EP 6
歓声なき勇者。俺はもう、誰の応援がなくても立ち上がる
――(無音)。
深い海溝の底へと沈みゆく、シーラン国の海底リゾート『アクア・パレス』。
堕天使ザイクの作り上げた【絶対沈黙】の空間は、いかなる音波をもスポンジのように吸収し、世界から「音」という概念そのものを消し去っていた。
『無駄な足掻きです。現場監督が死に、足場も音もない。……さあ、これで終わりだ』
ザイクが腕を振り下ろす。
超高水圧で形成された巨大な『断頭刃』が、俺とユートたちを真っ二つに両断すべく、無音のまま真空を切り裂いて迫り来る。
泥の中に膝をつき、背中から大量の血を流している俺には、もうそれを回避する術も、新たな防壁を瞬時に作り出す余裕もない。俺の右手は泥の中に沈み、自分の血と魔力を混ぜ合わせた『水中硬化コンクリート』の錬成準備に入っているため、数秒間は完全に無防備だった。
死が、静かに、だが確実に迫る。
しかし。
俺の背後で、泥まみれになりながら震えていた少年――ユートの心の中では、周囲の静寂とは真逆の、激しい感情の嵐が吹き荒れていた。
(俺は……)
泥に塗れたタローマンの鉄剣を握りしめ、ユートは自分自身に問いかけていた。
俺は、どうして『勇者』になれたんだ?
借金に追われ、コタツ女神に騙され、マグローザ漁船に怯えていたただの農民。
剣の振り方も知らず、ちょっと強い魔物が出れば逃げ出そうとしていた弱虫。
そんな自分がS級のバケモノたちと戦えるようになったのは、紛れもなく『ユニークスキル【トゥルー・ブレイブ】』のおかげだった。
群衆が自分を称賛し、応援してくれる。その大歓声が俺の身体に無限の力を与え、恐怖を塗り潰し、限界を突破させてくれた。
(でも、今は……)
ユートは血走った目で周囲を見る。
誰もいない。
歓声はない。
自分が剣を振るう姿を見て拍手をしてくれる村人も、賞賛のスパチャを投げてくれるゴッドチューブの視聴者も、この無音の密閉空間には存在しない。
応援がなければ、力が湧かない。
誰かに見てもらえなければ、勇気が出ない。
――それが、これまでのユートの『限界』だった。
『貴方は、他人の声に依存しなければ戦えない、空っぽの器だ。……大人しく、その無力な農民の姿のまま、泥に沈んで死になさい』
ザイクのテレパシーが、ユートの心を残酷に抉る。
(……そうだ。俺は空っぽだ。みんなの応援がなきゃ、タローマンの鎧を着ただけの、ただのビビりだ……)
迫り来る水圧の刃。
その死のプレッシャーに、ユートの心が折れかけた、その時だった。
(――立て、ユート!!)
声は出ない。だが、俺の鋭い視線と唇の動きが、ユートの瞳を真っ直ぐに射抜いた。
背中を深く斬り裂かれ、大量の血を流している俺の姿。
いつも安全な場所から完璧な指示を出し、決して泥に塗れることのなかった『最強の現場監督』が、自分たちのような不甲斐ない職人を庇うためだけに、無惨に傷つき、それでも獰猛な笑みを浮かべて戦おうとしている。
その姿を見た瞬間。
ユートの心の中で、何かが『パチン』と弾けた。
(……誰の応援もない?)
(……誰も見ていない?)
(……ふざけるな。だったらなんだって言うんだ)
ユートは、泥の中に両足を踏ん張った。
液状化した足場に足首まで沈み込みながらも、タローマンの鉄剣を両手で強く、強く握り直す。
(俺に勇気をくれたのは、村人の歓声じゃない。ゴッドチューブの視聴者でもない)
(俺を信じて、最高の足場を作って背中を押してくれた……トリスだ!!)
ユートの脳裏に、これまでの戦いの光景がフラッシュバックする。
ボロボロになっても盾として前に出ることを教えてくれた。
逃げ出そうとする俺を叱咤し、居場所を与えてくれた。
ゼロスのような偽物ではなく、「お前が本物の勇者だ」と認めてくれた。
(トリスが、血を流して俺を守ってくれたんだ。……だったら、俺はもう、誰の応援がなくても立ち上がる!!)
ユートの瞳から、恐怖と迷いが完全に消え去った。
『な……っ!?』
泥の上に浮遊するザイクが、銀縁眼鏡の奥で驚愕に目を見開いた。
無音の世界。歓声も、拍手も、何一つ存在しない絶対沈黙の空間で。
ユートの身体の奥底から、太陽のように眩い『黄金のオーラ』が、爆発的に噴き上がったのだ。
「――――――――ッッ!!!」
声にならない絶叫。
だが、その魂の咆哮は、空気の振動ではなく、圧倒的な熱量となって周囲の泥と海水を沸騰させた。
ユニークスキル【トゥルー・ブレイブ】。
他者の歓声という外部エネルギー(バフ)に依存していたシステムが、ユート自身の『誰かを守りたいという強烈な意志』をトリガーにして、自力での【強制起動】を果たした瞬間だった。
(……よくやった、ユート)
背中の激痛に耐えながら、俺は口角を吊り上げた。
これでいい。他人の評価(PV)や歓声に依存する勇者は、ゼロスと同じだ。
誰も見ていない暗闇の中で、たった一人の仲間のために剣を抜ける奴こそが、俺の引いた図面にふさわしい『本物の職人』だ。
――ズドゴォォォォォォォンッ!!!
無音の衝撃。
ザイクの放った超高水圧のギロチンが、俺たちを両断する寸前。
黄金のオーラを纏ったユートが、タローマンの鉄剣をフルスイングで下からカチ上げた。
バキィィィィィィィンッ!!!!
鉄剣と水圧の刃が激突する。
本来なら、タローマン製の安い鉄剣など一瞬でへし折られ、ユートごと両断されるはずの威力。
だが、自力で【ブレイブ】を起動させ、限界を突破したユートのステータス(腕力)は、水圧のギロチンを完全に相殺し、あろうことか粉々に弾き飛ばしてしまった。
『馬鹿な……!? 歓声もなしに、なぜそれほどの出力が出せる!? データにないぞ!!』
ザイクのテレパシーに、明らかな動揺が混じる。
分析データしか信じない堕天使には、人間の持つ『感情のバグ(根性)』など理解できるはずもない。
「…………ッ!!」
ユートは声にならない怒号を上げながら、ザイクを真っ直ぐに睨みつけた。
その瞳には、かつての農民の弱々しさは微塵もない。
仲間を傷つけられた怒りと、絶対にトリスを守り抜くという鋼の意志が宿っていた。
『……チッ! 一時的なバグ(誤作動)だ! 足場がない泥の中では、貴方から私へ攻撃を届かせることは不可能! 次で確実に仕留めてやる!』
ザイクが焦ったように両手を動かし、さらに数え切れないほどの水圧の刃を形成していく。
確かにザイクの言う通りだ。
ユートがいくら覚醒しようと、足場が液状化している状態では、空中に浮かぶザイクへと踏み込んで攻撃を当てることはできない。ジリ貧の防衛戦になるのは目に見えている。
――だが、ユートの覚醒は、決して無駄な時間稼ぎではない。
彼が稼いでくれたこの数十秒間こそが、現場監督(俺)にとって最も必要な『工期』だった。
(……材料の混合、完了)
俺は、泥の奥深くに突っ込んでいた右手に、意識を集中させた。
自分の背中から流れた血(高純度の魔力バインダー)を、泥の中のミネラル成分と完璧な比率で結合させる。
前世の技術と、今世の魔法が融合した、一級建築士トリスの起死回生の特殊建材。
(待たせたな、お前ら。……俺の『足場』は、決して倒壊しない)
血まみれの顔で、俺は悪鬼のような笑みを浮かべた。
反撃の図面(リフォーム計画)は完成した。
ここからは、泥に沈められた職人たちが、データ屋の想定を遥かに超えた『暴力的な連携』で盤面をひっくり返す時間だ。




