黄色い桃は嬉しそうに笑う
テニス部の練習が終わったのは、いつもより少し早い時間だった。
顧問の先生に急な用事ができたらしく、今日の活動はここまで。沙耶はラケットを片づけ、更衣室で制服に着替えると、スマートフォンを取り出した。
『先に終わったから、いつものベンチで待ってるね』
蓮司に送信する。返事はない。向こうはまだ部活中なのだから当然だ。
沙耶は鞄を肩にかけ、昇降口へ向かった。
蓮司と一緒に登下校するのは、父の啓介からの指示だった。二人の安全を考え、できるだけ別々に行動しないようにと言われている。部活の終わる時間が違う日は、先に終わった方が待つ。それがすっかり習慣になっていた。
昇降口の近く、植え込みに面したベンチに腰を下ろす。鞄を隣に置き、大きく息を吐いた。
「……今日は疲れたなあ」
疲れたのは部活のせいだけではない。
朝の全校集会で、転入生の黄桃秋穂が蓮司に抱きついた。昼休みには手作り弁当を持って学食へ現れ、みんなの前で「将来の夫婦です」と言い切った。
蓮司はその場ではっきり否定していた。けれど、秋穂は嬉しそうな顔を崩さなかった。
(……蓮司は困ってたのに、どうしてあんなに嬉しそうなんだろ)
父から月代村の事情を聞かされている沙耶にとって、秋穂は警戒すべき相手だ。だが、あの時の笑顔は作り物には見えなかった。
蓮司が困っていることと、秋穂が幸せそうなこと。その二つが、どうにも噛み合わない。
「あら、沙耶さん」
不意に声がして、顔を上げた。
昇降口から歩いてきた秋穂が、ベンチの数歩手前で足を止めている。蜂蜜色の髪を片側で結び、肩には通学鞄、手には昼休みに見かけた大きな弁当箱の包みを提げていた。沙耶に向けて、柔らかく微笑んでいる。
(……噂をすれば。って、あれ?)
沙耶は秋穂に自己紹介をした覚えがない。朝も昼も、蓮司の騒動に巻き込まれただけだ。
「……黄桃さん。どうして私の名前を知ってるの?」
「東京へ来る前から存じ上げていました。蓮司様がお世話になっている方ですから」
「……誰に聞いたの?」
「すみません。詳しいことは、私からはお話しできなくて」
秋穂は申し訳なさそうに眉を下げた。
まただ、と沙耶は思った。以前、宮坂胡春も蓮司の東京での暮らしを妙に詳しく知っていた。どこから情報が漏れているのか、まだはっきりしていない。
「……そう。もう帰るところ?」
「はい。転入初日なので、先生のお話が少し長くなってしまって」
秋穂は沙耶の隣に置かれた鞄へ目を向ける。
「沙耶さんは、どなたかをお待ちなんですか?」
「蓮司。まだ部活が終わってないから」
「まあ、そうなんですね」
秋穂の顔がぱっと明るくなった。
「蓮司様がお戻りになるまで、少しお話ししてもよろしいでしょうか?」
正直、気は進まなかった。けれど、こちらから聞いてみたいこともある。
「……いいよ。蓮司が来るまでなら」
「ありがとうございます」
秋穂は一人分の間を空けて腰を下ろし、肩に掛けていた鞄を膝の上に、弁当箱の包みを足元に置いた。
ちょうど部活帰りの生徒たちが昇降口から出てくる。何人かが二人を振り返り、ひそひそと声を交わした。
「あの子、朝の転入生じゃない?」
「隣の子も可愛い……」
沙耶も普段から容姿を褒められることはある。それでも、隣の秋穂は別格だった。整った目鼻立ちに、目が合うだけでこちらまで笑顔になりそうな愛らしさ。アイドルが制服を着て座っていると言われても、納得してしまいそうだ。
秋穂はそんな視線を気にする様子もなく、膝の上の鞄に両手を重ねた。
「今朝は、蓮司様を驚かせてしまいましたね」
「……驚いたのは蓮司だけじゃないと思うけど」
「ふふ。そうですよね。嬉しくて、つい」
照れたように笑う姿は、恋する女の子そのものだった。
「蓮司様、学校では楽しく過ごされていますか?」
「うん。友達もできたし、楽しそうだよ。今までできなかったこと、いっぱいあるから」
「……そうですか。よかった」
秋穂がほっと息を吐いた。
「村にいた頃は、蓮司様が学校に通うなんて、考えられませんでしたから」
沙耶は、蓮司が入学したばかりの頃を思い出す。教室も学食も、電車での通学さえも新鮮で、何でも知りたがっていた。
「今も初めてのことばっかりで、結構楽しんでると思う」
「ふふ。目に浮かびます」
その笑顔は、少なくとも沙耶には本物に見えた。
だからこそ、聞いておきたかった。
「でも、村に引き戻すつもりなんでしょ?」
秋穂が目を瞬かせる。
「蓮司様を、ですか?」
「うん。わざわざ東京まで来たんだから」
「私は、蓮司様と一緒に暮らせるなら、村でも東京でも構いませんよ」
「……東京でもいいの?」
「はい。蓮司様がこちらを気に入っていらっしゃるなら、私もここで暮らしたいです」
思っていたのとは違う答えだった。村に戻らなければいけない、と言われるものだと思っていた。
「じゃあ、蓮司が村に戻りたくないって言ったら?」
「それなら、東京で一緒に暮らす方法を考えたいですね」
「……一緒に暮らすって、もう決まってるの?」
秋穂はきょとんとしたあと、頬を赤らめた。
「まだです。でも私、蓮司様の一番のお嫁さんになりたいんです」
「……一番?」
「はい。正妻です」
沙耶は思わず秋穂を見つめた。
「正妻って……ほかにもお嫁さんがいる前提?」
「もちろんです」
秋穂は当たり前のように頷く。
「蓮司様を私一人で独り占めするわけにはいきませんから。でも、一番近くでお世話できるのは私がいいんです」
「……いや、待って。それ、おかしいと思わない?」
「何がでしょう?」
聞き返す声には、少しのためらいもなかった。
沙耶は口を開きかけて、閉じた。何から説明すればいいのか分からない。自分にとって当たり前のことが、目の前の少女にはまるで通じていなかった。
秋穂はふと思いついたように、沙耶の顔を覗き込む。
「そういえば、沙耶さんは蓮司様のことがお好きなんですか?」
「はっ!? な、何でそうなるの!」
「毎日ご一緒なのでしょう? それに、とても大切になさっているみたいですから」
「それは……友達だし、パパからも一緒に行動するように言われてるから」
「そうなんですね。では、お好きではないんですか?」
「……それ、今答えなきゃ駄目?」
「いいえ。聞いてみたかっただけです」
沙耶は膝の上で指を組んだ。
蓮司と遊園地へ行った日のことを思い出す。観覧車の中で、また二人で来ようと約束した。思い出すと少しだけ胸が温かくなる。
けれど、それを今ここで秋穂に話す気にはなれなかった。
「もし沙耶さんも蓮司様をお好きなら、一緒にお嫁さんになれますね」
「……え?」
顔を上げると、秋穂は嬉しそうに笑っていた。
「沙耶さんは優しい方ですし、蓮司様も安心できると思います。私たちも仲良くできたら嬉しいです」
「ちょっと待って。私はそんな話、一言も――」
「もちろん、正妻の座は譲れませんけど」
冗談を言うような軽い口調だった。だが、その目はまっすぐで、少しも迷いがない。
沙耶は息を呑んだ。
恋敵かもしれない相手に「一緒にお嫁さんになれる」と笑いかける。その一方で、自分が一番になることだけは当然のように決めている。
(……これ、普通の恋愛の話じゃない)
「でもさ、蓮司が結婚したくないって言ったらどうするの?」
「……結婚したくない、ですか?」
「そう。黄桃さんとは結婚しないって、はっきり断られたら?」
秋穂は少し考え込んだ。
「私のどこかが、気に入らないのでしょうか」
「そういう話じゃなくて」
「でしたら、気に入っていただけるように努力します。料理も、家のことも、もっと上手になりたいですし」
「……何度断られても?」
「はい。何度でも、私のいいところを知っていただきたいです」
秋穂は微笑んだ。沙耶が怯むほど、嬉しそうに。
「……それって、蓮司の気持ちを無視してない?」
「そんなことありません。蓮司様のお気持ちは、とても大切です」
「だったら、嫌だって言われたら諦めることも――」
「だからこそ、私を好きになっていただきたいんです」
話が噛み合わない。
沙耶が聞いているのは、蓮司が拒絶したときに身を引けるのかということだ。秋穂が話しているのは、どうすればその気持ちを変えてもらえるかということだった。
「……もし、どう頑張っても好きになってもらえなかったら?」
秋穂はほんの少しだけ眉を下げた。
「それは、悲しいですね」
ようやく言葉が通じたのかと思った。
「でも、まだ何も始まっていませんから。今からそんなことを考えても、仕方ありませんよね?」
すぐに、いつもの笑顔が戻った。
沙耶の背筋に冷たいものが走る。
秋穂は一度も、無理やり連れ戻すとは言わなかった。脅しもしない。東京で暮らしてもいいとまで言った。
それなのに、蓮司と結ばれない未来だけは、まるで考えていないようだった。
「……黄桃さんは、蓮司のこと、そんなに好きなんだね」
「はい。蓮司様が十三歳のときに初めてお会いして、それからずっと」
「……お昼にもそう言ってたね」
「ええ。私にとって、とても大切な思い出です」
「でも、蓮司は今日まで黄桃さんの顔を知らなかったよね」
「そうですね。でも、私は覚えていますから」
秋穂は大切なものを思い返すように微笑んだ。
「……そんなに魅力的だったんだ」
「はい。一目惚れでした。この方と誰よりも先に結ばれたいと思ったんです」
沙耶はそれ以上追及しなかった。二人がどこで、どのように顔を合わせたのかは分からない。ただ、秋穂にとっては、それがすべての始まりだったのだろう。
そのとき、鞄の中でスマートフォンが震えた。
『今終わった。そっち行く』
蓮司からだ。
沙耶が画面を確かめると、秋穂は膝の上の鞄を肩に掛け、足元の弁当箱の包みを手に取って立ち上がった。
「では、私はそろそろ失礼しますね」
「……蓮司に会っていかないの?」
「会いたいです。でも、今日は沙耶さんとお話しできましたから」
秋穂は弁当箱の包みを片手に、にっこりと笑う。
「私、沙耶さんとも仲良くなりたいんです」
「……どうして?」
「だって、これから長いお付き合いになるかもしれませんもの」
沙耶は返事ができなかった。
「それでは、また明日」
秋穂は丁寧に頭を下げ、校門へ歩いていく。すれ違った生徒がまた振り返ったが、秋穂は最後まで気にしなかった。
(……本当に、悪い子には見えないのに)
優しい言葉も、嬉しそうな笑顔も、嘘ではないのだろう。
けれど、そこにある当たり前が、沙耶のものとは決定的に違っている。
「沙耶」
声に振り向くと、蓮司が昇降口から出てきたところだった。
「悪い、待たせた」
「ううん。私が早く終わっただけ」
沙耶は立ち上がり、鞄を肩にかけた。
「……何かあった?」
蓮司が顔を覗き込んでくる。
沙耶は一瞬迷い、秋穂が去った校門の方へ目を向けた。
「さっき、黄桃さんと話したんだ」
「……黄桃と?」
「うん。帰りながら話す。ちょっと聞いてほしいことがあるから」
「分かった」
二人で並んで歩きだす。
毎日繰り返してきた、いつもの帰り道。隣を歩く蓮司の表情は、いつもと変わらない。
それなのに沙耶は、さっきの秋穂の笑顔を思い出していた。
『だからこそ、私を好きになっていただきたいんです』
蓮司がどんな答えを出しても、あの子は笑っているのだろうか。
それを確かめたいとは、少しも思えなかった。




