3-3-1/2 17 疑念
舞の腕の中で、喜歩は安らかに寝息を立てている。机上の惨状に反して幸せそうな寝顔だ。
フィジカル面では喜歩が舞をとうに凌駕しているのだろうが、それでも守ってやりたくなる。
喜歩の出生の真相がどうであれ、喜歩がそれを把握していようといまいと、これまで親子2人で生活してきたのだ。
今更何が変わる訳でもない。今まで通りの接し方を心掛けよう、舞はそう決意した。
もちろん、喜歩がそれを許せばだが。
喜歩を起こさないように気を付けながら、もう一度ぎゅっと抱きしめた。
そして音を立てないようゆっくりと立ち上がり、抜き足差し足でキッチンへと向かう。
何はなくともまずは食事からだ。
炊飯器に米はセットされていなかった。それも仕方のないことだろう。
しかし冷蔵庫を開いてむっとしてしまう。喜歩の昼食のために用意していたはずの親子丼が、ラップにかけられたまま放置されてあったのだ。
「きっと昼間は図書館に行ってたのよね。駅で何か食べたのかしら……」
さて夕飯はどうしたものか。
無論、親子丼を廃棄するつもりはない。
何か1人分新しく作ってそれを喜歩に食べさせ、自身で親子丼を処理するか。
あるいは自分が新しい方を食べ、喜歩に親子丼のけじめをつけさせるか。
少し考えてから喜歩に選ばせてやろうと思い至る。
桜尾駅から自宅までにはスーパーマーケットがあり、夕飯の材料を買うため帰宅時に寄って来ることが多い。
その日も2人分のサバの味噌煮の材料を買ってきていたのだが、翌日に持ち越すことにした。
代わりに、常備している野菜やウインナーなどの材料でナポリタンを作ることにする。
1人分の湯を沸かすのも勿体ないし、喜歩がいつ起きてくるかも読めない。
ひとまずは野菜を刻み、フライパンで炒め始めた。
麺は電子レンジ調理で良いだろう。
喜歩が起きたタイミングで加熱を始め、茹で上がったものをフライパンで他の具材と合わせれば、そこまで喜歩を待たすこともない。
――うんうん、普通普通……。
いっそ親子丼を食べなかったことを咎めた方が、いつも通りに見えるだろうか。
――――――――
喜歩はぼんやりと目を覚まし、勉強机から頭を上げる。
窓から見える景色はもう暗い。
どれくらい眠りこけていたのかも分からない。
寝ぼけ眼を机に向けると、そこに散乱したメモ書きの山に、意識が鮮明に引き戻される。
『おれも、印刷された?』
喜歩の潜在意識がそうさせているのだろうが、数ある書き込みの中でその一文が一際目を引いた。
「うっ……」
強烈な吐き気を覚え、胸に手を当て項垂れる。
昼に飲んだコーヒーの苦味が、未だ舌に張り付いている気がした。
この吐き気も味覚さえも、人の手で作られたものなのか。
ならば何も感じていたくない。
喜歩は目を瞑り、耳を手で覆った。
図らずも残る嗅覚が鋭くなり、ナポリタンのケチャップの香りが鼻腔をくすぐる。
「ナポリタン……?」
普段なら食欲をそそるその香りが、今では吐き気の元でしかない。
そしてそれ以上に問題がある。
母が帰って来ているということだ。
この机の上の煩雑な様が見られてしまったのでは無いか。
喜歩は慌ててリビングに繋がる扉を開けた。
そこに母はいなかった。
代わりに浴場からシャワーを流すような音が聞こえてくる。
食卓となるテーブルの上には事故の紙面の写しが放置されたままだった。
喜歩は既に手遅れであることを悟る。
呆然と立ち尽くしていると、シャワーの音はやがてドライヤーのモーター音へと変わっていく。
程なくして母と対面することになるだろう。
このまま逃げ出してしまいたいが、足がすくんでしまっていた。
脱衣所に繋がる引き戸ががらがらと音を立て、母がリビングへと入ってくる。首にはバスタオルがかけられていた。
エステティシャンという職業柄か、自身の美容にも気遣っているのだろう。
42という年齢の割には瑞々しい肌を保っており、風呂上がりの彼女は喜歩の目から見ても、普段より一層艶っぽく見えた。
しかしタオルで頭を拭くその所作において、袖口から柔らかく揺れる二の腕が覗き、歳相応のたるみの兆しが現れていた。
母に対して抱いた妙な感想には余計に気分が悪くなる。
何とか言葉を紡ごうと口を開いたが、何も発することが出来ず空気だけが漏れ出て行く。
「あら喜歩起きたのねご飯にしようか昼の親子丼にするそれともこれから茹でるナポリタンにするそれにアイスクリームも冷凍庫にあったっけ今日はあれも食べちゃお――」
「母さん!」
喜歩の代わりに喋りだした母は明らかに普通では無かった。
顔には満面の笑みを浮かべているが、無理して取り繕っているようにしか見えない。




