職人の意地
翌朝、リネットはエルザを作業場へと呼び出した。
昨夜、回廊の闇で聞いた言葉が、今も耳の奥で毒のように回っている。
(私は、ただの不安定な土台だったのか。私の知恵は、私を消すためにあったのか)
リネットは一睡もせず、机にかじりついていた。昨夜の言葉が、針を運ぶ指をいっそう冷たく、鋭く加速させる。
「エルザ様、もう一度だけ、私に賭けていただけませんか」
リネットの手元には、狂ったような密度で書き込まれた、ドレスの新しい「回路図」があった。
それは市場で見つけた自動織機の弱点を突き、人間の指にしか不可能な領域をこじ開けるための、執念の結晶だ。
「リネット、でもお父様は……。機械の導入をほぼ決めてしまっているわ」
エルザの声は弱々しい。彼女もまた、機械が約束する「安定」という誘惑に抗いきれずにいた。
リネットは一歩踏み出し、エルザの手をしっかりと握った。その指先の針の痕が、エルザの柔らかな肌に触れる。
「機械にできるのは、統計に基づいた『平均的な最適化』だけです。でも、私は違います。私は、その日のあなたの体温、呼吸の深さ、ダンスの一歩目の踏み出し方までを読み取り、その瞬間のあなたのためだけに雫を分配することができます」
リネットの言葉は、熱を帯びて加速する。
「機械は過去を記憶しますが、未来の『あなた』を予測することはできません。ドレスをあなたの肌の一部に変えられるのは、この銀の針を持つ人間だけなのです。自動織機が百滴使うところを、私は一滴で光らせてみせます。そうすれば、機械の維持費さえも無駄だと、男爵様に証明できるはずです」
エルザは息を呑んだ。
リネットの瞳に宿る、職人としての、あるいは技師としての苛烈な誇り。
「……一滴で? 本気なの、リネット」
「本気です。これが、私の戦いですから」
エルザの瞳に、再び希望が灯る。それは昨日、市場の機械を見て感じた安堵よりも、ずっと危うく、けれど熱い輝きだった。
「わかったわ。信じさせて、リネット。あなたの魔法が、鉄の針に勝つのを」
それは、彼女たちだけに通じる、静かな誓いだった。
エルザが去った後、リネットは再び作業に没頭した。
数時間が経過した頃、背後で扉が静かに開く音がした。
「リネット。あんた、また根を詰めてるね」
振り返ると、そこには年配のお針子、マーサがいた。
その手には、湯気の立つ温かなスープの皿がある。マーサはリネットの師であり、この家で唯一、リネットの技術を自分のことのように喜んでくれる女性だった。
「マーサ……ごめんなさい、気づかなくて」
「いいよ。でもね、その目は危ない。自分の命を削ってまで何かを成し遂げようとする者の目は、いつの時代も見ていて怖くなるものだよ」
マーサは皿を机の端に置き、リネットの荒れた指先を悲しげに見つめた。
「あんたの技は、この家を救った。でもね、リネット。あんまり早く走りすぎると、周りが追いつけなくなる。……私たちの居場所まで、あんたの光で焼き切っちまわないか、それだけが心配なんだよ」
「……そんなこと、しません」
リネットは短く答え、再び針を手にとった。
マーサの言葉は、今のリネットには届かなかった。
彼女の頭の中にあるのは、一滴の雫をいかにして「永遠」に変えるか、という演算だけだった。
マーサは寂しげに微笑み、音を立てずに部屋を去った。
一刺し、また一刺し。
針が布を穿つ音は、もはや悲鳴のようにも、あるいは高らかな凱歌のようにも聞こえた。
リネットは笑っていた。
自分の存在を消し去ろうとする巨大なシステムを、たった一本の銀の針で突き崩そうとする。その無謀な挑戦だけが、今の彼女に呼吸を許していた。




