第52話 台風①
「朝イチで来ない台風ってさ。ちょっと性格悪いと思わん?」
「性格っていうか、まぁ」
いよいよ台風直撃か!? となった今日。台風はここから少し南の辺りで停滞しているらしい。
いつも通り賑やかな教室で、私はミカと二人、窓から空を見上げている。
「休みにもならんし、電車止まるかもしれんし。嫌なヤツだなぁ、もう!!」
プンスコ怒るミカの隣で、私は遠くの黒い雲を見つめた。
空は予報通りに黒く染まり、ついに雨が降り始める。
――放課後の進路指導室。
私はいつも通り机に向かって問題集を解く。鉛筆を走らせる音だけが部屋に響く中、ただただ淡々と時間だけが過ぎていく。
三山先生は隣の机で書類に目を通しつつ、ときどき私の質問に答えてくれる。そして二人でコーヒーを啜り、一息つく。
そんなことを何度か繰り返しているうちに、いつの間にか窓ガラスがガタガタと揺れ始めていた。
……んー、台風が近づいてきたのかな。
私は窓の方向をボンヤリと確認して、視線を手元に戻す。
「そろそろ帰ったほうがいいぞ」
「んー。もうちょっとだけ……」
先生が言うけれど、私は机にかじりついた。なんか今日は妙に頭が冴えている。せっかくだし、キリが良いところまで進めたい。
大問の(1)を解き終えたそのとき。ガチャッとドアが開いて、校長先生が顔を出した。私はチラリとだけ目を向ける。朝礼で見飽きた顔だ。
「……君たち、こんな時に何を?」
「勉強です」
「監督責任があるので残ってます」
私の短い返事に続くように、三山先生と校長のやり取りが始まる。二人の会話を聞き流しながら問題を解いていると、校長先生は深いため息をついた。
「……もうこの学校には君たち以外おらんよ」
「「えっ?」」
私と三山先生は窓の外を見る。
「校内放送を聞いてなかったのかね?」
校長先生は眉をひそめるけど、聞いた覚えは無い。ていうか部屋のスピーカー、今まで鳴ったことあったっけ?
三山先生と校長も顔を見合わせて、壊れてるのか? なんて話をしながら天井を見上げている。
「とにかく、今すぐ帰りなさい」
その言葉と同時にゴロゴロと雷鳴が轟き、風に煽られた雨が窓を強く叩く。慌ててスマホを取り出すと、その画面は運休情報の通知で埋め尽くされていた。
「うわっ、電車止まってる……」
「親に連絡は取れるか?」
咄嗟に漏れた私の声に、先生は慌てる様子もなく聞いてくる。母に連絡を入れようとスマホを操作したその時、校長先生がすかさず口を挟んだ。
「いや。もう三山先生が送っていきなさい」
え、いいの? 先生大喜びじゃんと思って横を見ると……三山先生は意外にも渋い顔をする。
「この状況ですし、そうしたいのはやまやまですが……規則もあるので」
生徒の送迎は公共交通を使うのが原則、らしい。先生と校長がそんな話をしている。
けれど校長は腕を組み、わざとらしく視線を逸らした。
「三山先生。私は今ね、何も見ていないし、何も聞いていない。だから君が生徒を車に乗せて送っていっても、気づくことはない」
校長は頭をポリポリと掻きながら「君たちが帰らないと、私も帰れないからな」と言葉を残し、背を向けて去っていく。
残された私たちは何となく……顔を見合わせた。
* * *
二人の鞄は新品のゴミ袋にまとめて突っ込まれ、先生が脇に抱えている。
目の前には吹き荒れる風と、視界がかすむほどの大雨。校舎を叩く音が轟々とうねっていた。
「あっちに見える、グレーの車が俺のな」
先生は嵐にかき消されそうな声で指し示す。車まで数十メートル。けれど、この大雨じゃさらに遠くに思える。
「鍵を開けたら『せーの』で駆け足。俺が助手席のドアを開けるから、柊はそのまま飛び込め」
「え、この格好のままですか? 車の中、びちゃびちゃになりません?」
私は先生に借りた半透明のカッパをずっぽり被っていた。それでも、足元はもうずぶ濡れだ。
「ああ。気にするな。そのまま乗れ」
「……分かりました。ていうか、ドアくらい自分で開けられますけど?」
「いや、風が強い。柊がドアに挟まれたら困る」
先生はそう言って車のキーを操作し、ピッとライトが点滅する。そして、私の前に手を差し出してきた。
「繋ぎませんよ」
思わずそう口にした私に、先生は真顔のまま。
「いや、念のため。……下心はもちろんあるけど、心配の方が強い」
下心、あるんだ……。そんなツッコミも、吹き荒れる嵐の音にかき消される。結局私は、その風に背中を押されて、先生の手を――握った。
「よし、行くぞ。駆け足といっても全力で走るなよ? こけないのが最優先!」
「……分かりました」
「「――せーのっ!」」
私と先生は手を繋いで、てってこと走り出す。……えっ? 擬音がおかしい? でも、しょうがないでしょ。
この風と雨、ほんとマジですごいんだって! ズダダー! って走ったら、絶対にコケるやつ。
「先生! 前見えてるの!?」
笑えるくらい視界が真っ白で、目を開けていられない。
「大丈夫! 眼鏡があるから守られてる!!」
いや、逆に見えにくそうなんだけど? でも正直、不本意ながら――手を繋いでて良かった、って思った。
私は車の助手席に滑り込み、先生はそのまま後部座席のドアを開けて二人分の荷物を放り込む。車の周りをぐるっと回って運転席に飛び込んだ先生は、ハンドルに手をかけながらこっちを見て笑う。
「……柊、びっしょびしょだな」
「いやいや、先生のほうが。私はカッパの勝利だから」
ずぶ濡れの先生と、勝ち誇った私。
先生はドアポケットの辺りからヨレヨレのマイクロファイバーを取り出し、眼鏡を拭いていた。
「先生がカッパ着たら良かったのに」
私はカッパの前ボタンを外しながら言う。
「柊がずぶ濡れになることを、俺が望むと思うか?」
「うーん……思わなさそう」
その辺りはこの人、ちゃんとしてるし。私の言葉を聞いた先生は、濡れた髪をかき上げながらドヤ顔をしていた。……なんでドヤ顔?
そのまま後部座席に手を伸ばして、ビニール袋からタオルを取り出す。
「俺のお風呂セットだけど、使うか? ちゃんと洗ってある」
お風呂セットって何? ちょっと気になる。
「いや、先生が先に使ってください」
「俺はいい。そのうち乾くだろ」
そう言って、先生は私のおでこにタオルを押し付ける。こういう時の押し問答で先生が折れることはまずないので、しぶしぶ前髪と顔だけ拭いた。
それ以外はほとんど濡れてないので、「はい、次は先生」とタオルを差し出す。
「後ろに置いといて。エアコン寒くないか?」
「え? 私が拭いた後のタオル使いたいとかじゃないの?」
先生の手が止まった。
「……柊、俺をそんな変態だと思ってたの?」
「思ってます」
「……ちゃんと家に持って帰って保管した方が良いだろ」
……もっと変態じゃん。
呆れたような顔で気持ち悪いことを言うので、私はタオルで先生の顔と首をゴシゴシ拭いてやった。
「やめろ! タオルが汚れる!!」
「いや、タオルは汚れるものだし。先生、何言ってんの?」
その後、しっかりと二度拭きしてあげた。
――嵐はまだまだ止みそうにない。




