来襲警戒
その日の夜、蓮司は高橋家を訪れていた。いつもより静かなリビングに、落ち着かない空気が漂っていた。
テーブルの上には、啓介のノートパソコンと何枚かの資料。沙耶は蓮司の隣に座り、さっきから何度もスマートフォンを確認していた。
「まだ始まらないの?」
「宗一さんの接続待ちです」
啓介が答えた直後、ノートパソコンから短い電子音が鳴った。
画面に父の顔が映る。
『悪い、遅れた』
「大丈夫です。こちらも今からです」
蓮司は画面越しの父を見る。最後に会ったのは少し前だが、こうして顔を見ると妙に安心する。
「父さん、聞いた?」
『宮坂胡春のことだろ。啓介さんから聞いた』
宗一の声はいつもより低かった。
啓介がパソコンの向きを調整してから、蓮司と沙耶へ目を向ける。
「では始めましょう。まず、今日の件ですが――正直、こちらの想定より状況は悪いです」
「胡春が東京に来たからですか?」
蓮司が聞くと、啓介は首を横に振った。
「それだけではありません。問題は、彼女が蓮司君の生活圏をかなり正確に把握していたことです」
胡春と会ったのは自宅のすぐ近く、それも高橋家へ向かう道の途中だ。
「偶然じゃないってことですよね」
「そう考えるのが自然です」
「でも、村は俺の住所なんて知らないはずじゃ……」
「そのはずでした」
啓介は即答した。
「蓮司君の住居情報は、かなり限定された範囲でしか共有していません。学校についても同じです。私との関係まで把握されているとなると、どこかから情報が漏れている可能性があります」
「漏れてるって……政府の中から?」
「可能性の一つです」
『村の出身者がいるかもしれない』
画面の向こうで宗一が言った。
蓮司は父を見る。
「政府に?」
『役所の中とは限らない。関係機関、委託先、警察、学校。情報に触れる人間は一人じゃない』
「宗一さんの言う通りです」
啓介が頷く。
「政府内の内通者、あるいは月代村と繋がりのある人物。現時点ではどちらも否定できません」
「そんなの、分かるんですか?」
「調べます。ただし、すぐに特定できるとは限りません」
蓮司はテーブルへ視線を落とした。東京なら、少なくとも月代村よりは安全だ。そう思っていた。
なのに胡春は、自宅のすぐ近くへ当たり前のように現れた。切ったばかりの髪にまで気づいていた。
「あのさ」
沙耶が口を開いた。
「今さらなんだけど、そもそも何でそこまで村に気を遣うの?」
「沙耶?」
「だって変じゃない? 村は百人ちょっとしかいないんでしょ。政府なら、本気でどうにかしようと思えばどうにかできそうじゃん」
啓介はすぐには答えなかった。
沙耶は続ける。
「危ないのは分かるよ。でも、村の人が東京まで来て好きに動けて、こっちは協定だとか何だとか気にしてる。そこまで月代村って強いの?」
しばらくして、啓介は小さく息を吐いた。
「この機会に話しておきましょうか」
「何を?」
「月代村が、なぜ今まで残っているのかです」
蓮司も顔を上げた。
村の歴史については、ほとんど知らない。家にあった本にも月代村の詳しい記録などなかったし、長老たちから教えられた覚えもない。
啓介はテーブルの資料を一枚取り上げた。
「月代村に関する最も古い記録は、奈良時代の末期までさかのぼります」
「奈良時代って……千年以上前?」
沙耶が目を丸くした。
「ええ。ただし、当時から今と同じ村だったとは限りません。あの土地に人が暮らしていたという記録です」
啓介は資料をめくる。
「長い歴史の中で、朝廷も幕府も月代村と接触してきました。ですが、あの村を支配下に置いたという記録は残っていません」
「なんで? 山奥だから?」
「それもありますが、もっと大きな理由があります」
啓介は一度言葉を切った。
「殺せないからです」
「……殺せない?」
「村の中にいる彼らは、異常なほど死ににくい。普通なら致命傷になる怪我も治ってしまう。もちろん、不死身ではありませんが」
蓮司は自分の手を見た。
村にいた頃、怪我がすぐに治るのは当たり前だった。外へ出て初めて、それが普通ではないと知った。
「攻め込んだ側は兵を失うのに、村の人間は傷を負っても立ち上がる。そんな相手を、当時の武力で制圧するのは難しかったのでしょう」
「……割に合わないってこと?」
「簡単に言えば、そうです」
沙耶は難しい顔で資料を見つめた。
「そして、近代に入ってからも村の扱いは大きく変わっていません」
「近代って、どの辺?」
「政府内で特によく知られている事例は、太平洋戦争末期のものですね」
蓮司にも、それくらいは分かる。
脱出後の勉強で、日本が敗戦した戦争についても学んだ。
「当時、軍部の一部が本土決戦を強く主張していたことは知っていますね?」
「うん」
「その理由の一つに、月代村の存在があったと言われています」
「……え?」
今度は蓮司が声を出した。
啓介は蓮司を見る。
「確定した公式記録ではありません。残っている資料も断片的です。ただ、当時の軍部の一部が、月代村の人間を本土防衛に利用できると考えていた形跡があります」
自分と同じ血を持つ人間を、戦争に利用しようと考えた者がいたのかもしれない。そう思うと、気味が悪かった。
『そもそも、村の連中が軍の思惑どおりに動くとも思えないがな』
宗一が画面の向こうで言った。
「ええ。それに、連合軍をあの山奥まで誘導できたかも疑問です。構想がどこまで具体的だったのかも分かっていません」
「いずれにせよ、月代村の特殊性が昔から知られていたことに変わりはありません」
啓介は資料をテーブルへ戻した。
「……つまり、今でも力ずくでどうにかするのは難しいってことね」
沙耶が呟いた。
「ええ。ですが、今の私たちが優先すべきなのは、村を制圧することではありません」
「じゃあ、何?」
「胡春さんが、どうやって蓮司君の居場所を突き止めたのか。その経緯を明らかにすることです」
啓介は蓮司へ目を向けた。
「今回の件で、これまでの警戒では足りないことがはっきりしました。警戒態勢をさらに強めます」
「具体的には?」
「蓮司君の住居周辺や学校、移動経路を再確認します。情報にアクセスできる人間も洗い直す。しばらくは、一人で不用意に行動しないでください」
「学校は?」
「現時点では予定通りです。ただし、状況次第では変更します。登下校は、なるべく沙耶と一緒にしてください」
「……分かりました」
「それと、沙耶も一人での行動は控えてください」
「私も?」
「当然です。今日、あなたも胡春さんと直接会っています」
「でも、狙われてるのは蓮司でしょ?」
「ええ。だからこそ、蓮司君のそばにいるあなたも巻き込まれる可能性があります。村側が第三者を使って接触してくることも考えられます」
沙耶は少し黙った。
「……分かった」
蓮司は隣に座る沙耶を見た。
いつも助けてもらっているのに、自分と関わったせいで彼女まで危険な目に遭うかもしれない。
何か言おうとしたが、うまく言葉が出てこなかった。
その後も細かな確認が続いた。知らない人物に声をかけられた場合、自宅周辺で不審な車を見た場合、学校で月代村に関係しそうな人物を見かけた場合。
蓮司は一つずつ聞きながら、夕方に会った胡春を思い出していた。柔らかな声で笑い、無理に連れ戻すつもりはないと言っていた。
では、今日は何のつもりで来たのだろうか。
「啓介さん」
「はい」
「胡春は、そのあとどこに行ったんですか?」
啓介はすぐに答えた。
「確認できています」
「どこへ?」
「東京駅から新幹線に乗り、名古屋で列車を乗り換えています。その後、長野方面へ向かったところまでは確認できました」
「じゃあ、もう帰ったんですか?」
「少なくとも、帰路についていると見ています。ただ、村へ戻ったと断言はできません」
蓮司は少しだけ肩の力を抜いた。
それでも、安心はできなかった。
胡春はわざわざ東京まで来て、自分の居場所を知っていると示した。それなのに、連れ戻そうともせず、笑って去っていった。
『蓮司さんが、ご自分から帰りたくなればよいだけですもの』
あの言葉が、まだ耳に残っている。
――どうすれば、自分からあの村へ戻りたくなるというのか。
月代村の場所は長野県です。
ちなみに、太平洋戦争時に大本営が置かれたのも長野県です(松代大本営)。
こうした地理的経緯から、当時の戦争指導者たちは、月代村を大本営を守る頑強な防御拠点として考えていました。
……という、バックストーリーがあります。




