今夜は、帰らなくていい
神社から離れても、沙耶は何度か後ろを振り返っていた。
「……もう、ついてきてないよね?」
「ああ。見える範囲にはいない」
蓮司も背後を確かめた。石段の上に立っていた水無瀬美冬の姿が、まだ頭から離れない。
「パパに電話する。蓮司も一緒に話して」
「分かった」
二人は人通りの少ない場所で足を止めた。沙耶が啓介に電話をかけると、数回の呼び出し音のあとで応答があった。
『沙耶、どうしました?』
「パパ、今大丈夫? 蓮司のことで大変なことがあって」
『……聞かせてください』
沙耶は通話をスピーカーに切り替えた。
神社で美冬と遭遇したこと。突然蓮司の手を取られ、指を噛まれたこと。出血を見て沙耶が抗議しても、美冬は悪びれず、村へ帰るよう迫ったこと。沙耶自身も暴言を浴びせられたことを報告した。
『蓮司君、怪我は?』
「傷はもう塞がりました。歯形も残ってません」
月代村の出身者は、普通の人間より遥かに傷の治りが早い。村の外ではその力も弱まるが、蓮司にとっては珍しくなかった。
「啓介さん。これって協定違反にならないんですか? 村の人は外で暴力を振るっちゃいけないんですよね」
『ええ。許される行為ではありません。ただ、水無瀬さん個人の暴力と、月代村側の協定違反は、分けて考える必要があります』
「実際に噛まれたのに、ですか?」
『軽く見ているわけではありませんよ。ただ、傷の写真や診断書は残っていません。沙耶の目撃証言はありますが、事件として立件するにしても簡単ではないでしょう』
「……私、ちゃんと見たよ」
沙耶の声が強くなった。
『疑ってはいません。二人の話を記録して、対応を考えます。今後はより一層、水無瀬さんに警戒してください』
「はい」
「……分かった」
『それと、実は今夜、急な仕事が入ってしまいまして。これから出なければならないんです』
「えっ、今から? 土曜日なのに?」
『土日に仕事をすることはありますが、夜からの出勤は珍しいですね』
「そういえば、四月に村へ行ったのも土曜だったよね」
『ええ。今回は先方の都合もありまして。……ところで、二人はもう駅に着きましたか?』
「ううん。まだ向かってる途中だよ」
『そうですか。本当なら迎えに行きたいのは山々ですが、今夜はちょっと難しそうです』
電話の向こうで車のドアが閉まる音がした。
『なので蓮司君、今日はうちに泊まってください』
「……沙耶の家に、ですか?」
『ええ。今夜は特に用心した方がいいでしょう。以前使っていた部屋も空いていますし、緊急時用の着替えもありますから』
「うわ、泊まりとか懐かしいね」
沙耶が横から口を挟んだ。
「まだ一年も経ってないけどな」
蓮司は、あの部屋の窓から格子のない夜景を眺めたことを思い出した。
『もちろん、蓮司君がよければですが』
美冬から実際に危害を加えられた以上、今夜は自分も沙耶も一人でいるべきではない。
「それじゃあ、今夜はお世話になります」
『ええ。沙耶、頼みますよ』
「任せて!」
『ただし、二人とも高校生です。節度ある行動を心がけてくださいね』
「分かってるって!」
『……それから、もしものときは必ず避妊してください』
「はあっ!?」
沙耶がスマートフォンを顔から離した。
「ちょっとパパ! 今そういう話してないでしょ!」
『大切なことですから』
「普通に泊まるだけだって! ねえ、蓮司!」
「えっ? ああ、そうだよ」
『それなら安心です。戸締まりを忘れずに。何かあればすぐ連絡してください』
「……帰ってきたら絶対文句言うからね!」
『覚悟しておきます。それでは』
通話が切れた。
「……もう。ほんっと余計なこと言うんだから」
沙耶はスマートフォンをしまい、ペンギンを抱え直した。
「それ、俺が持とうか?」
「ううん。今は抱きついてたい気分だから、このままでいい」
「……ペンギンに?」
「他に誰がいるの?」
蓮司は返事に詰まった。沙耶がペンギンの丸い頭に頬を寄せると、ようやく少し笑った。
◇
高橋家に着くと、啓介の車はなかった。
「パパ、もう出かけたみたいだね」
「急な仕事って言ってたしな」
沙耶はペンギンをリビングのソファに座らせた。
「よし、いい感じ! 後で部屋に連れてってあげるからね」
「……ずいぶん場所を取るな」
「大きいんだから仕方ないじゃん」
沙耶はペンギンの頭を軽く撫で、キッチンへ向かった。
「さて、夕飯どうしよっか。出前でも取る?」
「せっかくだし、一緒に何か作らないか? 俺も手伝うよ」
「いいね! あ、冷蔵庫に鶏肉ある。シチューにしない?」
「ああ。じゃあ、俺は野菜を切る」
「お願い! 私は鶏肉を炒めるね」
二人で手を洗い、調理を始めた。
蓮司が玉ねぎやニンジン、ジャガイモを切る隣で、沙耶は一口大にカットされた鶏肉を炒め始めた。
「なんか、前もこんな感じだったよね」
「親子丼を作ったときか?」
「そうそう。あのときも蓮司が材料切って、私が味付けしたじゃん」
「『合作』って言ってたな」
「覚えてるんだ。じゃあ、今回も合作ってことで!」
「ああ。味付けは頼むよ」
「オッケー。まあ、味付けは市販のルウなんだけどね」
鍋に野菜を加えて軽く炒め、水を注いで煮込む。その間に、冷蔵庫にあったレタスやトマトでサラダも作った。
「……こうしてると、普通の休日って感じするね」
沙耶がサラダを皿に盛りながら言った。
「そうだな。さっきまで神社であんなことがあったのに」
「……ごめん。あそこ行こうって言ったの、私だから」
「沙耶が謝ることじゃないよ。水無瀬がいるなんて分かるわけないだろ」
「うん……偶然だよね」
沙耶が少し不安そうに笑った。
「ああ、ただの偶然だ」
蓮司は迷わず答えた。本当に偶然だったのかは分からない。だが、今ここで沙耶を余計に不安にさせたくなかった。
それ以上神社の話をすることもなく、二人は食卓を整えた。しばらくして鍋の蓋を開けると、野菜も柔らかくなっていた。
「そろそろ煮込みはいいんじゃないか?」
「そうだね。具材の火の通りも大丈夫そう」
沙耶はニンジンに竹串を刺して確かめ、火を止めてルウを溶かした。牛乳を加え、弱火で焦げないように混ぜる。
「蓮司、パンお願い。冷凍庫にロールパンがあるから」
「分かった」
パンを温め終える頃には、シチューにもちょうどよいとろみがついていた。
食卓にはクリームシチュー、温かいパン、サラダが並んだ。
「いただきます!」
「いただきます」
蓮司がシチューをひと口食べると、沙耶が顔を覗き込んできた。
「どう?」
「うまい。鶏肉も柔らかいな」
「よかった! 私も食べよっと」
沙耶もスプーンを口に運び、満足そうに頷いた。
「うん、成功! パンにも合うね」
「ああ。また一緒に作ろう」
「うん。次は何にする?」
「今度は俺も味付けしてみようかな」
「おっ、挑戦する? じゃあ、今度は蓮司に任せちゃおっかな。市販のルウは無しね」
「……いきなり難易度高くないか?」
「ふふっ、手伝うから大丈夫!」
食事を終えると、蓮司は食器を重ねて立ち上がった。
「洗い物は俺がやるから、沙耶は休んでて」
「いや、私は部屋とお風呂の準備をするよ。そっちお願いね」
「ああ、了解」
沙耶が二階へ上がると、蓮司は食器を台所へ運んだ。
二階からは時折、引き出しを開け閉めする音が聞こえる。最後の皿を片付ける頃、沙耶も階段を下りてきた。
「部屋、準備できたよ。前に泊まったところ、覚えてる?」
「ああ。二階の奥だろ」
「そうそう。ベッドも整えたし、お風呂も入れたよ」
「ありがとう。沙耶が先に入ってくれ」
「お客さんなんだから、蓮司が先でもいいのに」
「俺はあとで大丈夫。今日は沙耶も疲れただろ」
「……まあ、結構歩いたもんね。じゃ、お先!」
沙耶が浴室へ向かい、蓮司はソファに腰を下ろした。ペンギンの大きな翼が、隣の席に少しはみ出している。
「……お前、思った以上に幅取るな」
はみ出した翼をそっと寄せ、背もたれに体を預けた。
しばらくして、沙耶が部屋着姿で戻ってきた。洗った髪は、頭に巻いたタオルにすっぽりと包まれていた。
「あー、喉渇いた。蓮司も水飲む?」
「俺は大丈夫」
「そっか」
沙耶が冷蔵庫に手を伸ばしかけた、そのとき。
ピンポーン。
インターホンが鳴った。
「……誰? こんな時間に」
沙耶はキッチンを離れ、壁のモニターを確かめた。
画面には、門の前に立つ少女が映っていた。艶のある長い黒髪。背筋を伸ばし、カメラを見上げている。
「……宮坂さん?」
沙耶の声で、蓮司も立ち上がった。
モニターの中で、宮坂胡春が静かに微笑んだ。
◇
高橋啓介は、港区へ向けて車を走らせていた。
今夜会う相手は、黄桃秋穂。彼女の側から極秘の面会を申し入れてきたのだ。この件を知る者は、ごく限られている。
(……黄桃さんから接触を求めてくるとは)
本人の判断なのか、村側の意向なのか。まずは話を聞く必要がある。
交差点の手前で信号が赤に変わり、啓介は車を止めた。
ふと、先ほど沙耶に言った言葉を思い出した。
『もしものときは必ず避妊してください』
(……帰宅したら、間違いなく怒られますね)
娘の慌てた声が蘇る。父親として必要な注意だったとは思うが、少々唐突だったかもしれない。
そこで、ある考えが頭をよぎった。
(……もし将来、沙耶と蓮司君の間に子供が生まれたら)
現在、政府が特別な保護措置を講じているのは宗一と蓮司だ。だが、蓮司が東京で家庭を築けば、状況は変わる。
沙耶と子供の安全も守らなければならない。それを理由に、政府が保護を強化できる可能性はないだろうか。
協定には、宗一と蓮司が村の外で家庭を持つことまで禁じる条件はない。将来、蓮司が新しい家族を持てば、今とは別の角度から保護を考えられるかもしれない。
(……月代村から、ほぼ完全に切り離す道が開けるかもしれません)
もちろん、そう簡単な話ではない。村側が子供にまで執着する恐れもあるし、保護を強化できる保証もない。
何より、二人はまだ十五歳だ。
沙耶が蓮司に特別な思いを寄せていることには、父親として気づいている。しかし、その気持ちを政府の都合で利用してよいはずがない。
(……私は、何を考えているんでしょうね)
蓮司には、自分の人生を自分で選んでほしい。そう願いながら、今度は娘の将来を保護の手段として考えてしまった。
海外にいる妻、芽衣の顔が浮かんだ。
(……この考えを芽衣に話したら、どう思われるでしょうか)
信号が青に変わった。
啓介は前を向き、港区へ向けて車を発進させた。




