第53話 台風②
先生を拭き終えた私は、タオルを自分の首にかける。先生は名残惜しそうにそれを見つめていたけど、ため息をついて車のワイパーを動かした。
「それじゃあ、柊」
「はい」
先生はハンドルを握り、キザっぽいポーズをとる。え、なにそれ??
「どこに行きたい?」
「私の家に送ってください」
しばし見つめ合う私たちの間に、変な時間が流れる。猛スピードで動くワイパーの音だけが車内に響く。
「いや、そうなんだけどさ……」
最終的に先生は悲しそうに呟いて、車を発進させた。……いや、こんな台風の中、どこに行くというのか。
盛大な水しぶきを上げながら、車は雨の中を走ってゆく。
道はすんなり……とはいかなかった。あちこちで冠水や土砂崩れが起きていて、私たちは迂回に迂回を重ねる羽目になる。
「うーん。この道も駄目かー」
「引き返すしかないだろうな……」
スマホの地図を見ながら言う私に、先生はハンドルを切りながら応じる。
「この先スーパーあるんですけど、そっち曲がってみてください」
「いや、その先は高架下をくぐるだろ? あそこも冠水してると思う」
……この人、やけに道詳しくない? 道路マニアとか?
「だからもう少し進んで、コンビニ挟んだところを右に曲がろう」
「ちょっと狭いですけど……」
「分かってる」
先生の運転は迷いがなくて、正直すごいと思う。でも私はふと、妙な違和感を覚えた。
「もしかして先生、普段から私の家の周り走り回ってます?」
「いや、そんな事してたらストーカーだろ。怖いこと言うな」
「や、なんかありえそうだなーって」
先生は鼻で笑いながら、さらっと言う。
「でもネット地図のストリートビューで、柊とのドライブデートの計画立てたことはある」
「……なにそれ」
「すぐ着かないように、わざと遠回りするルート探したりすると……幸せな気持ちになるんだ」
「……アホなの?」
やっぱり相変わらずだった。
冠水地帯を抜けて、車はようやく安心できるエリアに出た。少し安堵した私は、何気ない雑談を投げてみる。
「この車、外車ですよね? 教師って儲かるんですか?」
「外車だけど、残念ながら中古。教師はそんなに儲からん」
「そうなんだ。じゃあ先生と結婚する人は大変ですね」
「いや、柊を幸せにするのに十分な収入はある」
……これはスルーしよ。
「中古でも高いんでしょ?」
「全然。車屋の友達から買ってるし、軽の新車より安いぞ」
よく分からないけど、そういうもの?
「新品の車は買わないんですか?」
「そうだなぁ……」
先生は少し考えてから、まっすぐ前を向いたまま言った。
「柊と結婚して、一緒に住み始めたら買うよ」
今日何度目かのドヤ顔を決めてくる。
「買えないなら買えないって、素直に言えばいいのに」
「でも、五年以内にはなんとかしたいよなぁ……」
「車の話ですよね?」
「いいや。結婚に決まってるだろ」
「聞こえなーい」
私はまた、スルーすることにした。
* * *
嵐の中、やっとの思いで家に着いた。風は少しマシになったけれど、相変わらず雨はザーザー降りしきっている。
「ドア開けるから待ってろ」
「いや、自分で開けます」
「ダメ」
そう言うなり先生は素早く車を降り、傘も差さずに助手席のドアを開けてくれる。二人で慌てて玄関のひさしの下へ駆け込む。
「……よし。じゃ、気をつけてな」
いや、もうドアの前なんですけど。さっき車内でだいぶ乾きかけていた先生は、車からここに来るまでにまたびしょ濡れになっている。
「ちょっと待っててください、バスタオル持ってきますから」
「いや、いらない」
「ダメです、風邪引きますって」
「いや、雨で風邪引いたことないし。俺、丈夫だから」
……なにそれ、子どもみたいな理屈。そんな押し問答をしていると――ガチャリ、と玄関のドアが開いた。
「……あら、三山先生? 二人で何してるの?」
そこに立っていたのは、ママだった。先生は即座に爽やかな笑顔を浮かべて背筋を伸ばす。
「柊さん、いつもお世話になっております。葉月さんの安全確保のため送らせていただきました」
「まあまあ、わざわざ……ありがとうございます」
先生と母の挨拶合戦が始まった。矢継ぎ早に繰り出される母の質問に、先生はハキハキと答える。互いに頭を下げあってキリが無い。
「では、私はこれで」
先生が話を切り上げようとしたそのとき。
「いいえ、そのままでは風邪をひいてしまいますわ。どうぞ中へ」
「いえ、立場上そういったことは……」
「上がってくださいな」
「ですが……」
「車庫は一台分空いておりますから、そこに停めて――速やかに、中へ」
母はにっこり微笑んだまま、一歩も引かない。言葉はやわらかいのに、有無を言わせぬ圧。
先生は困ったように私へ視線を送ってきたけれど――気づかないふりをしてやった。
* * *
先生は家に入るなり、お風呂場へと連行されていく。
「先生、脱いだ服はこちらの籠に入れてください。着替えは主人の服でよろしいかしら? ごめんなさいね?」
「いえ、お気遣いなく……」
先生が浴室に消えるのを見送って、私は二階の自室へ。鞄はゴミ袋に入っていたおかげで無事だった。
首にかけっぱなしだった先生のタオルを椅子に掛け、制服から部屋着へと着替えを済ませる。
軽く髪を整えつつリビングへ下りると――。
「おかえり、葉月」
「ただいま、パパ」
まさかのパパがいた。……先生、大丈夫かな?
「今日は帰ってくるの早かったんだ?」
「台風で電車が止まる前に、と思ってな」
パパは仏頂面で淡々と答える。正直、うちの父は『いかにも頑固』って顔でとっつきにくい。中身も、それなりに厳しいし。
普段は帰りが遅いけど、今日は珍しく『晩酌してから晩ご飯』のコースっぽい。
「しかし……雨が酷いな」
「うん、あちこち冠水してたよ」
「そうか」
ビールに小さく口をつけながらテレビを見ている。そして今、うちのお風呂に入ってる先生のことには一切触れない。それが逆に怖かった。
しばらくして、先生がリビングに顔を出す。
「お風呂までいただきまして、ありがとうございます」
湯上がりの三山先生は新鮮で、ちょっとキュンとした。けど同時に、パパの鋭い眼光が先生に突き刺さる。
怒ってるように見えるけど、元からこんな感じだから。先生頑張って。
先生は、ここでも営業スマイルで社交辞令を繰り出すと、早々に帰ろうとする気配を見せた。
「では私はこれで。お借りした服は――」
「先生、今夜はご覧のとおりの天気です。泊まっていってください」
「えっ? いや、その……立場上そういったことは……」
「こんな天気の中、娘を家まで送ってくれた恩人を、また嵐の中帰せと? この私に言うのですか?」
しばしの沈黙。先生の瞬きの音だけ聞こえてきそうだった。
パパは先生の言葉を待つことなく、低い声で言う。
「ママ、グラスをもう一つ頼む」
先生が答えるより先に、もう酒席に組み込まれていく。……これ、パワハラでは?
っていうか、マジで? えっ? 泊まるの?
「葉月、あなたもさっさとお風呂入ってらっしゃい」
「あ、うん」
ママに急かされて、私はお風呂場へと向かう。
色んなドキドキが入り混じる夜が――始まった。




