EP 7
職人たちの意地。振動の歌姫と、流体力学のヤンデレ姫
――(無音)。
深海の底に沈む密閉空間で、ユートの放つ黄金のオーラが泥沼を照らし出していた。
歓声に依存していたシステムを自力で強制起動させ、ザイクの水圧の刃を弾き飛ばした勇者。だが、足場が液状化しているため、宙に浮くザイクへと攻撃を届かせることはできない。
『……チッ。想定外の出力ですが、所詮は届かぬ牙。的が少し硬くなったに過ぎません!』
堕天使ザイクが、銀縁眼鏡を押し上げながら両手を振るう。
無音の空間に、先ほどよりもさらに無数の『水圧のギロチン』が形成され、雨霰のごとくユートへと殺到した。
ズガガガガガッ!!
ユートがタローマンの鉄剣と盾を振り回し、迫り来る水刃を次々と弾き落とす。
だが、液状化した泥に足をとられているため、回避行動が取れない。防御の衝撃を逃がすことができず、ユートの腕には限界を超える負荷がかかっていた。
このままでは、あと数十秒で盾ごと押し潰されてしまう。
(……くそっ! 届かない……! トリスが死にそうなんだ! 早くあいつをぶっ飛ばさなきゃいけないのに……っ!)
ユートが焦燥に顔を歪めた、その時。
――ズシンッ。
ユートの足元。液状化したドロドロの泥の奥底から、激しい『振動』が伝わってきた。
「……っ!?」
ユートが振り返ると、そこには、涙と泥でぐちゃぐちゃになった顔のリーザが、自らのマイクを『泥の中』へと深々と突き立てている姿があった。
(音が空気を伝わらないなら……水と地面を直接揺らして、ぶち込んでやりますの!!)
リーザの瞳には、かつての極貧アイドルとしての弱々しさはない。
トリスが血を流して自分たちを守ってくれた。ユートがたった一人で前線を支えている。
なら、自分だけがここで泣いて、何もせずに終わるわけにはいかない!
絶対沈黙の空間は、あくまで『空気中を伝わる音波』を吸収・無効化する魔法だ。
ならば、空気を通さなければいい。
水や泥といった『流体と固体』は、空気よりも遥かに音(振動)の伝導率が高い。前世で言うところの、骨伝導や水中音波探知機と同じ原理だ。
(私の特等席へようこそですのぉぉぉぉぉッ!!!)
リーザは泥の中にマイクを突き刺したまま、喉から血が出るほどの絶叫で『歌』を放った。
声は空気中には響かない。
だが。
ゴゴゴゴゴゴゴォォォォォォッ!!!
『なっ……!? この揺れは……!?』
ザイクの表情が、初めて驚愕に歪んだ。
液状化していたドーム全体が、激しい『重低音の振動(低周波)』によって激しく波打ち始めたのだ。
泥を伝わり、海水を伝わり、ザイクの足元から直接、強烈な物理的振動が叩き込まれる。
背後に顕現した【貧乏神】の吸引力が、振動を伴ってザイクの魔力障壁を削り取りにかかる。空気を介さない直接的な『揺さぶり』は、三半規管を狂わせ、ザイクの浮遊魔法の出力を一瞬だけ乱した。
『馬鹿な……空気の振動は完全に封じたはず! 水中音響の原理で直接魔力を削りに来ただと!? データにないぞ……ただのアイドルが、そこまでの機転を利かせるなど!!』
ザイクの姿勢がわずかに崩れ、水圧の刃の形成が一時的に停止する。
(今ですの! キャルル!!)
リーザの目配せ(アイズ)を受けたキャルルが、動いた。
彼女もまた、トリスの流血を見て絶望に沈んでいた一人だ。だが、ユートの覚醒とリーザの機転が、ヤンデレ姫の戦意(殺意)を極限まで研ぎ澄ましていた。
(トリス君を……私のトリス君を傷つけた。……絶対に、細切れにして殺す!)
キャルルは、液状化した泥の上にしゃがみ込み、自らの『特注安全靴』の靴底を凝視した。
トリスが整備してくれたこの安全靴は、幅広で平らな構造をしており、足裏全体で衝撃を逃がすように設計されている。
沼に足を取られるなら、踏み込もうとするから沈むのだ。
ならば。
(沈む前に、滑ればいい……!)
キャルルは、両足の安全靴の底に自らの魔力を集束させ、泥の表面に『薄い魔力の膜』を形成した。
そして、ユートの背中にドンッと手を突き、強烈な反発力を得て前傾姿勢で飛び出した。
――ズザァァァァァァァァァッ!!
『……な、に……!?』
ザイクが息を呑む。
キャルルは、液状化した泥に沈むことなく、水面を滑走するモーターボートのように、凄まじい速度で泥の上をスライディング機動で突き進んできたのだ。
前世の流体力学における『ハイドロプレーニング現象』。
自動車が水たまりを高速で走ると、タイヤと路面の間に水の膜ができ、摩擦を失って滑走する現象だ。通常なら大事故に繋がるその現象を、キャルルは自らの絶妙なバランス感覚と魔力コントロールによって『意図的』に引き起こし、水上スキーの要領で泥沼を走破していた。
(……やるじゃないか、お前ら)
血まみれで泥に手をついていた俺は、職人たちの意地の応酬を見て、獰猛な笑みを深くした。
データを妄信するザイクの最大の誤算。
それは、こいつらが俺の『指示』だけで動く操り人形だと思い込んでいたことだ。
こいつらは、環境がなければ戦えない素人じゃない。自ら現場の状況に適応し、あるもので工夫する『一流の職人』へと成長しているのだ。
『く、来るなァァッ!!』
ザイクが焦り、キャルルへ向けて水圧の刃を乱れ撃つ。
しかし、ハイドロプレーニングによる直線的な滑走に、キャルルは『安全靴のエッジ』を泥に立てることで、ジグザグの予測不能なスラローム機動を上乗せした。
音もなく放たれる水圧の刃を、紙一重でかわし、すり抜け、ザイクの懐(死角)へと肉薄する。
(捕まえた……!!)
キャルルの瞳が、月兎族特有の真紅に発光した。
ザイクの浮遊魔法の死角――足元に滑り込んだキャルルは、ハイドロプレーニングの勢いを殺すことなく、その運動エネルギーの全てを右足の跳躍力へと変換した。
液状化の泥を魔力の膜ごと蹴り砕き、キャルルが宙を舞う。
『しまっ――!』
ザイクが防御魔法を展開しようとしたが、リーザの重低音デバフによって三半規管を揺らされているため、反応が致命的に遅れた。
(月影流――『重機落とし・スライドブレイク』ッ!!)
――ドゴォォォォォォォォンッ!!!
キャルルの特注安全靴の踵が、ザイクの魔力障壁をガラスのように粉砕し、その肩口へと強烈に叩き込まれた。
「ガハッ……!?」
無音空間であっても、ザイクが肺から空気を吐き出し、激痛に顔を歪めたのが分かった。
空中で体勢を崩し、浮遊魔法の出力が切れ、ザイクの身体が液状化した泥の上へと無様に墜落する。
(よし! いけぇぇッ、ユート!!)
(任せろォォッ!!)
声なき連携。
キャルルの一撃で泥に落ちたザイクへ向けて、黄金のオーラを纏ったユートがタローマンの鉄剣を構えて突進しようとする。
だが。
ザイクはゴッドチューブのデータ分析官にして、堕天使。ただの一撃で終わるほど、脆い存在ではなかった。
『……ふざけるな。……ふざけるなァァァッ!!』
泥まみれになりながら立ち上がったザイクの銀縁眼鏡が割れ、その奥の瞳が狂気に満ちていた。
彼は懐から、炎上神ワイズの加護を受けた『神聖結晶』を引きずり出し、それを握り潰した。
『Eランクのゴミどもが……私の分析データ(ロジック)を越えるなど、あってはならない!! ここで完全に、分子レベルまで圧殺してやる!!』
ザイクの背中の片翼が黒々としたオーラを放ち、アクア・パレスを覆う海中の『全水圧』が、ドームの内部へと強制的に引き込まれ始めた。
無音のまま、空気が異常な密度で圧縮され、息をすることすら困難な超重圧の空間が形成されていく。
(……マズいッス! あいつ、ヤケクソになってドームごと海水の圧力で俺たちを潰す気ッス!!)
ユートの顔が青ざめる。
いくらユートが覚醒しようと、キャルルが機動力を取り戻そうと、数千メートルの深海の『水圧』そのものを武器にされれば、物理的に抗う術はない。
ドームの強化ガラスにヒビが入り始め、圧倒的な死の気配が迫る。
職人たちの意地が作り出した反撃のチャンスも、神の理不尽な暴力の前には潰えてしまうのか。
――いや。
彼らが命懸けで稼いでくれたこの『数十秒間』こそが。
現場監督(俺)にとって、最も欲しかった『工期』だったのだ。
「……待たせたな、お前ら」
泥の中にうつ伏せに倒れていた俺は。
背中から流れる血を止血することもなく、ゆっくりと、獰猛な笑みを浮かべて立ち上がった。
『……!? 現場監督!? 馬鹿な、あれほどの出血で、まだ立てるというのか!?』
ザイクが驚愕に目を剥く。
「……計算違いだったな、三流のデータ屋」
声は出ない。だが、俺は確かに唇を動かした。
「お前は、俺の血を『ただのダメージ』と計算した。だが、一級建築士である俺の血は、百馬力の魔力が溶け込んだ『最高純度のバインダー(凝固剤)』だ」
俺は、液状化した泥の奥深くに突っ込んでいた右手を、勢いよく引き抜いた。
その瞬間。
俺の血と魔力を混ぜ合わせた泥沼が、不気味な赤紫色に発光し始めた。
「環境書き換え(リフォーム)。……第一段階」
俺が両手を強く打ち合わせた、その刹那。
――ガァァァァァァァァァンッ!!!!
ザイクの展開していた【液状化】の魔法が、完全に打ち砕かれた。
ドロドロのスライム状だった泥沼が、俺の血を触媒にして瞬時に化学反応を起こし、鋼鉄をも凌駕する『超硬度の岩盤(水中硬化コンクリート)』へと一瞬にして変貌を遂げたのだ。
「これでお前らの『足場』は完璧だ。……さあ、ここからが本番だぞ」
血まみれの現場監督が、最悪の逆境を物理と化学の力でひっくり返した瞬間だった。




