二人だけの静かな夜
時系列は「(幕間)帰郷と不和」の少し前から始まります。
五月十五日、土曜日の夜。
胡春が帰っても、沙耶は玄関に立ったままだった。
「……沙耶?」
蓮司が声をかけると、沙耶はようやく振り返った。
「……はぁ。なんか、どっと疲れた」
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫。……でも、せっかくお風呂入ったのに、嫌な汗かいちゃった」
沙耶は首元に手を当てた。
「悪いけど、もう一回シャワー浴びてきていい?」
「分かった。俺は湯呑みを片づけておくよ」
「ありがと。私が上がるまで、ちょっと待ってて」
沙耶が浴室へ向かうのを見送り、蓮司はリビングに戻った。
テーブルには、空の湯呑みが三つ残っていた。
(……あれだけ濃いお茶、よく平気で飲めたな)
沙耶がわざと濃く淹れたことには、気づいていた。
湯呑みを洗いながら、蓮司は先ほどの話を思い返した。
村の中を歩けて、月に一度は東京にも行ける。
長老衆の提案は、昔の蓮司なら喜んで受け入れたかもしれない。あの頃は、村の中を自由に歩くことさえ夢のような話だった。
それでも今は違う。
学校に通い、友達と遊ぶ。ようやく手にした日常を、誰かの許可が必要な暮らしと引き換えにはできなかった。
湯呑みを洗い終え、ソファに腰を下ろした。隣には、水族館のくじで当てた大きなペンギンが座っている。
しばらくくつろいでいると、沙耶が部屋着姿で戻ってきた。
「お待たせ! 蓮司、入っていいよ。着替えは脱衣所に置いといたから」
「ああ。行ってくる」
蓮司は浴室へ向かった。
浴室には、まだ温かな湯気が残っていた。
シャワーを浴びてから湯船につかると、一日の疲れが出てきた。水族館で過ごした楽しい時間が、ずいぶん昔のことのように思える。
水族館のあと、神社で美冬に指を噛まれ、その次は胡春の訪問。
まさか一日のうちに、村の少女二人から帰村を迫られるとは思わなかった。
(……明日は、何事もなければいいけど)
蓮司は湯船の中で目を閉じた。
風呂から上がり、脱衣所に用意されていた下着とシャツ、短パンに着替える。
リビングへ戻ると、沙耶がスマートフォンをテーブルに置いた。
「おかえり。パパには、さっきのこと全部伝えといたから」
「ありがとう。啓介さんには、世話になってばかりだな」
「そんなの気にしなくていいって。パパだって、蓮司のこと心配してるんだから」
「……そうだな」
「まだ返事は来てないけど、来たら知らせるね」
「ああ、頼むよ」
沙耶はスマートフォンを手に、立ち上がった。
「さて、そろそろ寝る準備しよっか」
「ああ。……そういえば、髪は乾かさないのか?」
「え?」
沙耶の肩にかかる髪は、まだ湿っている。
「あっ、忘れてた。今日はもう、頭が回んないや」
「風邪ひくぞ」
「分かってるって。……あ、そうだ!」
沙耶はにっと笑った。
「蓮司、ちょっと洗面所に来て!」
「何だ?」
「髪、乾かしてあげる!」
「いや、自分でできるけど……」
「いいから! せっかくのお泊まりなんだし」
「……それ、関係あるのか?」
「あるの!」
よく分からない理屈だったが、蓮司は沙耶に従った。
洗面所に入ると、沙耶がドライヤーを手に取った。
「蓮司、ちょっとかがんでくれる?」
「ああ、これくらいか?」
「うん、ありがと!」
蓮司が少し身をかがめると、沙耶はドライヤーのスイッチを入れた。
温かな風とともに、沙耶の指が髪をかき分ける。
「……蓮司、なんか緊張してない?」
「こういうの、慣れてないからな」
「ふふっ。いつも自分でやってることじゃん」
「人にやってもらうのとは違うよ」
「はいはい。じっとしててね」
沙耶は楽しそうに笑いながら、丁寧に髪を乾かしていった。
「はい、できた! じゃあ、次は蓮司が私の髪を乾かして」
「……俺が?」
「そう! お返しってことで!」
「ああ、分かった」
沙耶と場所を入れ替わり、ドライヤーを受け取る。
明るい茶髪には、濃いコバルトブルーのメッシュ。蓮司は毛先を慎重にほぐしながら風を当てた。
「熱くないか?」
「ううん、ちょうどいい。……蓮司、意外と上手じゃん」
「そうか?」
「うん。なんか、優しい」
鏡越しに目が合うと、沙耶は照れたように笑った。
「……こういうの、ちょっといいかも」
「そうだな。将来は美容師にでもなろうかな」
「えっ、意外とアリじゃん! 私もカット上手いし、一緒にお店やる?」
「一緒に?」
「そう! この家を魔改造して、二人の美容室にするの!」
「いや、啓介さんの家を勝手に改造するなよ」
「あはは! 冗談だって!」
蓮司もつられて笑った。
髪を乾かし終えた二人は、並んで歯を磨いた。
洗面所を出たところで、沙耶が突然足を止めた。
「あっ、忘れてた!」
「どうした?」
「ペンギン! リビングに置いたままだった!」
沙耶は慌ててリビングへ向かい、しばらくして大きなペンギンを抱えて戻ってきた。
「危なく一人ぼっちにさせるところだった! ごめんね」
沙耶がペンギンの頭を優しくなでる。
「それ、置く場所あるのか?」
「ちゃんとあるよ!」
「そうか」
そんなやり取りをしながら二人で二階へ上がると、廊下で沙耶が足を止めた。
「じゃ、おやすみ。蓮司」
「ああ。おやすみ、沙耶」
沙耶はペンギンを抱えて自室へ、蓮司は客室へ向かった。
◇
ベッドに横になっても、なかなか眠れなかった。
胡春の提案を断ったことで、村が次に何をしてくるか分からない。美冬のことも、まだ解決したわけではなかった。
それでも友達と笑って過ごす暮らしを手放すつもりはない。結菜から誘われたアルバイトにも挑戦したかった。
(……それにしても、今日は長かったな)
蓮司が寝返りを打ったとき、控えめに扉がノックされた。
「蓮司、まだ起きてる?」
「起きてるよ。どうした?」
「ちょっといい?」
「ああ」
蓮司が上半身を起こすと、沙耶が扉を開けた。手にはスマートフォンを持っている。
「パパから返事が来たよ」
「何て?」
「報告ありがとうって。宮坂さんの話は、帰ってから詳しく聞くってさ。あと、明日はお昼頃に戻るんだって」
「そうか」
「だから、パパは蓮司を車で送れないから、タクシーで帰ってほしいって。私が呼んでおくね」
「分かった。ありがとう、沙耶」
「うん。……それじゃ」
ところが、沙耶は部屋を出ようとしなかった。
「……沙耶?」
「ねえ、蓮司。お願いがあるんだけど」
「何?」
沙耶はスマートフォンを両手で握り、言いよどんだ。
「……今日、一緒に寝てもいい?」
「えっ?」
蓮司は思わず目を見開いた。
「ここで?」
「うん。……駄目?」
「駄目じゃないけど……」
美冬の事件から胡春の訪問まで、沙耶もずっと気を張っていた。一人になると心細いのかもしれない。
「……怖いのか?」
「ちょっとだけ。……あと、もう少し蓮司と一緒にいたい」
沙耶は目を伏せた。
蓮司は少し迷ったが、ベッドの端に寄った。
「狭いかもしれないけど、それでもよければ」
「……いいの?」
「ああ」
「……ありがと」
沙耶はスマートフォンを置き、明かりを消して布団に入った。二人は少し離れて横になる。
「……ねえ、蓮司」
「何だ?」
「今日、泊まってくれてありがとう」
「啓介さんが勧めてくれたんだし、俺も助かったよ」
「それでも、嬉しかったから」
間もなく、沙耶が蓮司の方へ寝返りを打った。
そっと腕が伸び、蓮司に抱きつく。
「……沙耶?」
「……こうしてても、いい?」
すぐそばで声がした。蓮司は返事に迷った。
女の子と同じベッドで朝まで眠るのは初めてだった。それでも、沙耶が安心できるならと、蓮司は頷いた。
「……ああ。おやすみ」
「うん。おやすみ、蓮司」
肩に回された腕の力が少し緩んだ。間もなく、静かな寝息が聞こえ始めた。
(……もう寝たのか。相当疲れてたんだな)
蓮司も目を閉じた。沙耶を起こさないようにしているうち、いつしか眠りに落ちていた。
◇
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む光で、蓮司は目を覚ました。
隣では、沙耶がまだ蓮司に腕を回したまま眠っている。起こさないようにしていると、沙耶がゆっくり目を開けた。
「……あれ? 蓮司?」
「おはよう、沙耶」
「…………え?」
沙耶は自分の腕に目を落とした。
「……っ!」
慌てて腕を離し、少し身を引いた。
「ちょ、ちょっと! なんで起こしてくれなかったの!?」
「今起きたところだよ。沙耶も気持ちよさそうに寝てたし」
「そ、それは……そうだけど!」
「一緒に寝たいって言ったのは沙耶だろ?」
「わ、分かってるってば!」
沙耶は顔を真っ赤にして、両手で顔を覆った。蓮司が笑うと、沙耶は指の隙間からこちらを睨んできた。
「……笑わないでよ」
「ごめん。でも、よく眠れたならよかった」
「……うん」
両手の向こうから、小さな返事が聞こえた。
◇
朝食には、昨夜冷蔵庫へしまっておいたクリームシチューを温め直し、パンを添えた。
「昨日より味がなじんでるね」
「そうだな。おいしいよ」
「……また一緒に作ろうね」
「ああ。今度は俺が味付けするって約束だったな」
「ふふっ。覚えてたんだ」
食器を片づけて歯を磨くと、蓮司は客室へ戻り、使った寝具を整え始めた。
「蓮司、いいよ。あとで私がやるから」
「でも、泊めてもらったんだし」
「いいのいいの。お客さんなんだから」
沙耶は蓮司の着ている服を見た。
「あ、そのシャツと短パンも洗っとくね」
「いや、このくらい持って帰って洗うけど」
「いいって! 洗濯機に入れるだけだし。下着以外は置いてって大丈夫だから」
「……じゃあ、お言葉に甘えるよ」
蓮司が昨日の服に着替えている間に、沙耶はタクシーを手配した。
車が着いたとの連絡を受け、蓮司は玄関で靴を履いた。
「今日はちゃんと休んでね。昨日、いろいろあったんだから」
「沙耶もな。泊めてくれてありがとう」
「……うん。また明日、学校でね」
「ああ。また明日」
タクシーに乗り込むと、沙耶が手を振った。蓮司も窓越しに手を振り返す。
車が角を曲がるまで、沙耶の姿が見えていた。
◇
蓮司を見送った沙耶は、しばらく玄関に立っていた。
車が見えなくなると、ようやく家の中へ戻る。
洗面所へ向かうと、蓮司がさっきまで着ていたシャツと短パンが、洗濯かごの脇に畳んで置かれていた。
「……もう。こういうところ、律儀なんだから」
沙耶は小さく笑って服を手に取った。
「……」
洗濯機には入れず、胸にそっと抱き寄せる。
そのまま二階へ上がり、昨夜蓮司と一緒に眠った部屋へ向かった。
部屋に入ると、静かに扉を閉め、鍵をかけた。
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