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17/25

黄色い桃は嬉しそうに笑う

 テニス部の練習が終わったのは、いつもより少し早い時間だった。


 顧問の先生に急な用事ができたらしく、今日の活動はここまで。沙耶(さや)はラケットを片づけ、更衣室で制服に着替えると、スマートフォンを取り出した。


『先に終わったから、いつものベンチで待ってるね』


 蓮司(れんじ)に送信する。返事はない。向こうはまだ部活中なのだから当然だ。


 沙耶は鞄を肩にかけ、昇降口へ向かった。


 蓮司と一緒に登下校するのは、父の啓介(けいすけ)からの指示だった。二人の安全を考え、できるだけ別々に行動しないようにと言われている。部活の終わる時間が違う日は、先に終わった方が待つ。それがすっかり習慣になっていた。


 昇降口の近く、植え込みに面したベンチに腰を下ろす。鞄を隣に置き、大きく息を吐いた。


「……今日は疲れたなあ」


 疲れたのは部活のせいだけではない。


 朝の全校集会で、転入生の黄桃(おうとう)秋穂(あきほ)が蓮司に抱きついた。昼休みには手作り弁当を持って学食へ現れ、みんなの前で「将来の夫婦です」と言い切った。


 蓮司はその場ではっきり否定していた。けれど、秋穂は嬉しそうな顔を崩さなかった。


(……蓮司は困ってたのに、どうしてあんなに嬉しそうなんだろ)


 父から月代村の事情を聞かされている沙耶にとって、秋穂は警戒すべき相手だ。だが、あの時の笑顔は作り物には見えなかった。


 蓮司が困っていることと、秋穂が幸せそうなこと。その二つが、どうにも噛み合わない。


「あら、沙耶さん」


 不意に声がして、顔を上げた。


 昇降口から歩いてきた秋穂が、ベンチの数歩手前で足を止めている。蜂蜜色の髪を片側で結び、肩には通学鞄、手には昼休みに見かけた大きな弁当箱の包みを提げていた。沙耶に向けて、柔らかく微笑んでいる。


(……噂をすれば。って、あれ?)


 沙耶は秋穂に自己紹介をした覚えがない。朝も昼も、蓮司の騒動に巻き込まれただけだ。


「……黄桃さん。どうして私の名前を知ってるの?」


「東京へ来る前から存じ上げていました。蓮司様がお世話になっている方ですから」


「……誰に聞いたの?」


「すみません。詳しいことは、私からはお話しできなくて」


 秋穂は申し訳なさそうに眉を下げた。


 まただ、と沙耶は思った。以前、宮坂胡春も蓮司の東京での暮らしを妙に詳しく知っていた。どこから情報が漏れているのか、まだはっきりしていない。


「……そう。もう帰るところ?」


「はい。転入初日なので、先生のお話が少し長くなってしまって」


 秋穂は沙耶の隣に置かれた鞄へ目を向ける。


「沙耶さんは、どなたかをお待ちなんですか?」


「蓮司。まだ部活が終わってないから」


「まあ、そうなんですね」


 秋穂の顔がぱっと明るくなった。


「蓮司様がお戻りになるまで、少しお話ししてもよろしいでしょうか?」


 正直、気は進まなかった。けれど、こちらから聞いてみたいこともある。


「……いいよ。蓮司が来るまでなら」


「ありがとうございます」


 秋穂は一人分の間を空けて腰を下ろし、肩に掛けていた鞄を膝の上に、弁当箱の包みを足元に置いた。


 ちょうど部活帰りの生徒たちが昇降口から出てくる。何人かが二人を振り返り、ひそひそと声を交わした。


「あの子、朝の転入生じゃない?」


「隣の子も可愛い……」


 沙耶も普段から容姿を褒められることはある。それでも、隣の秋穂は別格だった。整った目鼻立ちに、目が合うだけでこちらまで笑顔になりそうな愛らしさ。アイドルが制服を着て座っていると言われても、納得してしまいそうだ。


 秋穂はそんな視線を気にする様子もなく、膝の上の鞄に両手を重ねた。


「今朝は、蓮司様を驚かせてしまいましたね」


「……驚いたのは蓮司だけじゃないと思うけど」


「ふふ。そうですよね。嬉しくて、つい」


 照れたように笑う姿は、恋する女の子そのものだった。


「蓮司様、学校では楽しく過ごされていますか?」


「うん。友達もできたし、楽しそうだよ。今までできなかったこと、いっぱいあるから」


「……そうですか。よかった」


 秋穂がほっと息を吐いた。


「村にいた頃は、蓮司様が学校に通うなんて、考えられませんでしたから」


 沙耶は、蓮司が入学したばかりの頃を思い出す。教室も学食も、電車での通学さえも新鮮で、何でも知りたがっていた。


「今も初めてのことばっかりで、結構楽しんでると思う」


「ふふ。目に浮かびます」


 その笑顔は、少なくとも沙耶には本物に見えた。


 だからこそ、聞いておきたかった。


「でも、村に引き戻すつもりなんでしょ?」


 秋穂が目を瞬かせる。


「蓮司様を、ですか?」


「うん。わざわざ東京まで来たんだから」


「私は、蓮司様と一緒に暮らせるなら、村でも東京でも構いませんよ」


「……東京でもいいの?」


「はい。蓮司様がこちらを気に入っていらっしゃるなら、私もここで暮らしたいです」


 思っていたのとは違う答えだった。村に戻らなければいけない、と言われるものだと思っていた。


「じゃあ、蓮司が村に戻りたくないって言ったら?」


「それなら、東京で一緒に暮らす方法を考えたいですね」


「……一緒に暮らすって、もう決まってるの?」


 秋穂はきょとんとしたあと、頬を赤らめた。


「まだです。でも私、蓮司様の一番のお嫁さんになりたいんです」


「……一番?」


「はい。正妻です」


 沙耶は思わず秋穂を見つめた。


「正妻って……ほかにもお嫁さんがいる前提?」


「もちろんです」


 秋穂は当たり前のように頷く。


「蓮司様を私一人で独り占めするわけにはいきませんから。でも、一番近くでお世話できるのは私がいいんです」


「……いや、待って。それ、おかしいと思わない?」


「何がでしょう?」


 聞き返す声には、少しのためらいもなかった。


 沙耶は口を開きかけて、閉じた。何から説明すればいいのか分からない。自分にとって当たり前のことが、目の前の少女にはまるで通じていなかった。


 秋穂はふと思いついたように、沙耶の顔を覗き込む。


「そういえば、沙耶さんは蓮司様のことがお好きなんですか?」


「はっ!? な、何でそうなるの!」


「毎日ご一緒なのでしょう? それに、とても大切になさっているみたいですから」


「それは……友達だし、パパからも一緒に行動するように言われてるから」


「そうなんですね。では、お好きではないんですか?」


「……それ、今答えなきゃ駄目?」


「いいえ。聞いてみたかっただけです」


 沙耶は膝の上で指を組んだ。


 蓮司と遊園地へ行った日のことを思い出す。観覧車の中で、また二人で来ようと約束した。思い出すと少しだけ胸が温かくなる。


 けれど、それを今ここで秋穂に話す気にはなれなかった。


「もし沙耶さんも蓮司様をお好きなら、一緒にお嫁さんになれますね」


「……え?」


 顔を上げると、秋穂は嬉しそうに笑っていた。


「沙耶さんは優しい方ですし、蓮司様も安心できると思います。私たちも仲良くできたら嬉しいです」


「ちょっと待って。私はそんな話、一言も――」


「もちろん、正妻の座は譲れませんけど」


 冗談を言うような軽い口調だった。だが、その目はまっすぐで、少しも迷いがない。


 沙耶は息を呑んだ。


 恋敵かもしれない相手に「一緒にお嫁さんになれる」と笑いかける。その一方で、自分が一番になることだけは当然のように決めている。


(……これ、普通の恋愛の話じゃない)


「でもさ、蓮司が結婚したくないって言ったらどうするの?」


「……結婚したくない、ですか?」


「そう。黄桃さんとは結婚しないって、はっきり断られたら?」


 秋穂は少し考え込んだ。


「私のどこかが、気に入らないのでしょうか」


「そういう話じゃなくて」


「でしたら、気に入っていただけるように努力します。料理も、家のことも、もっと上手になりたいですし」


「……何度断られても?」


「はい。何度でも、私のいいところを知っていただきたいです」


 秋穂は微笑んだ。沙耶が怯むほど、嬉しそうに。


「……それって、蓮司の気持ちを無視してない?」


「そんなことありません。蓮司様のお気持ちは、とても大切です」


「だったら、嫌だって言われたら諦めることも――」


「だからこそ、私を好きになっていただきたいんです」


 話が噛み合わない。


 沙耶が聞いているのは、蓮司が拒絶したときに身を引けるのかということだ。秋穂が話しているのは、どうすればその気持ちを変えてもらえるかということだった。


「……もし、どう頑張っても好きになってもらえなかったら?」


 秋穂はほんの少しだけ眉を下げた。


「それは、悲しいですね」


 ようやく言葉が通じたのかと思った。


「でも、まだ何も始まっていませんから。今からそんなことを考えても、仕方ありませんよね?」


 すぐに、いつもの笑顔が戻った。


 沙耶の背筋に冷たいものが走る。


 秋穂は一度も、無理やり連れ戻すとは言わなかった。脅しもしない。東京で暮らしてもいいとまで言った。


 それなのに、蓮司と結ばれない未来だけは、まるで考えていないようだった。


「……黄桃さんは、蓮司のこと、そんなに好きなんだね」


「はい。蓮司様が十三歳のときに初めてお会いして、それからずっと」


「……お昼にもそう言ってたね」


「ええ。私にとって、とても大切な思い出です」


「でも、蓮司は今日まで黄桃さんの顔を知らなかったよね」


「そうですね。でも、私は覚えていますから」


 秋穂は大切なものを思い返すように微笑んだ。


「……そんなに魅力的だったんだ」


「はい。一目惚れでした。この方と誰よりも先に結ばれたいと思ったんです」


 沙耶はそれ以上追及しなかった。二人がどこで、どのように顔を合わせたのかは分からない。ただ、秋穂にとっては、それがすべての始まりだったのだろう。


 そのとき、鞄の中でスマートフォンが震えた。


『今終わった。そっち行く』


 蓮司からだ。


 沙耶が画面を確かめると、秋穂は膝の上の鞄を肩に掛け、足元の弁当箱の包みを手に取って立ち上がった。


「では、私はそろそろ失礼しますね」


「……蓮司に会っていかないの?」


「会いたいです。でも、今日は沙耶さんとお話しできましたから」


 秋穂は弁当箱の包みを片手に、にっこりと笑う。


「私、沙耶さんとも仲良くなりたいんです」


「……どうして?」


「だって、これから長いお付き合いになるかもしれませんもの」


 沙耶は返事ができなかった。


「それでは、また明日」


 秋穂は丁寧に頭を下げ、校門へ歩いていく。すれ違った生徒がまた振り返ったが、秋穂は最後まで気にしなかった。


(……本当に、悪い子には見えないのに)


 優しい言葉も、嬉しそうな笑顔も、嘘ではないのだろう。


 けれど、そこにある当たり前が、沙耶のものとは決定的に違っている。


「沙耶」


 声に振り向くと、蓮司が昇降口から出てきたところだった。


「悪い、待たせた」


「ううん。私が早く終わっただけ」


 沙耶は立ち上がり、鞄を肩にかけた。


「……何かあった?」


 蓮司が顔を覗き込んでくる。


 沙耶は一瞬迷い、秋穂が去った校門の方へ目を向けた。


「さっき、黄桃さんと話したんだ」


「……黄桃と?」


「うん。帰りながら話す。ちょっと聞いてほしいことがあるから」


「分かった」


 二人で並んで歩きだす。


 毎日繰り返してきた、いつもの帰り道。隣を歩く蓮司の表情は、いつもと変わらない。


 それなのに沙耶は、さっきの秋穂の笑顔を思い出していた。


『だからこそ、私を好きになっていただきたいんです』


 蓮司がどんな答えを出しても、あの子は笑っているのだろうか。


 それを確かめたいとは、少しも思えなかった。

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