6-4 43 仲直り
モンブランを買って帰るのは喜歩への当てつけになるだろうか。そう思いつつも、話を切り出すのに喜歩の好物を用意するのは適切だと判断した。
柳織駅構内のケーキ屋に立ち寄り、ビニール袋に包まれた箱を大事に抱えて帰路についた。
「ただいま〜」
恐る恐る、しかし声を張ろうと意識しながら自宅の扉を開く。すると、何かを焼いたような香ばしい匂いが漂ってくる。
「喜歩?」
喜歩がもっと幼い頃には、せがまれるまま料理を教えてやったこともある。しかし、こうして一人で食事の用意をすることなどあっただろうか。
とは言えまだ何も解決していない。
思いがけず高鳴ってしまった胸を抑えつつ、リビングへと足を踏み入れた。
「おかえり、母さん」
最低限の挨拶、という語調ではなかった。
今日の成果を見てもらいたい。そんな様子の息子の姿がキッチンカウンター越しに見えた。
「ああ、ただいま。ご飯作ってくれてたの?」
舞はキッチンへと回り込み、喜歩の手元を覗き込んだ。
「うん。と言ってもイカを焼いたのと、味噌汁作っただけだけど……」
「十分よ。お母さん、とっても嬉しいわ」
喜歩に向かってにっこりと微笑む。
「買い物まで行って来てくれたの? お金出すわよ」
「い、いいっていいって。俺が急に食べたくなっただけだから」
喜歩は首を小刻みに震わしている。
「あらそう? いいならいいけど。もう食べられる?」
「うん。テーブルに運んじゃうね」
――――――――
「伯父さんって海洋生物学者だったんだよね?」
大皿に切り分けられたイカをつつきながら喜歩が問う。
「おじさん?」
一体誰のことを指しているのだろう。
海洋生物学者のおじさんぐらい無数に存在するはずだ。
「うん伯父さん。その……輪太さんのこと」
舞の顔色を伺いながら、喜歩が続ける。
「輪太が、伯父さん?」
「そう、RNT02が俺の父さんなら、輪太さんは伯父さんになるんじゃないかって……」
喜歩の言わんとすることは察した。
しかし輪太のことは今でも亡き夫なのだと考えている。旦那の兄だと考えるのは釈然としないものがあった。
「……まあ、いいわよ。喜歩がそれで納得するなら」
舞はテーブルに置かれた輪太とのツーショット写真を手に取る。少なくとも、舞自身にとって輪太が永遠の伴侶なのであればそれで良い。自らに言い聞かせるよう、写真に向かって頷いた。
「で、海洋生物学者? 輪太はまだ学者と呼べるものでは無かったわ。それを目指してたのかも知らないし……」
輪太が亡くなったのは大学2年目の出来事だった。将来についてもまだ模索中だったはずである。
「でも、魚介類は好きだったはずだよね? 見るのも食べるのも、きっと」
「ああ、それでイカなのね。確かにそれはそうだったわ。特にお寿司が好きだった」
こうして話が弾むと、モンブランを買って来るまでも無かったようだと思う。
喜歩も喜歩なりに舞と話すきっかけを伺っていたのだろう。そのタイミングが一致してしまったことは、母子の絆と捉えて良いのかもしれない。
舞はイカの切り身を箸で摘んで口に入れる。
「ふふふ、おいしいものね」
思わず口元が綻ぶと、喜歩も安心したようにほっと息をついた。
しかしそれも束の間。喜歩は舞の目を見ようとしたり逸らそうとしたり。徐々に落ち着きを失っていく。
「ん? どうしたの喜歩。まだ何か言いたいことがある――」
「母さんごめんなさい!」
喜歩は座ったままその場で頭を下げた。
「え……ちょっと待ってよ! 謝るんだったら私だって……」
昼食時、乙女座の前で喜歩と話をしようと決意を表明したところだった。今晩の食卓のお膳立てと言い、喜歩に何もかも先手を取られてしまった。
「この前、おばあちゃんの家に行ってからずっと無愛想になってごめんなさい。母さんのことお母さんじゃないみたいなこと言ってごめんなさい……」
喜歩は頭を下げたままで顔を視認出来ない。
しかしぽつりぽつりと、机に雫が落ちるのが見えた。
喜歩は鼻をすすり、手で両目をぬぐう。そして意を決したように真っ直ぐ舞の目を見る。
「僕を産んでくれてありがとう。今まで育ててくれてありがとう」
「喜歩……」
なぜこの2週間、喜歩に温かい言葉の1つもかけてやれなかったのだろう。
もっと早く喜歩の気持ちを察してやることが出来れば、こんな惨めな思いをしないで済んだだろうか。
かける言葉が見つからないまま、舞は椅子から立ち上がり対面の喜歩へと歩み寄る。
「か、かあさん?」
喜歩は未だ目に涙を浮かべながら、近づいて来る舞にたじろいで見せる。喜歩の背がのけぞり、座っていた椅子の背もたれがわずかに湾曲した。
舞は構わず喜歩を抱きしめる。
「ちょっ……」
喜歩は抱擁から逃れようと体をよじるが、母の温もりに存外心地良さを覚え、上手く力が入らない。
「ごめんね喜歩。1人で抱えて辛かったよね。」
「母さん……」
喜歩は観念して母の体を抱き返した。
「別に俺、1人じゃなかったよ。天貴も伝田さんもいたし、五味先生やそれに……。みんな俺の話ちゃんと聞いてくれた。なんか父さんがどんな姿もどうでも良くなっちゃった……」
「そうよね。周りの人って優しいものよね……。それでも一番近くにいたはずの私が何もしてあげられ無かったなんて……」
喜歩の口から漏れた名前の中には、聞き覚えのない人物も居た。他者へ秘密を漏らしたことは本来咎めるべきことなのだろう。
しかし、舞が知らない間に喜歩は人脈を広げ、心の拠り所を見つけて来たということである。
確かにいつかこんな日が来る時のために、友達を大事にするようには言い聞かせてきた。喜歩はそれ以上のことを自らの足で成し遂げて来たのだ。ならば息子の成長を称賛してやるまでだ。
なのに母として、後手に回ってしまったことが悔しくて仕方無い。
「ねえ喜歩……」
喜歩を抱く腕に力がこもる。
「何?」
「……キスしていい?」
「ばっ……」
舞の体が強い力で押し返され、2人の密着が解かれた。
「や、やめてよ……。さすがにきもちわる……、恥ずかしいよぉ……」
喜歩が顔を真っ赤に染まり、舞から視線を反らした。
「ご、ごめんね。びっくりしたよね。でもちょっとだけでいいの。ほんの1分だけでも」
「長くない!?」
「……やっぱりだめ?」
仲直りの機会に何か注文をつけようとは思っていたが、こうして息子から明確な拒絶を示されるとショックは大きいものだった。
舞の目頭が熱くなっていく。
「あ〜もう、分かったよ! 1回だけだよ!」
「ホントに?」
舞の表情がぱっと明るくなった。
「その代わり、ちゃんと歯を磨いてからにしてよね!」
喜歩は舞の口元に向かってびしっと指を指す。
「はいはい。じゃあ先にデザートを食べちゃおうね」
「デザート?」
鋭かった喜歩の眼光が、わずかに鈍くなった。
「そう、モンブラン買ってあるの。喜歩好きでしょ?」
「モンブラン、かぁ……」
ばつの悪そうな喜歩の声である。しかし、すぐに決意を改めぎゅっとこぶしを握った。
「やっぱり明日謝りに行く。まずはモンブラン食べなかったことから。せっかく用意してもらってたのに……」
どうやらケーキ屋に立ち寄ったことに意味はあったようだ。
「父さんにも会わなくちゃ。俺の今の気持ち、ちゃんと伝えて上げないとだめだと思う」
「お父さんってRNT02のこと?」
そうだとすれば舞との解釈に相違が生じるが、ここは喜歩の導き出した答えを尊重すべきだと思う。
「うん。今日まで考えたこと、いっぱいありすぎるから手紙を書こうかなって」
「それはいいことね。きっとお父さんにもそれは伝わるはずよ」
舞は優しく微笑んだ。
喜歩の思いに対して、輪太からもRNT02からも返事は返ってくることはない。
それでも今後また、喜歩は自分の存在につい立ち止まって考える瞬間はあるはずだ。
今の喜歩の織りなす言葉が、将来の自分へのメッセージになればと、舞は願わずにはいられなかった。




