EP 4
封じられた必勝パターン。声の届かないアイドルと、沈む安全靴
――(無音)。
波のプールも、風のざわめきも、自分自身の荒い呼吸音すらも、全てが漆黒の海溝に吸い込まれたかのような絶対的な静寂。
視覚と触覚だけが頼りの、狂気の無音空間【絶対沈黙】。
『さあ。まずは現場監督、貴方のお手並みを拝見しましょうか』
脳内に直接響く、堕天使ザイクの冷酷なテレパシー。
浮遊魔法によって泥(液状化ドーム)の上を滑るように移動するザイクは、タクトを振るうように指先を動かした。
――(無音)。
ザイクの周囲の海水が圧縮され、目に見えないほどの高水圧の『槍』が数本形成される。それが、音もなく、弾丸を凌駕する速度で俺たちへと放たれた。
「……!」
俺は目で仲間たちに回避の指示を送りながら、両手を泥の中に突っ込んだ。
地盤が液状化していようと、俺の【建築工房】は物質の構造を直接書き換える。泥の中のわずかなミネラルと砂利を抽出し、超高密度に圧縮。
(地盤改良工事……! からの、防壁錬成!)
泥の底から、四本の巨大な鉄筋コンクリートの柱が急浮上する。
だが。
――ズズズズズズッ……!!
「……チッ!」
俺の表情が、初めて微かに歪んだ。
錬成した鉄筋コンクリートの柱は、俺の想定通りの硬度を持っていた。しかし、その『重さ』が仇となった。
基礎となる地盤がスライム状の底なし沼であるため、コンクリートの自重を支えきれず、錬成された瞬間からものすごい速度で泥の中へと沈降を始めてしまったのだ。
放たれた高水圧の槍が迫る。
沈みゆくコンクリート柱では防壁の役割を果たせず、水圧の槍は柱の頭上を越えて殺到した。
「……ッ!」
声にならない悲鳴を上げ、ユートがタローマンの鉄盾を構える。
――(無音の衝撃)。
盾の表面が大きく陥没し、ユートの身体が泥の抵抗を受けながら後方へと吹き飛ばされる。声が出ないため、痛みの度合いすら瞬時に判断できない。
「……ッ!!」
その隙を突き、キャルルが動いた。
沈みゆくコンクリートの柱。完全に泥に没するまでの数秒間、その柱の『側面』を蹴って跳躍し、ザイクへの肉薄を試みる。
特注安全靴の踵が、コンクリートの表面を捉える。
だが。
ズルンッ!
キャルルが目を見開いた。
踏み切る瞬間、足場である柱そのものが泥へと沈み込んでいるため、跳躍の推力(反発力)が完全に相殺されてしまったのだ。トランポリンの上でジャンプしようとして、トランポリンごと床が抜けたような感覚。
空中でバランスを崩し、為す術もなく泥の中へと落下するキャルル。
彼女の並外れた身体能力と機動力は、確固たる『足場』があってこそ発揮される。地盤というインフラを奪われたヤンデレ姫は、泥の中で足掻くただの無力なウサギに過ぎなかった。
『無駄です。遊撃手の跳躍力は、完全な足場(反発)に依存している。私の【液状化】空間では、いかなる強靭な脚力も泥に吸収されるだけだ』
ザイクの嘲笑が脳裏に響く。
泥まみれになりながら、キャルルが悔しそうにウサギ耳を伏せ、俺を見つめる。
『ごめん、トリス君。足が、動かない……』。声にならない彼女の唇の動きが、そう言っていた。
(……足場が死んだ。物理的な遊撃は封じられたな)
俺の『脳内CAD』が、異常な速度でエラー(再計算)を繰り返し、視界を赤く染め上げている。
これまでの現場では、どんな強敵が現れようとも、俺が足場を作り、キャルルが動くことで盤面をコントロールできていた。だが、この水底の密閉空間では、俺の『基礎工事』そのものが許されない。
「……っ!! ……ぇぇぇっ!!」
今度は、リーザが泥の中で必死に背伸びをしながら、マイクを握りしめて絶叫していた。
しかし、どれだけ肺活量を振り絞ろうと、彼女の喉から発せられた空気の振動は、ザイクの魔法空間によって一瞬でスポンジのように吸収されてしまう。
音が響かない。
つまり、敵の聴覚を狂わせる『デバフ』も発生しなければ、ユニークスキル【貧乏神】のお賽銭箱型掃除機も顕現しないのだ。
リーザは声が出ないことにパニックを起こし、マイクを地面に叩きつけて涙目になっている。
『無様ですね、歌姫。貴女の歌(魔法)は、空気というインフラがあって初めて成立する。絶対沈黙の空間では、貴女はただ口をパクパクさせているだけの観賞魚だ』
ザイクが、眼鏡の位置を直しながら氷のような冷笑を浮かべる。
そして、彼の視線は最後に、泥の中でタローマンの鉄剣を構えて震えているユートへと向けられた。
『そして、勇者ユート。……貴方にとって、この状況は最も残酷でしょう』
ザイクのテレパシーが、哀れむように響く。
『貴方の強さの源泉は、観客の【歓声】です。誰かに応援され、誰かの声を力に変えることで、貴方はレベルの壁を越えてきた。
……ですが。この空間には『音』が存在しません。つまり、誰一人として貴方に歓声を届けることはできない。貴方を勇者だと称賛する声は、一言も貴方の耳には届かないのです』
「……っ!!」
ユートが、血の気の引いた顔で周囲を見回す。
リーザが必死に何かを叫んでいるが、無音。
キャルルが泥から抜け出そうともがいているが、無音。
どこからも、何の声も聞こえない。世界にたった一人で取り残されたような、圧倒的な孤独と恐怖。
『応援のない貴方は、ただの農村出身の少年に過ぎない。タローマンの安物の鎧を着た、無力で、矮小な……ただの【素人】だ』
ザイクの言葉が、ユートの心を真っ二つにへし折りにいく。
ユートの構えていた鉄剣の切っ先が、ガタガタと震えながら下がり始めた。彼の中にあった『勇者としての矜持』が、音のない世界の絶望に飲み込まれようとしていた。
(……見事な解体作業だ。仲間の連携を物理的に分断し、メンタルまで同時に粉砕しにきている。ゴッドチューブの対策班の名は伊達じゃないな)
俺は、膝まで泥に浸かったまま、タローマンジャージのポケットの中で拳を強く握りしめた。
俺の『脳内CAD』は、未だに打開策(図面)を引き直せていない。
固まらないコンクリート。響かない音波。奪われた推力。
相手の構築したアンチ・インフラ(環境)が完璧すぎるのだ。前世のゼネコン時代から数え切れないほどの修羅場をくぐり抜けてきた俺でさえ、この『物理法則の否定』には明確な解答を見出せずにいた。
『さて、現場監督。貴方の引いた誇り高き図面は、これでおしまいです。PVの伸びも絶好調ですよ。……このまま何もできずに、水底の泥に沈んでいただきましょう』
ザイクが、両手を天に掲げた。
彼の頭上に、先ほどとは比べ物にならないほど巨大で、超高圧縮された『水圧の断頭刃』が三つ、形成されていく。
(……不味いな。あれを直接食らえば、タローマンの鎧ごと両断される。回避しようにも、この泥の中じゃ動けねえ)
俺は、最悪の被害想定を弾き出しながら、ポケットから手を抜いた。
一級建築士として。現場監督として。
俺が引いた図面(仲間)を、こんな三流のデータ屋の手によって崩落させるわけにはいかない。
――(無音)。
ザイクの腕が振り下ろされる。
三つの『水圧のギロチン』が、逃げ場のない泥沼でもがくユートたちへ向けて、音もなく、死神の鎌のように放たれた。
「……!」
俺は、泥の抵抗を無視して、自らの魔力(百馬力)を両足の筋肉へと強制的に過積載させた。
筋繊維がブチブチと千切れる感覚を無視し、液状化した地面を強引に蹴り飛ばす。
これまでの現場では、俺は常に安全地帯から『足場』と『環境』を作り、仲間を動かしてきた。
俺自身が最前線に飛び出し、泥に塗れるようなことは一度もなかった。
だが、インフラが崩壊した今、現場監督(俺)に残された手段はただ一つ。
――身体を張って、職人(仲間)を庇うことだけだ。
「……っ!!」
音のない世界。
俺のタローマンジャージの背中が、巨大な水圧のギロチンと、ユートたちの間に割り込んだ。
そして、一級建築士トリスの『完璧な計算』が、生まれて初めて、無残に打ち砕かれる瞬間が訪れようとしていた。




