針を置く日
自動織機アリアドネが、最後の駆動音を響かせて静止した。
モニターに表示された「無駄な雫の消費量」の数値は、零。
リネットが心血を注いだ最適化は、ついに理論上の限界を超え、完全な「正解」へと到達したのだ。
「終わったのだな、リネット」
背後から、男爵の穏やかな声がした。
リネットが振り向くと、男爵は満足げに、アリアドネが吐き出した一点の曇りもない銀の回路を見つめていた。その横には、すでに社交界の寵児としての地位を不動のものにしたエルザの姿はない。彼女は今、王宮へ向かうための最後の準備に追われているはずだった。
「はい。これ以上、雫を節約する余地はどこにもありません。私の知恵は、すべてこの機械の中に注ぎ込みました」
リネットの声は、自分でも驚くほど平坦だった。
指先には、ただ冷たい納得感だけが残っていた。
「素晴らしい。君は我が家の、いや、この国の針子の歴史を塗り替えたのだよ」
男爵はリネットに近づくと、彼女が右手に握っていた銀の針を、そっと、しかし拒絶を許さない力で取り上げた。
「もう、君が針を刺す必要はない。指を傷つけ、目を酷使する日々は今日で終わりだ。これからは、このアリアドネの油を差し、エラーが起きないか見張るのが君の仕事だ。これがお針子よりずっと楽な『管理職』というものだ」
男爵は取り上げた針を丁寧な所作でケースにしまい、内ポケットに収めた。
「お針子ギルドにも報告しておいたよ。君の功績により、もはや熟練の技術などという不確実なものに頼る時代は終わったと。彼らも、この圧倒的な効率の前には口を噤むしかなかった」
リネットは、空になった自分の右手を見つめた。
十数年、彼女の体の一部だった銀の針。その重みが消えた場所には、ただ雫が尽きたときのような、底のない空白だけが残されていた。
「おめでとう、リネット。君は自由になったのだよ」
男爵はリネットの肩を優しく叩くと、勝利を確信した足取りで工房を去っていった。
工房には再び、機械の待機音だけが規則正しく響き始めた。
リネットは一人、アリアドネの前に立ち尽くしていた。
右手の空白を埋めるように、彼女は左手をそっと自分の髪へと伸ばした。
指先が、冷たい銀の針に触れた。




