(幕間)帰郷と不和【挿絵あり】
本話には官能表現が含まれています。
苦手な方は本文を飛ばし、後書きをご覧ください。
五月十六日、日曜日。
宮坂胡春は、縁側から庭の桜を見上げた。
ピンク色の花はとうに散り、枝いっぱいに若葉が茂っている。時折吹く風に葉が揺れ、柔らかな日差しが縁側へ差し込んでいた。
東京都墨田区。
胡春の東京での拠点は、古民家を全面的に改修した一軒家だった。古風な外観とは対照的に、内部には現代的な設備が整えられている。
蓮司を説得するため、月代村が用意した仮の住まいだ。
「……そろそろ出かけましょうか」
昨夜、蓮司に伝えた長老衆の提案は断られた。
村に戻れば、村内を歩くことも、月に一度ほど東京へ出ることも認められる。ただし、どちらにも付き添いは必要だ。
『俺が欲しかったのは、そういう自由じゃない』
蓮司は、はっきりとそう告げた。
残念ではある。けれど、返事をそのまま持ち帰ると約束した以上、報告を怠るわけにはいかない。
胡春は身支度を済ませ、家を出た。
東京駅から新幹線で長野駅へ。そこからタクシーに乗り換え、山間部の団子屋を目指す。
車が市街地を離れた頃から、運転手が時折バックミラー越しに胡春を見ていた。
胡春が顔を上げると、ミラー越しに目が合う。運転手は少し気まずそうに視線を前へ戻した。
胡春は気に留めず、窓の外へ目を向けた。
しだいに家々が途切れ、辺りを深い緑が覆うようになった頃、運転手が口を開いた。
「お客さん、あのお店でよろしいですか?」
「はい。そちらでお願いします」
「帰りは大丈夫ですか? この辺りでは車もなかなかつかまりませんよ」
「帰りはこちらのお店でタクシーを呼んでいただくつもりです。ご心配ありがとうございます」
料金を支払って降りると、タクシーはすぐに走り去った。
道路脇にあるのは、古びた木造の団子屋だ。店先には品書きが出ていて、客の姿もある。
この店は、月代村が外との行き来に利用するために設けたものだった。
普段は団子屋として営業しており、村の関係者以外にも客が訪れる。そのため、村へ戻る者がここでタクシーを降りても、特に不自然には見えない。
胡春はタクシーが見えなくなったことを確かめると、店の脇へ回った。
周囲に人目がないのを確認し、建物の陰から木立の中へ続く細道に入る。
しばらく進むと、斜面の草木に隠された入口が見えてきた。
――寅の道。
月代村へ通じる地下通路の一つ。古くから十二支の名を冠した道が十二本あり、そのうち寅の道は約一キロに及ぶ。
入口を閉めた胡春は、懐中電灯を片手に奥へ進んだ。壁には電灯が点々と設けられているが、足元まではよく見えない。光を向けると、湿った地面が鈍く照り返した。
政府は、こんな地下通路が存在することさえ知らないはずだ。
胡春はそう信じていた。
道路に監視が置かれていても、森の中に隠された出入口までは見張られていない。だからこそ、地下通路を使えば、バレずに村と東京を行き来できるのだ。
やがて通路を抜け、地上に出た胡春は、長老衆の屋敷へと向かった。
◇
座敷には四人の老女が揃っていた。
胡春が正座して頭を下げると、正面の老女が促した。
「蓮司の返事を聞こうか」
「はい。……お断りする、とのことでした」
一人が湯呑みを置く音だけが響いた。
「理由は?」
「付き添いがいる以上、本当の自由とは思えないそうです。今の学校に通い、ご友人と会い、暮らす場所も自分で決めたいと」
「あれだけ譲ってやっても、不満だと言うのかい」
右手の老女が顔をしかめた。
「お主の説得が足りなかったんじゃないのか」
「申し訳ございません。ですが、蓮司さんのお考えは変わりませんでした」
昨夜、きっぱりと断った蓮司の顔が浮かぶ。声は落ち着いていたが、その意思が固いことは伝わってきた。
「私の判断で、お返事を曲げてお伝えするわけにはまいりませんので」
正面の老女が、胡春をじっと見た。
「……分かった。次のことはこちらで考える。下がっていいよ」
「承知いたしました」
胡春は一礼し、座敷を辞した。
報告を終えた胡春は、その足で村の中央にある宮坂家へ向かった。
屋敷に戻ると、母の香澄が出迎えてくれた。
「お帰りなさい、胡春」
「ただいま戻りました、お母様」
三十七歳になる母は、今日も襟元をきちんと整えている。いつも姿勢がよく、家のことにも手を抜かない人だ。
「長老衆への報告は済んだの?」
「はい。先ほど」
「そう。ご苦労さま。お茶を淹れるから、中に入りなさい」
居間では、祖母の宮坂胡乃が待っていた。七十一歳になる胡乃は、月代村の村長を務めている。
「お帰り、胡春。蓮司の返事はどうだった?」
「案の定、お断りでした」
胡春は祖母の向かいに腰を下ろした。
「だろうね。あれで帰ってくる子なら、そもそも逃げたりしないさ」
香澄がお茶を運んできた。胡春が口をつけると、苦みと香りが舌に広がる。
「……となると、あの四人まで出すことになるかもしれないね」
胡乃の言葉に、胡春は湯呑みを置いた。
「長老衆のお孫さんたちですか?」
「ああ。できれば出したくないよ。何をしでかすか分かったもんじゃない」
「長老衆の皆様も、お孫さんたちには甘いところがありますから」
香澄が控えめに口を添える。
「そうなんだよ。自分たちの孫となると、どうにもね。全く、どんな教育してるんだか」
胡乃は呆れたように鼻を鳴らした。
「もちろん、こちらからも牽制はしておくさ。ただ、長老衆の四人が揃って決めてしまえば、私にも覆せないけどね」
胡春も、長老衆の孫娘たちが東京へ来ることには不安があった。
彼女たちが蓮司にどう接するつもりなのか、見当もつかない。
「……そうならないといいですね。私たちでは、あの方たちを抑えるのは難しいでしょうから」
胡春はそう言うと、濃いお茶を飲み干した。
◇
東京へ戻る前に、胡春は香澄と共に敷地の奥に建つ離れへ向かった。
父の宮坂直孝が暮らしている場所だ。
父は四十三歳。宮坂家に婿入りして姓を変えた。この村では、女性が家を継ぎ、婿入りした男性が妻の姓を名乗るのが一般的だった。
以前は屋敷の中をある程度自由に歩けたが、宗一と蓮司の脱出以来、男たちへの管理は厳しくなった。
直孝も今では、離れから出ることを許されていない。
香澄が鍵を取り出し、離れの扉を開けた。
「あなた、胡春が来ましたよ」
「おや、胡春。帰っていたのか」
窓辺で本を読んでいた直孝が、顔をほころばせた。
「はい。お父様もお変わりありませんか?」
「ああ。元気にしているよ。お前も元気そうだね。無理はしていないかい?」
「はい。私は大丈夫です」
「それならよかった。ところで、お役目のほうはどうだった?」
「お伝えすることはできました。でも、いいお返事はいただけなくて」
「そうか。なら、あとは胡乃さんと長老衆にお任せしなさい。お前は十分頑張ったんだろう?」
「……はい。ありがとうございます」
直孝は満足そうに頷き、読んでいた本に栞を挟んだ。
東京の学校はどうか、外の暮らしは楽しいか。そんなことは尋ねない。
父が気にかけるのは、胡春が元気に過ごしているか、村での役目を果たせているかということだった。
「あなた、何か必要なものはありませんか?」
香澄が尋ねると、直孝は首を振った。
「何もないよ。いつもよくしてもらっているからね」
「そうですか。何かあれば言ってくださいね」
「ああ、ありがとう」
女たちに守られ、家の中で暮らす。それを当然としてきた父は、鍵のかかった扉に不満を口にしない。
胡春も、それでいいと思っていた。父が健やかでいてくれるなら、何よりだ。
「それでは、私は東京へ戻ります」
「気をつけて行っておいで」
胡春は父に微笑み返し、香澄とともに離れの外へ出た。
ガチャリ。
背後で、香澄が離れの扉に鍵をかけた。
その後、胡春は母と共に母屋へ戻り、東京へ帰ることを祖母に伝えた。
「もう帰るのかい?」
「はい。明日も学校がありますので」
「そうかい。気をつけて帰りなさい」
「ありがとうございます、お祖母様」
「胡春、身体には気をつけるのよ」
「はい。お母様もお元気で」
祖母と母に見送られ、胡春は宮坂家を後にした。
◇
寅の道へと続く村外れの道を歩いていると、不意に声をかけられた。
「やあ、胡春さん」
振り向くと、赤紫色の短い前下がりボブに琥珀色の瞳を持つ少女が立っていた。
空閑柚姫。
長老衆の一角を占める空閑家の娘だ。
「柚姫さん。こんにちは」
「聞いたよ。お婆ちゃんたちからの仕事に失敗したんだって?」
「はい。残念ながら、断られてしまいました」
「わざと適当にやったんじゃない?」
「いいえ。できる限りのことはいたしましたよ」
「ふうん。ボクだったら、もっとうまくやれたと思うけどね」
「ふふっ。そうかもしれませんね」
柚姫は眉をひそめた。
「その笑い方、嫌いなんだよね」
「まあ。そうでしたか」
「……そういう余裕ぶった態度も気に入らないんだよ」
柚姫は腕を組み、胡春を睨みつけた。
「前から言おうと思ってたけど、ボクは君の一族が嫌いなんだ。特に君のことは大っ嫌い。村長の家だからって、いつも偉そうにしてさ。水無瀬の家も好きじゃないけど、宮坂はもっと嫌い」
胡春は黙って聞いていた。
「そもそも、宮坂家ばかり特別扱いされるのが気に入らない」
柚姫はさらに言葉を続けた。
「お兄ちゃんのお披露目のあとだってそう。一族の特権だか何だか知らないけど、一番最初に交わっちゃってさ。初めてはボクがしたかったのに」
柚姫の言う「お兄ちゃん」とは、御影蓮司のことだ。
彼女は宗一と、第二夫人である空閑家の女性との間に生まれた娘。蓮司より少し遅く生まれた異母妹だ。母親は今も村で暮らしている。
ただ、蓮司は妹の存在を知らない。
柚姫は不満げな表情で、なおも胡春を睨んでいた。どうやら、あの日のことを今でも根に持っているらしい。
そんな彼女の態度に、胡春も少しばかり苛立ちを覚えた。
あの日のことを、柚姫にとやかく言われる筋合いはない。
少しくらい、言い返してもいいだろう。
「そうなんですね。あの時は私も初めてでしたけど、すごく気持ちよかったです。心の奥底まで満たされました。あなたのお兄さんも、最初は少し戸惑っていましたが、最後はとても気持ちよさそうでしたよ」
「っ!?」
「ふふ。誰よりも先にあなたのお兄さんのおそばにいられたこと、今でも嬉しく思っています」
柚姫の目が鋭くなった。
「……ほんと、嫌な女」
「お互い様かもしれませんね」
胡春は丁寧に一礼した。
「それでは、失礼いたします」
柚姫は何も返さなかった。胡春は振り向かず、その場を後にした。
その後、寅の道を通って村を離れ、団子屋でタクシーを呼んでもらい、長野駅から新幹線で東京へと戻った。
墨田区の自宅に帰り着いた頃には、すっかり夕方になっていた。
「……さすがに、二日続けて移動すると、少し疲れますね」
胡春はそう呟き、小さく息を吐いた。
官能表現が苦手な方向けに本話を要約しています。
↓
2027年5月16日、日曜日。
宮坂胡春は、御影蓮司に拒否された長老衆の提案について報告するため、東京から故郷の月代村へ向かう。
長野駅からタクシーで山間部の団子屋を訪れた胡春は、人目を避けて店の裏手にある森の中へ入り、村へ通じる秘密の地下通路「寅の道」を利用して帰郷する。
長老衆の屋敷では、蓮司が監視付きの自由を拒否したことを報告。長老たちは不満を示すものの、ひとまず今後の対応を検討することになる。
その後、胡春は実家の宮坂家を訪れ、村長である祖母・胡乃と母・香澄に再会する。そこで、長老衆が自分たちの孫娘四人を東京へ送り込む可能性を知らされる。彼女たちの行動を抑えることは難しく、胡春も事態の悪化を懸念する。
続いて胡春は、敷地内の離れで暮らす父・直孝と面会する。蓮司たちの脱出以降、村の男性への管理は厳しくなっており、直孝も離れから出ることを許されていない。しかし、本人はその生活を当然のものとして受け入れ、娘の身を案じていた。胡春もまた、父が健やかに暮らせるならそれでよいと考えている。
家族に見送られて東京へ戻ろうとした胡春は、村外れで空閑柚姫と遭遇する。
柚姫は長老衆の一人の孫娘であり、蓮司本人も存在を知らない異母妹だった。
柚姫は宮坂家への不満を露わにし、かつて蓮司のお披露目で胡春だけが特別扱いされたことを非難する。胡春も珍しく苛立ちを覚え、当時の出来事が自分にとって大切な思い出であることを、あえて柚姫に告げる。
二人の間に険悪な空気を残したまま、胡春は東京へと帰っていく。




