EP 5
【衝撃回】現場監督の流血。計算外の刃と、崩れ落ちるタローマンジャージ
――(無音)。
それは、死神の振るう大鎌のように、一切の風切り音もなく俺たちへと迫ってきた。
深海の高い水圧を極限まで圧縮して形成された『水圧のギロチン』。
堕天使ザイクが放った三つの断頭刃は、液状化した泥の中で身動きの取れないユート、キャルル、リーザの首筋へと、正確無比な軌道で殺到していた。
(……回避ルート、構築不可)
俺の『脳内CAD』が、絶望的な赤いアラートを明滅させる。
コンクリートの防壁は自重で泥に沈み、盾にはならない。
仲間たちの機動力は液状化した足場に完全に奪われている。
このままでは、コンマ五秒後に三人の首が胴体とお別れする。
これまでの俺なら、強靭な物理インフラ(防弾ガラスや鉄筋の檻)を瞬時に構築し、現場を完全な安全地帯へとリフォームすることで全てを解決してきた。
だが、その『環境』を作る手段が封じられた今。
俺が彼らを死線から引き戻すために使える『建材』は、もう――一つしか残っていなかった。
「……っ!!」
俺は、限界まで引き絞った両脚の筋肉(百馬力)を爆発させ、泥の抵抗を力任せに引き千切って跳躍した。
三方向へ放たれた水圧のギロチンの中心。ユートたちの盾となる位置へ、自らの『肉体』を強引にねじ込む。
(魔力障壁、全出力!! 身体の背面へ集中配置!!)
タローマンジャージの繊維の隙間にまで超高密度の魔力を浸透させ、背中の筋肉を鋼鉄以上の硬度に強制硬化させる。
自分の身体を、ただの一枚の『防護壁』として扱うという、現場監督にあるまじきヤケクソの突貫工事。
そして。
無音の世界で、その時は訪れた。
――(衝撃)。
音が無いからこそ、その破壊力は生々しい『振動』と『熱』となって、俺の全身を突き抜けた。
三つの水圧のギロチンが、俺の背中に同時に直撃したのだ。
(ッッ――――!?!?)
声にならない絶叫が、俺の肺の奥で爆発する。
タローマン製のプロ仕様ジャージが、全く抵抗の余地なくズタズタに引き裂かれる。
魔力で鋼鉄以上に硬化させていたはずの背中の筋肉が、紙のように斜めに深く切り裂かれ、骨膜を削り取るような凄まじい激痛が脳天を貫いた。
ドス黒い赤色が、無音の空間に花のように咲き乱れた。
俺の背中から噴き出した大量の鮮血だ。
その血飛沫は、泥の中に膝まで沈んでいたユートの頬に、べっとりと生々しく張り付いた。
「……ぁ……」
ユートの目が、限界まで見開かれた。
口が大きく開き、声にならない悲鳴を上げているのが分かる。
俺の身体が、完全に力学的なバランスを失い、液状化した泥の上へとドサリと崩れ落ちた。
膝をつき、両手が泥に塗れる。
口の端から、熱い血がボタボタと滴り落ち、水底の泥を赤く染めていった。
「……っ……はぁっ……っ!」
痛い。凄まじく痛い。
前世のゼネコン時代、足場から落下して骨折した時の何十倍もの劇痛だ。
だが、致命傷には至っていない。背骨と内臓は、ギリギリのところで魔力障壁が守り切った。
『……ほう。驚きました』
俺の脳内に、ザイクの嘲笑に満ちたテレパシーが響く。
『まさか、合理主義の塊であるはずの現場監督が、自らの命という【コスト】を支払ってまで、無力な職人たちを庇うとは。……呆れた無駄遣い(オーバーコスト)だ。貴方はもっとクレバーな男だと思っていましたが、所詮は感情に振り回される愚か者に過ぎなかったようだ』
泥の上に浮遊するザイクが、銀縁眼鏡の奥で氷のような目を細めた。
彼の言う通りかもしれない。
俺の行動は、現場監督としては最悪の判断だ。自分が倒れれば、現場の指揮系統は完全に崩壊する。
――だが。俺が倒れ込んだことで、水圧の刃から無傷で守り抜かれた仲間たちがいた。
「――っ!! ――っっ!!!」
無音の世界で。
泥に足を取られながら、キャルルが狂乱したように手を伸ばして泣き叫んでいた。
その美しい顔は涙と泥でぐちゃぐちゃになり、今すぐ俺の元へ駆け寄ろうと必死にもがいているが、底なし沼に機動力を奪われ、数メートル先の俺にすら指先一つ届かない。
リーザは両手で頭を抱え、信じられないものを見たというように瞳孔を収縮させ、絶望の顔で声を上げて泣き崩れている。
そして、俺のすぐ背後で守られたユートは。
頬に付いた俺の血を震える手で触り、タローマンの鉄剣を取り落としたまま、ガクガクと全身の震えを止めることができずにいた。
彼らにとって、俺は『絶対の安全』を保証する存在だった。
どんな強敵が現れようと、俺が背後で腕組みをして立っていれば、絶対に怪我一つ負うことはないと信じていた。
その『絶対の神話』が、目の前で崩れ去ったのだ。
それも、自分たちのような不甲斐ない職人を庇うためだけに、無惨に血を流して倒れている。
『ごめんなさい、トリス君……! 私が、私が動けないせいで……っ!』
『トリス様……死なないで……嫌ですの……っ!』
テレパシーすら通じない無音空間の中で、キャルルとリーザの唇の動き(読唇)が、激しい後悔と悲痛な叫びを伝えてくる。
『さて、感動のメロドラマは終わりです』
ザイクが、冷酷な目で再び指先を天に掲げた。
頭上に、先ほどよりもさらに巨大な水圧の刃が形成されていく。
『環境を奪われ、指揮官がダウンした。……ゲームオーバーです、【ホープ・クローバー】。貴方たちの無様な全滅の様子は、私がゴッドチューブのアーカイブに特別編集として残しておいて差し上げましょう』
ザイクのテレパシーが死の宣告を告げる。
絶体絶命。
誰の目から見ても、俺たちの盤面は完全に詰んでいた。
――だが。
俺は、泥の中に膝をつき、全身から血を流しながらも。
タローマンジャージのポケットから、ゆっくりと『両手』を抜いた。
「……ゲホッ。……誰が、ゲームオーバーだって?」
声は出ない。
だが、俺の唇の動き(言葉)は、ザイクの目を確かに捉えていた。
『……まだ息がありましたか。虚勢を張っても無駄です。足場も音もないこの空間で、背中を斬られた貴方に何ができるというのですか?』
俺は、激痛に歪む口元に、狂気すら孕んだ『獰猛な笑み』を浮かべた。
(……この三流データ屋が。俺の計算を舐めるな)
俺は、血の滴る自らの背中の傷口に手を当てた。
そして、その『真っ赤な血』がべっとりと付着した右手を、液状化したドロドロの沼の表面へと突き立てた。
(お前は『足場がないから建築は不可能だ』と言ったな。……確かに、泥の上に普通のコンクリートは固まらない。だが、建築業界(前世)には、泥水の中でも瞬時に硬化する『特殊建材』が存在するんだよ)
俺の『脳内CAD』が、これまで構築不可能だった図面を、激しい演算と共に再構築していく。
必要なのは、泥の水分を強制的に吸収・結合させるための『特殊なバインダー(凝固剤)』。
そして、俺の百馬力の魔力と、俺自身の肉体から流れた『高純度の魔力を帯びた血液』こそが、そのバインダーの役割を果たす。
(……俺が何の考えもなしに、無防備に身体を張って血を流したとでも思ったか? この泥沼をコンクリートに変えるための『材料』を、自給自足で撒き散らしただけだ)
激痛で意識が飛びそうになるのを、精神力だけで繋ぎ止める。
まだだ。まだ着工のタイミングじゃない。
俺がこの『水中硬化コンクリート』を完成させ、足場を再構築するためには、あと数十秒の『時間』が必要だ。
だが、ザイクの水圧の刃は、もう数秒後には降り注ぐ。
俺は動けない。キャルルもリーザも動けない。
この絶望的な空白の数秒間を埋められるのは、もう――あいつしかいない。
俺は、泥の中で肩を震わせているユートの方を振り返り、声にならない声で力強く叫んだ。
(――立て、ユート!!)
俺の視線が、ユートの怯える目を真っ直ぐに射抜く。
(お前は勇者だろ。……観客の歓声がなきゃ、お前は戦えないのか? 誰にも応援されなきゃ、お前はただのタローマンを着た農民に戻るのか!?)
無音の叱咤。
血まみれの俺の顔を見て、ユートの瞳が大きく揺れた。
『無駄です。彼はもう戦えません。歓声を奪われた勇者など、ただの案山子に過ぎない』
ザイクが冷酷に腕を振り下ろす。
水圧の巨大な断頭刃が、俺たちの命を刈り取るために、音もなく迫り来る。
(違う……!!)
ユートの顔が、恐怖から、別の感情へと強烈に歪んだ。
泥の中に落ちていたタローマンの鉄剣を、彼の手が泥ごと強く、強く握りしめる。
観客が誰もいなくてもいい。
誰も自分のことを見ていなくてもいい。
ただ、自分の背中を押してくれた。自分を『勇者』だと呼んでくれた。
この血まみれの恩人を守るためなら――!
――(無音)。
だが、俺の目には確かに見えた。
ユートの身体の内側から、歓声など一切ない完全な静寂の中で。
彼自身の『意志』だけで火が点いた、眩いばかりの黄金のオーラが、爆発的に噴き上がるのを。
読んでいただきありがとうございます。
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