たちだけに通じる、静かな誓いだった。


 エルザが去った後、リネットは再び作業に没頭した。

 数時間が経過した頃、背後で扉が静かに開く音がした。


「リネット。あんた、また根を詰めてるね」


 振り返ると、そこには年配のお針子、マーサがいた。

 その手には、湯気の立つ温かなスープの皿がある。マーサはリネットの師であり、この家で唯一、リネットの技術を自分のことのように喜んでくれる女性だった。


「マーサ……ごめんなさい、気づかなくて」


「いいよ。でもね、その目は危ない。自分の命を削ってまで何かを成し遂げようとする者の目は、いつの時代も見ていて怖くなるものだよ」


 マーサは皿を机の端に置き、リネットの荒れた指先を悲しげに見つめた。

「あんたの技は、この家を救った。でもね、リネット。あんまり早く走りすぎると、周りが追いつけなくなる。……私たちの居場所まで、あんたの光で焼き切っちまわないか、それだけが心配なんだよ」


「……そんなこと、しません」


 リネットは短く答え、再び針を手にとった。

 マーサの言葉は、今のリネットには届かなかった。

 彼女の頭の中にあるのは、一滴の雫をいかにして「永遠」に変えるか、という演算だけだった。

 マーサは寂しげに微笑み、音を立てずに部屋を去った。


 一刺し、また一刺し。

 針が布を穿つ音は、もはや悲鳴のようにも、あるいは高らかな凱歌のようにも聞こえた。

 リネットは笑っていた。

 自分の存在を消し去ろうとする巨大なシステムを、たった一本の銀の針で突き崩そうとする。その無謀な挑戦だけが、今の彼女に呼吸を許していた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ