格子のない窓
神社を離れてから、どれくらい走ったのか。蓮司には見当もつかなかった。
小石を踏むたび、足の裏に鋭い痛みが走る。土や枯れ葉もまとわりついていたが、立ち止まって払う余裕はなかった。
「もう少しだ」
前を走る宗一が言った。
「もう少しって、どこまでだよ」
「車を隠してある場所までだ」
それだけ答えて、宗一は走り続ける。
村の中を車が走るところなら、蓮司も何度か窓越しに見たことがある。自分が乗ったことも、まったくないわけではない。病気で深夜に診療所へ運ばれるときや、十三歳のお披露目で神社へ向かうときだ。
けれど、どこかへ行きたいから車に乗る、という考えはなかった。行き先を決めるのは、いつも自分以外の誰かだった。
やがて道が細くなり、両側を木々に囲まれた場所で宗一が足を止めた。
「着いた」
木々の陰に、黒い車が停まっていた。
蓮司たちが近づくと、運転席の扉が開く。
「ご無事でしたか」
降りてきたのは、見知らぬ男だった。
四十代くらいだろうか。暗い色の上着を着ていて、物腰も落ち着いている。
「そちらが?」
「ああ。息子の蓮司だ」
男が蓮司へ目を向けた。
「御影蓮司君ですね」
「……はい」
「私は高橋啓介と申します。蓮司君のお父さんに協力している者です」
啓介は名乗ったきり、それ以上近づこうとはしなかった。
「詳しいお話は、安全な場所に着いてからにしましょう。まずは車に乗ってください」
安全な場所。
そんなものが本当にあるのだろうか。蓮司は宗一を見た。
「この人が、さっき言ってた国の人間?」
「ああ」
「本当に?」
「疑うのも無理はありません」
答えたのは啓介だった。
上着の内ポケットから手帳のようなものを取り出し、蓮司へ見せる。開かれた面には、写真と名前、細かい文字が並んでいた。
「身分証です」
「……これが本物なのか、俺には分かりません」
啓介は一瞬きょとんとしたあと、小さく笑った。
「それもそうですね」
手帳をしまい、穏やかな声で続ける。
「今は無理に信じなくても大丈夫です。ただ、君を月代村へ連れ戻すつもりはありません」
「……分かりました」
信用できたわけではない。けれど、宗一はこの男を頼りにしている。それだけは分かった。
宗一が後部座席の扉を開け、置いてあった袋を取り出した。
「蓮司、これ使え」
中に入っていたのは、靴と上着だった。
「……靴、あるじゃん」
「ああ」
「だったら家まで持ってきてくれればよかっただろ」
「格子を外す道具と縄があったからな。あの家の周りじゃ、できるだけ身軽でいたかったんだ」
「だから裸足で走らせたのかよ」
「車までの辛抱だと思ってた。悪かったな」
「……ほんとだよ」
蓮司は靴を受け取り、道端に腰を下ろした。足の裏についた土や小石を払い落としてから履く。
「どうだ?」
「ちょっと大きい」
「十四の男の靴のサイズなんて分かるか」
「知らないのに買ったのかよ」
「裸足よりましだろ」
それはそうだった。
上着も少し大きかったが、着てみると夜風を直接受けずに済んだ。さっきまで寒さを感じる余裕すらなかったことに、ようやく気づく。
「今度こそ乗れ」
宗一に促され、蓮司は後部座席へ乗り込んだ。宗一は助手席に座る。
「蓮司、シートベルト」
「分かってる」
肩の横からベルトを引く。久しぶりのせいか少し手間取ったが、金具を差し込むと、カチッと音がした。
「これでいいだろ」
「ああ」
啓介も運転席へ戻った。
「では、出ます」
車がゆっくりと走り出す。
窓の外を木々が流れていく。
「どこに向かってるんですか?」
「まずは村から離れます。そのあと、私の家へ。今夜はそこで休んでもらう予定です」
「啓介さんの家?」
「はい」
蓮司はそれ以上聞かなかった。
窓の外には暗い山道が続いている。ときどき家らしき影が見えても、どこを走っているのか分からない。村の中でさえ自由に歩いたことがないのだから、当然だった。
しばらくして、蓮司は前へ身を乗り出した。
「父さん」
「何だ」
「まだ村の中?」
「いや」
「え?」
「もう出た」
蓮司は窓の外を見た。相変わらず、暗い山道が続いている。
「……いつ?」
「少し前だ」
「少し前って」
「境界に門があるわけじゃないからな」
蓮司は言葉を失った。
山がある。木がある。道がある。村の中と何も変わらない景色だった。
十四年間、一度も越えたことのなかった境界を、気づかないうちに越えていたらしい。
(……こんなに、あっけないのか)
ポケットに手を入れると、折り畳んだ紙が指先に触れた。あの部屋から持ち出した、文通相手の手紙だ。
それを確かめて、ようやく少しだけ実感が湧いた。
本当に出たのだ。
月代村から。
◇
山道を抜けるにつれ、建物が増えていった。
街灯が道路を照らし、明かりのついた家が並ぶ。こんな夜更けにもかかわらず、ほかの車とすれ違うこともあった。
蓮司は窓の外を眺めたまま口を開いた。
「父さん」
「何だ」
「四年間、何してたんだよ」
宗一は、すぐには答えなかった。
「……最初は、自分が生きるだけで精一杯だった」
「村を出てから?」
「ああ。住む場所も仕事も必要だった。それに、村の連中は俺を探してた」
母さんも、いつか父さんを見つけると言っていた。
「……本当に探してたんだ」
「ああ。何度か見つかりそうになった」
「じゃあ、ずっと逃げてたの?」
「それだけじゃない」
宗一が助手席から少しだけ振り返った。
「お前を村から出すために動いてた」
「俺を?」
「ああ」
そこで啓介が口を開いた。
「宗一さんから月代村の事情を伺って、こちらでも調査を進めていました。蓮司君を連れ出せたとしても、すぐに連れ戻されては意味がありませんから」
「それで四年?」
「はい。住まいや身分関係、教育など、村を出てから必要になることも準備してきました」
蓮司は助手席の背中を見つめた。
四年前、何も言わずにいなくなった父。自分を置いて逃げたのだと、ずっと思っていた。
事情があったことは分かる。あの村を一人で出るのがどれほど大変だったかも、今なら少しは想像できる。
それでも、四年間は長すぎた。
「……俺はずっと村にいた」
「ああ」
「父さんが何してるのかも知らなかった」
「ああ」
宗一は言い訳をしなかった。
謝ってほしいのか、もっと理由を聞きたいのか。自分でもよく分からない。ただ、四年間の空白を、今聞いた説明だけで埋められるはずがなかった。
しばらくして、宗一が口を開く。
「悪かった」
蓮司は窓の外へ顔を向けた。
「……今さらだよ」
「ああ」
その声に返す言葉は、もうなかった。
◇
「着きましたよ」
啓介の声で顔を上げた。
いつの間にか、窓の外は静かな住宅街に変わっていた。車は二階建ての家の前に停まっている。
「ここ?」
「はい。今夜はここで休んでください」
蓮司は車を降りた。長く座っていたせいか、足元が少し頼りない。
玄関へ向かおうとすると、啓介がその足元を見た。
「その前に、足を洗いましょうか」
「足?」
靴を見下ろして、ようやく思い出した。土や枯れ葉をざっと払っただけで、そのまま履いていたのだ。
「玄関の横に水道があります。少し待っていてください」
啓介は家の中から石鹸とタオル、それにサンダルを持って戻ってきた。
「洗い終わったら、これを履いてください」
「ありがとうございます」
靴を脱ぎ、蛇口の水で汚れを落とす。石鹸で洗っても特に痛みは無かった。
タオルで拭いてサンダルを履く頃には、土の感触もすっかり消えていた。
「これで大丈夫です」
「では、中へどうぞ」
「……お邪魔します」
家の中に足を踏み入れる。
知らない家だった。廊下も、階段も、何もかも見慣れない。
「もう遅いですから、詳しいお話は明日にしましょう」
啓介に案内された二階の一室には、ベッドと机、小さな棚が置かれていた。
「ここを使ってください。何かあれば下にいますから、呼んでくださいね」
「ありがとうございます」
啓介が部屋を出ていく。宗一もその後に続こうとした。
「父さん」
「何だ」
「……明日もいる?」
宗一が足を止める。
「ああ」
「逃げない?」
少しだけ間があった。
「お前からは逃げない」
「……ならいい」
宗一は小さく笑った。
「おやすみ」
「おやすみ」
扉が閉まると、部屋は静かになった。
蓮司はポケットから手紙を取り出し、机に置く。折り目には少し皺がついていたが、なくさずに持ってこられた。
ベッドへ向かおうとして、窓が目に入った。
カーテンを開けると、知らない住宅街の灯りが広がっていた。蓮司は窓に手をかけ、そっと開ける。
冷たい夜風が流れ込んできた。
そのまま、手を外へ伸ばしてみる。
指先は何にも遮られず、夜の空気に触れた。
蓮司はしばらく、その手を見つめていた。
窓の向こうに、格子はなかった。




