これから
目を覚ましたとき、蓮司は一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
見慣れない白い天井。カーテンの隙間から差し込む朝の光。
昨夜の出来事を思い出し、ゆっくりと身体を起こす。
父さんが窓の格子を外したこと。月代村を逃げ出したこと。そして、高橋啓介の車に乗って、この家まで来たこと。
「……夢じゃないんだな」
机の上には、村から持ち出した手紙が置かれていた。昨夜、ここへ置いたときのままだ。
蓮司はベッドを降り、部屋を出た。
一階へ向かう階段の途中から、食べ物の匂いが漂ってくる。
「おはようございます」
リビングへ顔を出すと、啓介が振り返った。
「おはようございます。眠れましたか?」
「はい」
テーブルには宗一もいた。コーヒーカップを手にした父の姿を見て、蓮司は知らずに詰めていた息を吐いた。
「起きたか。まだ寝ててもよかったんだぞ」
「今、何時?」
「七時半過ぎだ」
「七時半……」
村にいた頃なら、とっくに朝の予定が始まっている時間だった。決められた時間に起き、決められたことをする。それが当たり前だった。
そのとき、廊下から足音が近づいてきた。
「パパ、おはよー」
明るい声とともに、一人の少女がリビングへ入ってくる。
蓮司と同じくらいの歳だろうか。肩より少し長い明るい茶髪は、毛先が緩く巻かれ、先端にはほんのりピンクが入っていた。
少女は蓮司を見ると、ぴたりと足を止める。
「あ。もしかして、昨日言ってた子?」
「そうです。御影蓮司君ですよ」
啓介が紹介すると、少女は蓮司の顔をじっと見た。
蓮司も、どう反応すればいいのか分からずに見返す。
村でも女性と接する機会はあった。けれど、教えられていたのは、あくまで村の決まりに沿った接し方だ。何の役目も関係なく、同年代の女の子と顔を合わせるのは初めてだった。
「沙耶」
啓介に呼ばれ、少女が我に返った。
「あ、ごめん」
すぐに笑顔になり、蓮司へ向き直る。
「高橋沙耶。この人の娘。よろしく、蓮司君」
「……よろしく」
「同い年くらい?」
「十四」
「じゃあ同い年じゃん。私も十四。敬語いらないからね」
「……分かった」
「うん、よろしく!」
(いきなりだな)
初対面なのに、驚くほど距離が近い。それでも嫌な気はしなかった。沙耶は村のことも、昨夜何があったのかも尋ねてこない。
「沙耶、先に朝食を食べないと遅れますよ」
「分かってるって」
啓介に返事をしながら、沙耶が席へ向かう。
「どこかに行くのか?」
蓮司が尋ねると、沙耶は不思議そうに首を傾げた。
「学校だけど?」
「……学校」
「うん。今日もあるし」
そう言って、沙耶は当たり前のように椅子を引いた。
朝になれば家を出て、同じくらいの歳の子たちが集まる場所へ行く。文通相手の手紙では何度も読んだ。けれど、それを目の前の誰かが何でもない日常として話すのは、初めてだった。
啓介に勧められ、蓮司もテーブルにつく。
沙耶が何気なく口にする学校の話を聞きながら、蓮司は何度もその言葉を頭の中で繰り返していた。
◇
朝食を終えると、沙耶は二階へ戻り、制服に着替えてきた。
「じゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
啓介が答える。
「蓮司君、またね」
「……うん。また」
沙耶が軽く手を振り、玄関へ向かう。ほどなくして扉の閉まる音がした。
蓮司は、その音がした方をしばらく見ていた。
「蓮司君」
啓介に呼ばれ、振り向く。
「これからのことを、少しお話ししておきましょう」
「はい」
宗一もコーヒーカップを置いた。
「まず、月代村についてです。もう朝ですから、君がいなくなったことは村にも知られているでしょう」
「……やっぱり」
「格子も外したままだ。俺が連れ出したことも、すぐに分かる」
宗一の言葉に、蓮司は母の顔を思い浮かべた。
「追ってくる?」
「ああ。遅かれ早かれな」
逃げたことを後悔してはいない。それでも、母さんが今ごろどうしているのかを考えずにはいられなかった。
「村の人がここまで来たら、どうなるんですか?」
蓮司は啓介に尋ねた。
「その場合はこちらで対応します。ただ、先に知っておいてほしいことがあります」
啓介は二人の顔を見てから続けた。
「月代村は、治外法権ではありません。日本の法律は、あの村にも適用されています」
治外法権という言葉は、以前読んだ本に出てきたことがある。意味は分かる。だからこそ、啓介の説明には疑問が残った。
「……だったら、どうして今まで?」
男は自由に家から出られない。逃げられないように窓へ格子まで取り付けられている。
それでも日本の法律が通じるというなら、なぜ今まで放っておかれたのか。
「政府は、以前から月代村のことを把握しています」
啓介が静かに答えた。
「ただ、過去の経緯と村の特殊な事情から、政府は村の内部の慣習や自治へ、原則として深く介入しないという取り決めを結んでいます」
「それって、村の中なら何をしてもいいってことですか?」
「いいえ。法律が適用されないわけではありません。ですが、村の中へ直接介入することには、政府も非常に慎重になっています」
蓮司は膝の上で手を握った。
自分が生まれてから十四年間、あの暮らしは続いていた。外の人間が村のことを知っていたとしても、簡単に変えられるものではなかったらしい。
「一方で、村の外では事情が違います」
啓介の言葉に、蓮司は顔を上げる。
「村の人が外へ出てくること自体は禁止されていません。君に会ったり、話をしたり、自分の意思で戻るよう説得したりすることもできます」
「説得は、できるんですね」
「はい。しかし、暴力を振るうことや、拘束して無理やり連れ戻すことは認められません」
「もし、そうされたら?」
「こちらが介入します」
啓介は迷わず答えた。
「君が一人で何とかしようとする必要はありません。何かあれば私たちに知らせてください」
「……分かりました」
蓮司は頷いた。ただ、村の人間が説得のために来ることまでは止められない。その点だけは、頭に残った。
「それから、君の身体についても確認が必要です」
「俺の身体?」
「月代村の人たちは、傷の治りが一般の人より非常に早いことを、こちらでも把握しています」
蓮司は宗一を見た。
「……俺たちって、そんなに違うの?」
「かなりな。俺も村を出るまで、あれが普通だと思ってた」
宗一が答える。
蓮司にとっては、転んで擦りむいた傷がすぐに治るのも、昔から当たり前のことだった。
「村の外だと、違うんですか?」
「違います。村を離れたことで、君の身体に変化が出ている可能性もあります。まずは一度、状態を確認してもらう予定です」
「病院に行くんですか?」
「そう考えてもらって構いません」
啓介の答えに、蓮司は頷いた。
今まで当たり前だと思っていたことが、村の外では当たり前ではない。知らないことは、まだいくつもありそうだった。
「そして、これからの生活についてです」
その言葉に、蓮司は自然と身を乗り出した。
「俺、これからどうなるんですか?」
「まず数日は、この家で過ごしてもらいます。その後は、こちらで用意した住居へ移ってもらう予定です」
「父さんも一緒?」
「いや」
宗一が答えた。
「俺にはまだやることがある。だから一緒には住まない」
「……また、いなくなるの?」
四年前の朝が頭をよぎる。目を覚ましたら父さんはいなくなっていて、いつ戻るのかも分からなかった。
「違う」
宗一はすぐに首を振った。
「連絡はいつでも取れるようにする。必要なら会いに行く。お前からは逃げないって、昨日約束しただろ」
「……うん」
昨夜も聞いた言葉だった。それでも、もう一度確かめずにはいられなかった。
「もちろん、完全に一人きりにするつもりはありません」
啓介が続ける。
「住居の安全はこちらで確認していますし、何かあればすぐ連絡できるようにします。必要な手続きや見守りについても、宗一さんと相談しながら整えます」
「十四歳でも、一人で住めるんですか?」
「通常とは事情が異なりますからね。無理のない形になるよう、こちらで調整します」
「一人で暮らせるかな……」
「無理なら頼れ」
宗一が言った。
「俺でも、啓介さんでもいい」
ずいぶん簡単に言うものだ。
けれど、困ったときに頼れる相手がいる。そう考えると、少し肩の力が抜けた。
「それから、勉強も始めてもらいます」
啓介が話を続けた。
「まずは、これまでにどの程度の勉強をしてきたか確認します。そのうえで、足りない部分を補っていきます。期間は数か月を見込んでいます」
「数か月……」
蓮司は少し迷ってから、尋ねた。
「そのあとって、学校に行けますか?」
「その予定です」
「本当に?」
「はい。来年の春から、高校へ通えるよう準備を進めます」
「高校……俺が?」
「そうです」
「毎日、外に出て?」
「もちろんです。学校が休みの日でも、自由に外へ出られますよ」
蓮司は黙った。
ついさっき、沙耶は制服を着て、当たり前のように玄関から出ていった。
朝になれば家を出る。学校へ行き、授業を受ける。それと同じことを、自分もできる。
「……行きたいです」
声に出すと、胸の奥が少し熱くなった。
「では、それを目標にしましょう」
啓介が頷いた。
――学校へ行く。
月代村にいた頃は、そんな日が自分に訪れるとは思ってもみなかった。
いつか、自分も制服に袖を通し、当たり前のように玄関を出て学校へ向かう。
そんな日が来るのだと思うと、胸が高鳴った。
蓮司はその朝を思い浮かべ、そっと口元を緩めた。
もしよければ、ブクマや評価、感想などをいただけますと幸いです。
これからも本作をよろしくお願いいたします。




