効率の誘惑
その夜、リネットは中庭に面した回廊の影で、足を止めた。
開け放たれた男爵の執務室から、低い話し声が漏れ聞こえてきたからだ。
「……見てみなさい、エルザ。これが我が家の新しい『帳簿』だ」
男爵の落ち着いた、けれど確かな喜びに満ちた声。
リネットは息を潜め、冷え切った石壁に背を預けた。
「リネットがこの一ヶ月で節約してくれた『星の雫』は、計八百滴。金貨に換算すれば、これだけの額になる。彼女の知恵は、まさに我が家の救世主だ」
リネットの胸が、一瞬だけ誇らしさに高鳴る。
自分の工夫が、確かにこの家を、あるいはエルザを救っている。その事実に。
だが、男爵の言葉は、リネットの期待とは全く別の方向へと流れていった。
「だがな、エルザ。考えてもみなさい。リネットは一人の人間だ。彼女が病に倒れれば、あるいは誰かに引き抜かれれば、この節約の魔法は一瞬で消える。我々の未来を、個人の『善意』や『体調』という、あまりに不安定な土台の上に置いておくわけにはいかないのだよ」
重厚な紙がめくられる乾いた音が、静かな回廊に響いた。リネットは、男爵が広げたアリアドネ――自動織機のパンフレットを指差しているのを想像した。
「見てごらん。この機械の売り文句には『全反射の回路』とある。リネットが自慢げに語っていた言葉と、まったく同じだ。帝国の最新のエンジニアリングの粋を集めたこの黄金の機械なら、彼女の技を、寸分違わずコピーして永遠に実行し続けることができる。彼女に支払っている給金と、雫の節約分を合わせれば、数年でこの機械のローンは完済できる計算だ。そうすれば、我が家は二度とお針子の顔色を窺う必要はなくなる」
「でも、お父様……リネットは私の大切な友人ですわ。彼女がいなくなったら……いいえ、そんなこと、彼女に言えません」
エルザの声は震えていた。リネットの指先が、自分の胸元をぎゅっと握りしめる。
「いなくなるとは言っていない。ただ、彼女に『頼りすぎる』必要がなくなるだけだ」
男爵の声は、どこまでも優しく、そして合理的だった。
「エルザ、これはリネットを疎んじているのではない。むしろ逆だ。彼女を重労働から解放し、機械が自動でドレスを光らせるのを見守るだけの、もっと楽な立場へ置いてやることもできる。……人間は間違えるが、機械は間違えない。そして機械は、自分たちの居場所を主張したりもしないからな」
回廊に吹き抜ける夜風が、急に冷たくなったように感じられた。
男爵が語っているのは、リネットという「人間」の価値ではなく、彼女が生み出した「成果」という名のデータの価値だった。
リネットは自分の両手を見つめた。
エルザのために、家の再興のために、必死で磨き上げてきた技。
それが、皮肉にも自分という人間をこの家から追い出すための、最も鋭い刃になろうとしていた。
執務室からは、男爵が将来の展望を語る明るい声が続いている。
リネットは音を立てないよう、闇に紛れてその場を去った。
背後で聞こえる「効率」と「安定」という名の幸福な笑い声が、リネットの耳には届かなかった。




