2-4-2/2 14 百科事典
【久世輪奈】
久世輪奈(くせ りんな、2008年3月15日 - )は、日本の生物学者、バイオエンジニアリング研究者であり、バイオ3Dプリンタ(B3P)の第一人者として知られる。柳織合成生物学研究所の再生医療研究部長を務め、多能性幹細胞を用いた臓器移植や顔貌再現技術の開発で国際的に評価されている。B3Pの倫理的議論の中心人物でもあり、賛否両論を呼んでいる。
「さんがつじゅうごにち……。誕生日先々月だったか……」
喜歩がまだ幼い頃に、祖母の誕生日に手紙を書いて渡したことをうっすらと覚えている。
言われてみれば、春の陽気に包まれ始める頃の出来事だったように思う。
手紙を受け取った当初の輪奈は大層喜んでいたはずだが、いつの間にかその習慣も失われてしまっていた。
また来年にはこれまでの分も含めてお祝いして上げてもいいか。という考えがよぎったが、昨年も同じようなことを考えていた気がする。
目の前にはいない輪奈に気まずさを覚えながら、続きの項目へと目を落とす。
【経歴】
久世は楓野大学医学部を卒業後、2036年に同大学院で博士号を取得。2043年に柳織合成生物学研究所に入所し、多能性幹細胞とその他生体適合物質に基づくバイオインク研究を開始。2050年、B3Pによる初の人工心臓移植を成功させ、再生医療の分野で注目を集めた。2055年以降、AIを活用した遺伝子情報からの顔貌推定技術を確立し、形成外科分野や法医学に応用されている。
「バイオインクね……。正確には多能性幹細胞を分化させた細胞だったっけ。それに加えて、コラーゲンとかタンパク質もインクになってるって言ってたよね」
記事の内容が少し難解に感じたが、既に知っている部分はするすると頭に入って行く。
【倫理的議論】
久世のB3P研究は、臓器移植による命の救済で高く評価される一方、意識再現や全身再現の倫理的問題が議論されている。反対派(通称「アンチB3P」)は、B3Pで作られた組織や個体が「魂なき怪物」であると批判し、宗教的・哲学的観点から「神への冒涜」と主張。久世は「B3Pは命を救うための技術であり、意識の再現は目指していない」と反論しているが、2070年代以降、反対デモが頻発している。
「こういうことも書いてるんだね……。おばあちゃんは正しく理解した上で批判する人もいるって言ってたけど、宗教的って……。宗教が正しいことなんてあんのかな?」
喜歩の呟きも1つの思想に過ぎない。
それも人との対立を生み出しかねない思想である。
しかし喜歩にはまだ、自らが秘めた危うさに気づくことは出来なかった。
【私生活】
久世はプライバシーを重視し、個人的な情報はほとんど公開していない。2056年、長男が交通事故で死亡したことが報じられた。この事故は、久世の研究活動に一時的な影響を与えたとされる。
「え……?」
喜歩は目を疑った。
「長男が事故死?」
記事を読み返してもそのようにしか書いていない。
「……」
まるで時間が止まったかのような、そんな感覚に支配される。
「うそ……、だよね。だって、父さんは生きてる。おばあちゃんの研究室で……。顔だって……」
喜歩はタブレットをテーブルに置き、代わりに父と母のツーショット写真へ手を伸ばした。
「うん、この顔だった」
笑顔を見せる写真と、眠り続ける姿とに乖離はあるが、同じ顔つきだ。まるで写真当時の姿を、そのまま切り取って来たかのようにそっくりである。
喜歩はその目で見てきたのだ。
意識を失うほどの事故だったにも関わらず、不自然なほど綺麗なその顔を。
「!」
喜歩ははっと息を飲み、記事を遡っていく。
そして目当ての文面が目に入る。
「AIを活用した遺伝子情報からの顔貌推定技術を確立し……」
正しくその文字列の意味を理解できたかは分からない。
しかし、B3Pによって任意の顔を作ることも可能なのではないか、と解釈するまでにあまり時間を要さなかった。
父の死亡と、B3Pによる顔貌の再現。
そして先日の伝田との会話。
これらから導き出される答えがある。
そして輪奈の技術なら、それを可能にできるかもしれないのだ。
「いや、こんなの誰にでも編集できるんだ。どうせアンチが勝手に……」
重要なのは情報のソースである。
喜歩は恐る恐る画面をスクロールさせた。
そしてやがて、事故情報の引用元のリンクを発見することになる。
【外部リンク】
『B3P研究の権威・久世輪奈氏の息子、乗用車運転中に死亡事故』、柳織新聞、2056年6月15日。
本文中では気づかなかったが、よくよく考えて見れば日付もおかしい。
喜歩は2064年4月30日生まれだ。
父親の死が真であれ、輪奈の研究室で眠る父の姿が本物であれ、事故と喜歩の誕生日とのタイミングに矛盾が生じてしまう。
そしてその矛盾は、喜歩の仮説を裏付けることにもなる。
喜歩はたまらず引用元のリンクをタップした。
柳織新聞の該当紙面のページがタブレットの画面に映し出される。
20年前の記事であるが、データは残っているようだ。
しかし『B3P研究の権威・久世輪奈氏の息子、乗用車運転中に死亡事故 』のタイトルが表示されるのみである。肝心の本文は有料記事となっており、今の喜歩にはアクセスする術が無かった。
その時、喜歩のいるリビングにガチャリという音が響き渡る。
「ただいま〜」
少しくたびれた母の声が届いてくる。
喜歩は慌ててウェブサイトを閉じ、タブレットをスリープモードにした。
暫く動揺は続いたが、母と顔を合わせる頃にはほとんど落ち着きを取り戻していた。
そして、今日はご飯を炊き忘れたなと思い出した。




