月下の逃亡
表現が少し過激なところがありますので、苦手な方はご注意下さい。
シャワーを浴びても、気分は晴れなかった。
濡れた髪をタオルで拭きながら、御影蓮司は自分の部屋へ戻った。白いTシャツに黒いハーフパンツ。もう寝るだけなので、裸足のままだ。
部屋には蓮司しかいない。さっきまでここにいた女の子は、もう帰っていた。
誰だったのかは知らない。顔は隠されていたし、名前を尋ねることも許されていない。十三歳のお披露目を終えてから、それが当たり前になっていた。
蓮司はベッドの端へ腰を下ろした。
シーツの一部にはまだ湿り気が残っている。石鹸とは違う、ほんのり甘い香りも漂っていた。誰もいなくなった部屋に、それだけがさっきまで女の子がいたことを残している。
湿った場所を避けて座り直し、窓の外を見た。格子の向こうには、白い月が浮かんでいる。
秋の月は綺麗だ。少なくとも、それくらいのことは本で教わらなくても分かる。
窓のすぐ外には、太い金属製の格子がはめ込まれていた。鍵で開閉するものではない。壁に直接固定されていて、窓を開けても、その先へ手を伸ばすのがせいぜいだった。
物心ついた頃には、すでにそこにあった。父さんが使っていた部屋にも同じものがあったから、子供の頃は不思議に思ったことすらない。
月代村の男は、家の中で暮らすのが慣わしだ。
病気や神事などの理由がなければ外へ出られず、出るとしても人目の少ない深夜に限られる。勉強も運動も家の中。必要なものは村の女たちが届けてくれる。
格子も、そんな暮らしの一部だった。大切な男を守るためだと、母さんや長老衆から教えられてきた。
「……守るため、か」
口にしてみても、素直には頷けなかった。
窓から庭を見下ろす。塀の向こうには道があり、その先には村の学校もあるらしい。
村の女の子たちは、毎日そこへ通っている。それを教えてくれたのは、密かに文通している同い年くらいの女の子だった。
名前は知っている。けれど、顔は知らない。
会ったことは――たぶん、ない。
十三歳のお披露目の日、神社の境内には大勢の女性がいた。その中にいたかもしれないし、それ以降、夜にこの家を訪れた誰かだった可能性もある。もしかしたら、今さっき部屋に来ていた女の子がそうなのかもしれない。
夜の役目では、相手は顔を隠していて、名前を尋ねることも許されていない。だから文通相手がこれまでにこの部屋へ来たことがあるのかどうか、蓮司には確かめようがなかった。
文通のきっかけは、ある日、届けられた本に挟まっていた小さな紙だった。
『一日中家の中にいて、暇じゃないの?』
たしか、そんな内容だった。
暇だったので手紙の裏に返事を書き、同じ本に挟んで返却した。すると、しばらくして別の本から返事が出てきた。
それ以来、ときどき手紙が届くようになった。学校で何をしたとか、友達と何を話したとか、帰り道で何を見つけたとか。どれも蓮司には経験のないことばかりだった。
それでも、手紙を読むのは好きだった。
蓮司の毎日は、ほとんど変わらない。母さんや長老衆から勉強を教わり、本を読み、身体を鍛える。食事の時間も決まっている。十三歳を過ぎてからは、夜にも予定が入るようになった。
誰が来るのか。何時に来るのか。それを決めるのは蓮司ではない。
昔は、それでいいと思っていた。
いや、それ以外の生き方を知らなかっただけなのかもしれない。
カチッ。
小さな音がした。
「……?」
蓮司は窓に目を向けた。気のせいかと思ったが、また鳴った。
カチ。
金属同士が触れるような音だった。
立ち上がって目を凝らすと、格子の端で何かが動いている。
人の手だった。
「っ――!?」
「声を出すな」
窓の外から低い声がした。
身体が固まった。
四年間、一度も聞いていない。それでも、その声はすぐに分かった。
「……父さん?」
「久しぶりだな、蓮司」
格子の向こうに男の顔が現れた。
御影宗一――四年前に村から逃げた、蓮司の父親だった。
記憶より少し痩せ、髪も短くなっていた。それでも、見間違えるはずがない。
「なんで……」
「静かにしてろ」
宗一は小さな器具を格子の留め具に当てていた。ほとんど音を立てず、一つずつ固定を外していく。
最後の一つが外れた。
宗一は格子を両手で支え、用意していた縄を回してゆっくりと地面へ降ろした。格子が下に着くと、縄を引き戻す。
蓮司は黙って見ていた。
格子がなくなった。それだけで、見慣れた窓が別のものに見えた。
宗一が窓を開ける。夜風が一気に部屋へ流れ込み、それに続いて宗一が窓枠を越えて入ってきた。引き戻した縄を、窓際の柱に結びつける。
「大きくなったな」
四年ぶりに会った最初の言葉が、それだった。
腹の底から苛立ちが込み上げた。
「何しに来たんだよ」
「お前を迎えに来た」
「は?」
「蓮司」
「俺を置いて逃げたくせに」
「分かってる」
「母さんが何て言ってたか知ってるか?」
「だいたいはな」
「父さんは――」
「今はそれどころじゃない」
低い声で遮られた。
「悪い。その話は後で全部聞く」
「……何だよ」
「今夜、村から逃げる。俺とお前でだ」
(……今夜? 俺が、この村から?)
「ちょっと待って」
「待てない」
「四年ぶりに突然来て、いきなり逃げるって?」
「そうだ」
「何で今なんだよ」
「お前を村の外で受け入れる準備が整った。今なら、逃げたあとまで守れる」
「だったら、四年前に一言だけでも言ってくれれば――」
「できるわけないだろ」
「何でだよ」
「十歳のお前に計画を話したら、静香か長老に話してた」
「俺を信用してなかったのか?」
思わず声が大きくなりかけた。
「あの頃のお前なら間違いなく話した」
「今は違う」
「ああ。だからこうして直接来た。現に、お前は俺を見ても母さんを呼ばなかった」
蓮司は言葉に詰まった。
四年前なら、宗一を見つけた瞬間に母さんを呼んでいたかもしれない。今は、むしろ声が廊下まで届かないよう気にしている。
「外には車を準備してある。村を出れば、俺たちを保護してくれる人間もいる」
「誰だよ」
「国の人間だ」
「国?」
「説明は外でする」
「そんなの信じろっていうのか?」
「全部信じなくていい」
宗一が窓の外へ目をやった。
「ただ、時間がない。見回りが来る前に出る」
蓮司は動けなかった。
「蓮司」
「待って」
「何だ」
「俺が行かないって言ったら?」
宗一は少し黙った。
「置いていく」
「……また?」
「ああ」
腹が立った。
「そんな怖い顔するな。無理やり連れていったら、村の連中と同じだろ」
何も言えなくなった。
「自分で決めろ」
自分で。
その言葉が耳に残った。
何を食べたいか。どの本が欲しいか。そういうことなら聞かれる。
けれど、ここで生きたいかと聞かれたことは一度もない。
十三歳のお披露目の日を思い出した。
久しぶりに家の外へ出され、連れていかれたのは村の神社だった。夜の境内には灯籠が並び、その明かりの向こうに大勢の女性が集まっていた。年寄りも、母さんくらいの人も、自分と歳の変わらなさそうな女の子もいた。
拝殿の前に立つと、一斉に視線が集まった。あんなに大勢の人間に見られたのは、生まれて初めてだった。
『おめでとう』
『大きくなったわね』
『立派になったね』
『これから村のために頑張ってね』
みんな笑っていた。隣にいた母さんも嬉しそうだった。
その日を境に、蓮司の生活にはそれまでになかった役目が加わった。
村の血を絶やさないため。男として生まれた者の役目だから。
理由を尋ねても、返ってくる答えはいつも同じだった。
嫌だと言ったらどうなるのか。そんなことを考えたことすらなかった。
男は村のために生きる。
それが当たり前だった。
四年前、宗一が姿を消した日のことを話す母さんは、いつもと同じように笑っていた。
『あの人は、村を捨てたの』
怒鳴りもしない。泣きもしない。ただ、穏やかなまま続けた。
『でも大丈夫よ。いつか見つけるから』
そして、少しだけ目を細めた。
『捕まえたら、今度は二度と逃げられないようにしてあげないとね』
十歳だった蓮司は、その言葉を深く考えなかった。
長老衆からも、宗一は男としての役目を捨てた裏切り者だと教えられた。何より、自分を置いて逃げたことが許せなかった。
けれど最近、ときどき考えるようになった。
父さんは何から逃げたのだろう。
村からか。役目からか。それとも――。
どちらにしても、蓮司自身には選ぶ機会すらなかった。
「……外に行ったら、学校にも行けるのか?」
「行ける」
「普通に外を歩ける?」
「好きなだけ」
「本屋にも行ける?」
「もちろん」
「自分で本を選んで買えるのか?」
「金さえあればな」
少しだけ笑いそうになった。こんなときなのに。
けれど、すぐに母さんの顔が浮かんだ。
「母さんは?」
「連れていけない」
「追ってくるよな」
「間違いなく」
「村のみんなも?」
「黙ってはいないだろうな」
宗一は都合のいいことを何一つ言わなかった。外は安全だとも、幸せになれるとも言わない。
ただ、自分で決めろと言った。
蓮司はベッドを見た。
少し湿ったシーツ。机に積まれた本。外された窓の格子。
ここに残れば、明日も同じ一日が始まる。その次の日も。一年後も、もっと先も。
「……逃げたい」
気づけば、口から出ていた。
宗一は何も言わなかった。
「俺、ここから逃げたい」
今度は自分でもはっきり聞こえるように言った。
宗一が短く頷いた。
「なら行くぞ」
「荷物は?」
「いらない。持ってたら遅くなる」
「じゃあ、靴だけ」
「駄目だ。玄関まで取りに行くのは危ない。物音で気づかれる。裸足で行くぞ」
宗一が窓際へ戻り、縄の結び目を確かめた。
蓮司も後に続こうとして、机の上の本が目に入った。文通相手から届いた手紙が挟まっている。
蓮司が消えれば、母さんたちは部屋を調べる。これが見つかれば、書いた子まで疑われるかもしれない。
「ちょっと待って」
本を開き、折り畳まれた紙だけを抜き取った。
「それは?」
「手紙。置いていったら、書いた子が怒られるかもしれない」
小さく畳み、ハーフパンツのポケットへ押し込んだ。
「もういい」
「行くぞ」
宗一が先に窓から出た。固定した縄を伝って、地面へ降りていく。
蓮司も窓枠へ足をかけた。夜風がTシャツとハーフパンツだけの身体に当たる。
一度だけ部屋を振り返った。
ベッド。本棚。机。
十四年間、ほとんどの時間を過ごした場所だった。
明日の朝、母さんはここへ来るだろう。空になった部屋を見たとき、どんな顔をするのか。
「蓮司」
下から宗一の声がした。
「今行く」
蓮司は窓枠を越えた。縄を握り、裸足の足を壁へかける。ゆっくりと降り、地面へ足をつけた。
土の感触が、足の裏へ直接伝わった。
「こっちだ」
宗一が家の裏手へ走り出した。
蓮司も後を追った。小石を踏むたび足の裏が痛んだが、足は止めなかった。
家から離れてしばらくすると、もうどこを走っているのか分からなくなった。村の中を自由に歩いたことなんてない。蓮司はただ、宗一の背中を見失わないようについていった。
やがて、木々の向こうに見覚えのある石段が現れた。
十三歳のお披露目で連れてこられた神社だ。
宗一の後を追って石段の前を通り過ぎようとしたとき、鈴の音が聞こえた。
チリン。
思わず神社へ目を向けた。
石段の先、木々の間から見える社殿には灯りがともっていた。その明かりを背に、一つの細い人影が舞っている。
腕が上がるたび、鈴が鳴った。
「……神楽?」
本で読んだことがある。神様に捧げる舞だ。
顔も服装も見えない。女の子のようにも見えるが、ここからでは分からなかった。
「蓮司、行くぞ」
宗一に呼ばれ、前へ向き直ろうとした。そのとき、人影の動きが止まった。
こちらを向いていた。
チリン。
もう一度、鈴が鳴った。
蓮司は宗一を追って走り出した。
しばらくすると神社は木々に隠れ、鈴の音も聞こえなくなった。
蓮司は宗一の背中を追って、月代村の夜を走った。
ポケットの中では、持ち出した一枚の手紙が揺れていた。
十四年間、世界のすべてだった村を、蓮司はもう振り返らなかった。
いかがでしたでしょうか?
もしよければ、ブクマや評価、感想などをいただけますと幸いです。
これからも本作をよろしくお願いいたします。




