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許された自由

 インターホンのモニターに映る宮坂(みやさか)胡春(こはる)を見て、沙耶(さや)は息を呑んだ。


 風呂から上がり、水を飲もうとした矢先の訪問だった。沙耶はまだ髪にタオルを巻いていた。


「……何の用ですか?」


『夜分に申し訳ありません。啓介(けいすけ)さんはいらっしゃいますか?』


「パパなら仕事で出かけてますけど」


『……そうでしたか』


 少し意外そうな声が返ってきた。


「伝言でもあるんですか?」


『はい。村から、蓮司(れんじ)さんに関するお話を預かっておりまして』


「だったら、パパがいるときに来てください」


『承知いたしました。では、日を改めて――』


「……待ってくれ、胡春」


 隣にいた蓮司がインターホンに顔を近づけた。


「ちょっと、蓮司?」


『……あら、蓮司さん? そちらにいらしたのですね』


「ああ。俺に関係する話なんだろ? 何かあったのか?」


『いえ、悪い知らせではありません。村から新しい提案がありまして』


「新しい提案……?」


『はい。詳しい内容は、直接お伝えしたいのですが……』


 蓮司は眉をひそめた。


 これまでの経緯を考えれば、帰村に関する話である可能性が高い。


 だが、村が何を考えているのか、確かめておきたかった。


 蓮司は沙耶へ顔を向けた。


「沙耶、胡春の話を聞きたいんだけど……家に入れてもいいか?」


「えっ、今?」


「ああ。村が何を考えてるのか、知っておきたいんだ」


「……でも、今日はあんなことがあったばかりだよ?」


 沙耶の視線が蓮司の右手に落ちた。


 つい数時間前、水無瀬(みなせ)美冬(みふゆ)に指を噛まれたばかりだ。傷はすでに塞がっているものの、沙耶が警戒するのも無理はない。


「分かってる。無理なら断ってくれていい」


 沙耶は少し考え、モニターに映る胡春を見た。


「……分かった。ただし、私も一緒に聞くからね」


「ありがとう、沙耶」


「あとで、パパにも連絡しておく」


 沙耶はインターホンに向き直った。


「宮坂さん、お待たせしました。私たちでよければ、中でお話を聞きます」


『ありがとうございます。お邪魔いたします』


「今、開けます」


 沙耶は髪に巻いていたタオルを外し、洗面所に置いてから玄関へ向かった。


 扉を開けると、胡春は丁寧に一礼した。


「こんばんは。遅い時間に失礼いたします」


「……どうぞ」


 沙耶が先に立ち、二人をリビングへ案内した。


 胡春は室内を軽く見渡したものの、余計なことは尋ねず、勧められたダイニングの椅子に腰を下ろした。


 蓮司もその向かいに座る。


「お茶、入れてきます」


「どうぞお気遣いなく」


「一応、お客さんですから」


 沙耶はそう言って、キッチンへ向かった。


 蓮司は向かいに座る胡春を見た。村の話は、沙耶が戻ってきてから聞くつもりだった。


 胡春もそれを察しているのか、本題に触れる様子はない。


「……夕食はもうお済みですか?」


「ああ。沙耶とクリームシチューを作ったんだ」


「まあ、お二人でお料理を?」


「俺は野菜を切ったくらいだけどな」


「ふふっ。それでも、一緒に作るのは楽しいでしょう?」


「そうだな。美味しかったし」


「それは何よりです」


 胡春は嬉しそうに目を細めた。


 蓮司も何か話そうとしたが、特に話題が思いつかなかった。


 キッチンから食器の触れ合う音が聞こえてくる。


 やがて沙耶が湯呑みを三つ運んできた。


「お待たせしました」


 胡春の前に置かれた湯呑みだけ、やけにお茶の色が濃い。


 蓮司が沙耶を見ると、彼女は何食わぬ顔で椅子に座った。


「それで、村からの話って何ですか?」


「蓮司さんの帰村に向けた、新しい緩和措置についてです」


「……緩和措置?」


「はい。今日、長野で長老衆の皆様とお話しして、先ほど戻ってきたところなのです」


「ちょっと待ってください。長老衆って何なんですか?」


 沙耶が口を挟んだ。


「村長さんが一番偉いんじゃないんですか?」


「当然気になりますよね。長老衆は、村の伝統としきたりを守るための組織です。古くからある四つの家から一人ずつ、合わせて四人おります」


「四人……」


「私の祖母は村長として村を治めていますが、長老衆の総意には従わなければなりません。そういう仕組みです」


「じゃあ、村長より偉いってこと?」


「四人の意見が一致したときは、そうお考えいただいて構いません」


 沙耶は蓮司を見た。


「知ってた?」


「長老衆のことは、昔から知ってる。勉強も教わってたし。でも……こうして仕組みを説明されたことはなかったな」


 村にいた頃は、長老衆の決めた予定に従うのが当たり前だった。村長とどちらが偉いかなど、考えたこともなかった。


「それで、どんな条件なんだ?」


「はい。皆様は、蓮司さんが村へお戻りにならない理由を話し合われました」


 胡春は背筋を伸ばした。


「自由に外へ出られないことが、一番の不満なのだろうと」


「……それは、間違ってない」


「そこで、特例を設けることになりました」


 胡春は明るい声で告げた。


「お戻りになれば、村の中は自由に歩いていただけます。行き先も、原則として制限いたしません」


「……本当に?」


「はい。ただし、安全のため、村の中でも付き添いは必要です」


「それ、自由って言います?」


 沙耶がすかさず口を挟んだ。


「……そう感じられるかもしれませんね。ですが、長老衆としても大きく譲歩したつもりなのです」


 胡春は蓮司へ向き直った。


「さらに、東京への外出も認められます。月に一度ほどでしたら、ご友人と遊ぶことも可能です。もちろん、この場合にも付き添いはつきます」


「月に一回……?」


「はい」


 胡春は蓮司を見つめた。


「いかがでしょうか?」


 蓮司はすぐには答えなかった。


 格子窓のある家から出られなかった頃に比べれば、破格の条件だ。


 村の中を歩けるだけでなく、東京に来ることまで許される。以前なら考えられなかった話だった。


 だが、どこへ行くにも付き添いが必要で、村の外へ出ることも自由には決められない。


 何より、今通っている学校を辞めなければならない。


「……断るよ」


「理由を伺ってもよろしいでしょうか?」


「どこに行っても見張られて、東京に来られるのは月に一回。俺が欲しかったのは、そういう自由じゃない」


「ですが、以前よりはずっと――」


「それは分かる。でも、今の学校にも通い続けたいし、友達と会うのに許可なんて取りたくない。どこで暮らすかも、自分で決めたいんだ」


 胡春はしばらく蓮司を見つめていた。


 やがて、小さく頷く。


「……そう言うと思いました」


「分かってたなら、どうして来たんだ?」


「長老衆から託されたお話ですから、私の判断で黙っているわけにはいきません。蓮司さんのお返事も、そのまま持ち帰ります」


「……そうか」


「はい。皆様がどう判断なさるかは、私にも分かりませんが」


 胡春はそこで話を切り上げ、湯呑みを手に取った。


 沙耶がちらりと様子を窺う。


 胡春はお茶を一口飲み、味わうように息をついた。


「……濃くて、美味しいお茶ですね」


「……そうですか」


「ええ。こういう深い味わい、好きですよ」


「それなら、よかったです」


 沙耶の笑顔が、わずかに引きつった。


 蓮司は気づかないふりをして、自分のお茶を飲んだ。


 胡春はもう一度湯呑みに口をつけ、残っていたお茶を飲み干した。


「……宮坂さん、もう一つ聞いていいですか?」


「はい。何でしょう?」


 胡春が湯呑みを置いた。


「今日、水無瀬さんが蓮司の指を噛んだんです。血が出るほど強く。本人は謝りもしなかった」


「……美冬が、そのようなことを?」


「はい。いきなりですよ。蓮司が何かしたわけでもないのに」


「それは……大変申し訳ありませんでした」


 胡春は深く頭を下げた。


「あの子は普段、大人しいのですが、蓮司さんのことになると、どうも周りが見えなくなるようでして。私からも注意いたします」


「注意だけじゃ済まないでしょ」


「おっしゃる通りです。どんな理由があっても、許されることではありません」


 胡春は顔を上げ、蓮司へ向き直った。


「蓮司さん、お怪我は?」


「もう治ったよ」


「……そうですよね。ですが、痛かったでしょう。怖い思いもされたはずです」


「怖いっていうより、何が起きたのか分からなかった」


「……そうでしたか。ご無事で何よりです」


 胡春は再び頭を下げた。


「……胡春がしたことじゃないだろ」


「お気遣い、ありがとうございます」


 胡春は顔を上げた。


 蓮司は返事に迷った。


 こうして自分を心配してくれる胡春が、なぜ村へ戻ることだけは当然だと考えているのか。蓮司には、どうしても理解できなかった。


「さて、お伝えすることも済みましたし、そろそろ失礼いたしますね」


 胡春は椅子から立ち上がった。


「……もう帰るのか?」


「ええ。遅くまでお邪魔するわけにもまいりませんから」


「長野から戻ってきたばかりなんだろ? 胡春こそ、疲れてないのか?」


 蓮司が尋ねると、胡春は一瞬目を丸くした。


「……まあ。私の心配までしてくださるのですね」


「いや、普通に気になっただけだけど」


「ふふっ。ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ」


 胡春は嬉しそうに微笑んだ。


「蓮司さんも、今夜はゆっくりお休みくださいね」


「ああ。ありがとう」


 胡春は沙耶へ向き直った。


「お茶、ごちそうさまでした」


「……どういたしまして」


 沙耶は空になった湯呑みに目を落とし、わずかに眉を寄せた。


 あれだけ濃く淹れたお茶を、胡春は一滴も残さず飲んでいた。蓮司はここでも、気づかないふりをすることにした。


 三人は玄関へ向かった。


 靴を履いた胡春は、鞄から小さな紙を取り出し、蓮司に差し出した。


「蓮司さん、こちらを」


 蓮司は紙を受け取った。そこには電話番号が書かれている。


「電話番号?」


「私のものです。何かありましたら、いつでもご連絡ください」


「村のこととか?」


「それもありますけれど……」


 胡春は口元に指を添え、少しいたずらっぽく笑った。


「寂しくなったときや、誰かに甘えたくなったときでも構いませんよ。私でよければ、いくらでもお相手いたします。夜伽もお任せください」


「……え?」


「ちょっと、宮坂さん!」


「ふふっ。冗談ですよ。……半分くらいは」


「半分って何よ!」


 沙耶が声を上げても、胡春は楽しそうに微笑むばかりだった。


「それでは、お邪魔いたしました」


 胡春が扉へ手を伸ばす。


「……待って」


 沙耶が呼び止めた。


「あなたたちって、子孫を残すことしか考えてないの? ほかにやりたいこととか、ないわけ?」


 胡春は振り返った。


 少しの間、考えるように口を閉ざす。


「……もちろん、ありますよ。私にだって、やりたいことはあります」


「だったら――」


「ですが、それとこれとは別です。子を成し、血をつないでいくこと。それが、何よりも大切なのです」


 胡春はいつもの穏やかな微笑みを浮かべた。


「我らが神が定めた運命ですから」


 胡春はそれ以上何も言わず、軽く一礼して玄関を出ていった。


 扉が閉まっても、沙耶はしばらくその場に立ち尽くしていた。

いかがでしたでしょうか?


もしよければ、ブクマや評価、感想などをいただけますと幸いです。

これからも本作をよろしくお願いいたします。

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