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ファーストコンタクト

「というわけで、イメチェンします」


 自宅へ戻ってしばらくした頃、蓮司(れんじ)はリビングの椅子に座らされていた。


「どういうわけだよ」


「だって……入学前だし?」


「疑問形じゃん」


 背後に立つ沙耶(さや)は、ハサミと櫛を手にしていた。


「お前、最初から切るつもりだっただろ」


「まあまあ」


「学校で言ってた『やっぱ切るか』ってこれだろ」


「聞こえてた?」


「聞こえてた」


 沙耶は悪びれる様子もなく、蓮司の肩へケープを掛けた。


「動かないでね」


「本当に切れるのか?」


「切れるよ。自分の前髪もやるし、友達のも切ったことあるから」


「失敗したことは?」


「あるよ」


「今すぐやめろ」


「小学生の頃だから!」


 蓮司が立ち上がりかけると、沙耶が慌てた声を上げた。


「今はちゃんとできるって。嫌ならやめるけど」


「……本当に大丈夫なんだな?」


「任せて。変にはしないから」


 少し迷ったが、蓮司は椅子へ座り直した。


「じゃあ、頼む」


「はい、お任せください」


 途端に機嫌を良くした沙耶が髪に櫛を入れた。


「でも、いつも行ってる美容院じゃ駄目なのか?」


「駄目。私が切りたい」


「それ、お前の都合だろ」


「そうとも言う」


 楽しそうに笑いながら、耳元で小さくハサミを鳴らす。


 思っていたより手つきはよかった。伸びていた前髪を少しずつ切り、横を整え、後ろにも手を入れていく。


「ちょ、動かないで」


「近いんだよ」


「髪切ってるんだから当たり前でしょ」


 耳のすぐ横でハサミが鳴った。


「耳は切るなよ」


「切ってもすぐ治るじゃん」


「痛みは普通にあるんだよ」


「あ、そっか」


「忘れるな」


「でも小さい傷なら、今でもすぐ治るんでしょ?」


「村にいた頃ほどじゃないけどな。耳を少し切ったくらいなら、数十秒もあれば治ると思う」


「やっぱすごいね」


「だからって切っていい理由にはならないからな」


「切らないって」


 沙耶の指が前髪を持ち上げた。


「目、閉じて」


「なんで?」


「毛入るよ」


 言われた通り目を閉じた。


 しばらくすると、沙耶が指先で前髪を軽く払った。


「よし。開けていいよ」


 目を開けると、沙耶が手鏡を差し出してきた。


 目にかかっていた前髪が短くなり、以前より顔がはっきり出ている。横も軽くなっていて、全体的にかなりすっきりしていた。


「どう?」


「……上手いな」


「でしょ?」


 沙耶が得意そうに笑った。


 蓮司は鏡をもう一度見る。どこかで見たような髪型だった。


「でもこれ」


「ん?」


「お前の好みにしてない? なんか部屋にあったポスターに似てる気がするんだが」


 沙耶の動きが止まった。


 一秒ほどして、目を逸らす。


「三割くらい?」


「してるじゃん」


「似合ってるからいいでしょ」


「俺の髪なんだけど」


「嫌?」


 そう聞かれると困る。


 実際、嫌ではない。


「……別に」


「じゃあ決まり」


 沙耶は満足そうに頷いた。


 蓮司は鏡越しに彼女を見る。


「沙耶」


「なに?」


「これ、ただのイメチェンじゃないだろ」


 沙耶は一瞬だけ黙った。


「……なんで?」


「髪切る道具まで用意してる時点で、大体察しはつく。啓介さんに何か言われたのか?」


 沙耶は黙って蓮司を見た。


 誤魔化すかと思ったが、しばらくして小さく息を吐いた。


「……昨日ね。村の方で、ちょっと大きな動きがあったみたい」


 蓮司は鏡から目を離し、沙耶を見た。


「何があった?」


「そこまでは聞いてない。パパも詳しく話してくれなかったし」


「誰か村を出た?」


「可能性はあるって。今まで大人しかったのにね」


「俺を探しに?」


「それも分かんない」


 沙耶はそこで言葉を切った。


「だから、髪型くらい変えとけって。昔の写真とか、外に出てすぐの頃の情報で探してるなら、多少は意味あるかもしれないから」


「それなら最初から言えばいいだろ」


「……今日はずっと楽しそうだったからさ、いきなり村の話なんてしたくなかったの。……それに、イメチェンの方が楽しいでしょ?」


「お前な」


 沙耶は笑ったが、すぐに笑みを引っ込めた。


「でも、気をつけてね。村の人が東京に来ても、無理やり連れ戻したりはできないってパパは言ってたけど、何か変だと思ったらすぐ連絡して。うちもすぐ近くだし」


「分かった」


「私にもね」


「ああ。何かあったら連絡する」


 沙耶は小さく頷いた。


「じゃ、片づけよっか」


「結構切ったんだな」


「それだけ伸びてたってこと。ほら、そっちお願い」


「はいはい」


 二人で床に散った髪を片づけているうちに、窓の外は夕暮れの色に変わっていた。



 ◇



「じゃ、帰るね」


 薄手のコートを羽織り、玄関で靴を履いた沙耶が振り返った。


「俺も出る」


「どっか行くの?」


「途中まで一緒に行く」


「いいよ。すぐそこじゃん」


「だからだよ」


 高橋家までは、蓮司のマンションから歩いて十分もかからない。駅へ向かう道から少し曲がれば着く距離だった。


「まあ、蓮司がそうしたいならいいけど」


「なんでちょっと嬉しそうなんだよ」


「別に?」


 どう見ても嬉しそうだった。


 二人でマンションを出た。


 夕暮れの空の下、春先の風が少し冷たく感じられた。


「蓮司、入学したらさ」


 隣を歩く沙耶が口を開いた。


「朝、一緒に行く?」


「学校に?」


「そう」


「時間が合うならいいけど」


「……あっさりだね」


「嫌なのか?」


「嫌じゃないけど」


「じゃあいいだろ」


「うん。まあ、いいけどさ」


 沙耶は少しだけ頬を膨らませた。


 何が不満なのか、蓮司にはよく分からない。


 住宅街を並んで歩く。この辺りの道も、もうすっかり覚えた。数か月前までは一人で外を歩くこと自体が新鮮だったが、今では近所なら地図を見なくても歩ける。


 高橋家へ向かう角まで、あと少し。


 そのとき、沙耶の足がピタリと止まった。


「どうした?」


 返事がない。


 沙耶は前を見ている。


 蓮司も視線を追った。


 道の少し先に、一人の少女が立っていた。


 蓮司たちと同じくらいか、少し年上に見える。綺麗に整えられた長い黒髪に、落ち着いた色合いの薄手のコート。派手ではないのに、不思議と目を引く。


 少女はこちらを見ていた。


 目が合う。


 少女が微笑んだ。


 知らない相手のはずなのに、向こうは自分を知っている。


 そう思わせる笑顔だった。


「まあ。本当にいらっしゃったのですね」


 柔らかな声だった。


 沙耶が半歩、蓮司の前へ出た。


「……誰ですか、あなた」


「あら。これは失礼いたしました」


 少女は沙耶を見て、少し楽しそうに目を細めた。


「先に名乗るべきでしたね」


 蓮司へ視線を戻した。


「宮坂(みやさか)胡春(こはる)と申します」


 宮坂。


 その姓には覚えがあった。


「……宮坂?」


「はい」


「村長の……」


「孫娘です」


 胡春は嬉しそうに笑った。


「覚えていてくださったのですね」


 蓮司は彼女の顔を知らない。だが、宮坂家が月代村の中心にいる一族だということは知っている。


「どうして東京にいる?」


 蓮司が尋ねた。


「まあ、ずいぶん直接的ですね」


 胡春は口元へ指を添え、小さく笑った。


「もう少し、久しぶりの再会を喜んでいただけるかと思っておりましたのに」


「俺はあなたと会った覚えがない」


「蓮司さんには、そうでしょうね」


 胡春は笑顔のまま答えた。


 その言い方が引っかかった。


「それ、どういう――」


「蓮司」


 沙耶が遮った。


 いつの間にか、手にはスマートフォンが握られていた。


 胡春はそれを見ても、特に気にした様子はない。


「あなたが高橋さんのお嬢様でしょうか」


「……私のことも知ってるんですね」


「ええ。少しだけ」


 胡春は穏やかに答えた。


「そんなに警戒なさらなくても大丈夫ですよ。今日はお二人に何かするつもりはありませんから」


「今日は?」


 沙耶がすぐに拾った。


 胡春の笑みが少し深くなる。


「まあ。よくお気づきになりますね」


 からかうような声だった。


 それから胡春は蓮司を見た。


「髪型を変えられたのですね」


 蓮司は反射的に前髪へ触れた。


「よくお似合いですよ」


「……どうも」


「ですが」


 胡春はわずかに首を傾げた。


「蓮司さんを見間違えるほどではありませんね」


 蓮司は何も返せなかった。


 数時間前、沙耶が髪を切った理由を思い出す。


 胡春は一歩も近づいてこなかった。腕を掴むことも、帰れと言うこともなく、ただそこに立って微笑んでいた。


「ご安心ください。無理に連れて帰るつもりなどありませんよ。蓮司さんが、ご自分から帰りたくなればよいだけですもの」


「帰りたくなる?」


「はい。言葉通りの意味です」


 胡春はそれ以上説明しなかった。


「さて、私はこの辺でお暇させていただきますね。またお会いしましょう、蓮司さん」


 そう言い残して、胡春は二人の横を通り過ぎていった。


 すれ違いざま、ふわりと甘い匂いが鼻をかすめた。


 蓮司は思わず振り返る。


 覚えがある。


 どこで嗅いだのか、すぐには思い出せない。それでも、初めて嗅いだ匂いではなかった。


 胡春の足音が遠ざかり、やがて住宅街の向こうへ姿が消えた。


「……沙耶」


「何?」


「昨日、村で動きがあったんだよな」


「うん」


 沙耶も胡春が去った方を見ている。


 蓮司は短くなった前髪へ触れた。


「ここ、俺の家のすぐ近くだぞ」


「……そうね」


 しかも、高橋家にも近い。


 偶然通りかかったとは考えにくかった。


「住所まで知られてるのか?」


「分かんない。でも……」


 沙耶はすでにスマートフォンを操作していた。そして、そのまま耳へ当てる。


「パパ」


 少しして相手が出たらしい。


「昨日言ってた村の動き、当たりだった」


 沙耶の声が低くなる。


「月代(つきしろ)村の村長の孫が来てる。今、蓮司の家の近くで会った」


 その声を聞きながら、蓮司は胡春が消えた道へ目を戻した。


 さっきかすめた甘い匂いが、まだ鼻の奥に残っている気がした。

もしよければ、ブクマや評価、感想などをいただけますと幸いです。

これからも本作をよろしくお願いいたします。

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