第22話 声を掛ける
……廊下を歩く足が、やけに重かった。
気持ちでは、一刻も早くエルナの元に行かねばと思っているのに。どういう訳か、その歩みはまるで石のように鈍重であった。
……俺は、迷っているんだ。エルナに会ったとして……一体、何と声を掛ければいいのかと。
今のエルナは、きっと酷く傷付いているはずだ。そんな彼女に、ただ昨日会ったばかりの俺が何と声を掛ければいいのか……。
「……確か……エルナは、湯浴み室に行くって……」
この雨の中、ずっと外に居たエルナは体が濡れ、冷え切った様子であった。それに膝や腕を擦りむいていたようだし、恐らく彼女は今それらの処置をしているはず。
……という事は、この辺りの廊下に居れば会えるかな……。
「──あ。」
俺はそんなことを考えながら、湯浴み室の近くの廊下を歩いていた。……すると、そこに接する客間の扉の前で、数人のメイドたちが集まっていたのを発見する。
──しかも、その中心には”エルナが居た”。どうやら、たった今丁度彼女を部屋の中に招き入れようとする瞬間だったようだ。
「エル──」
俺は、思わず声を発して、彼女の名前を呼ぼうとした。
……だが、またしてもそれを、無意識に止めてしまった。
「──。」
「ッ! ……」
それは、再び……彼女の瞳を見てしまったから。
暗く、冷たく、闇に染まった……まるで、生きていないかのような、その瞳を。
「……あっ、レオンハルトお坊ちゃま……」
エルナの姿を見て、軽く手を伸ばし、それでもやはり足がすくんで止まってしまった。……そんな俺の存在に、彼女を介抱していたらしいメイドの一人が気が付く。
だが、何故かその表情は、非常に困ったような様子であった。
「あ、えっと……ど、どうしたの?」
「えぇ、それが……こちらのお客様、先程から何度声を掛けても反応が無くて……一応旦那様に言われた通り、湯浴みと怪我の処置は済ませたのですが……」
と、彼女はエルナの両肩に手を置きつつ、そう言っていた。
……確かに、今の彼女は先程玄関であった時とは違い、身体が完全に乾いていた。おまけに貴族の娘が着るような綺麗な服を着ていて、ほのかに石鹸の香りもしている。
加えて、腕や足には白い包帯が巻かれていて、傷の手当てもきちんとされていた。
──だが、メイドたちはその上で、何ら反応を示さない彼女をどう扱ったらいいのか分からないでいたようだ。
「……なるほど。……お父様には、この後エルナをどうするのか言われてない?」
「……一先ず、お客様を休ませてあげるようにと。それから、もし本人から何か要望があれば、出来るだけ聞き入れてあげるようにとも言われました。ですので、取り敢えずはこちらに部屋をご用意したのですが……」
「……それでも、エルナが何も言わないから困っていたってこと?」
俺の言葉に、その場に居た彼女以外のメイドたちも、一斉に頷いた。
……どうやら、父様は端からエルナの面倒をウチで見る気でいたようだ。それでメイドたちにも彼女の身の周りを整えさせ、部屋も用意させたらしい。
父様も言っていた通り、今のエルナに必要なのは休息だろう。身も、心も、落ち着かせるための時間が必要だ。……本当は、彼女と話がしたかったんだけど……この様子だと、難しそうだし……。
「わかった。……取り敢えず、今は自分から何かを言い出すまでエルナを放っておいてあげて? それと、食べてくれるかわからないけど、毎食僕達と同じご飯も用意してあげて欲しいな」
「かっ、かしこまりました、レオンハルトお坊ちゃま」
恐らく、今はエルナにとって、それが一番だろう。……それに、父様もさっきエルナのことは責任を持って療養させるって言ってたし、これくらいのことはお願いしても大丈夫だよね?
「うん。ありがとう、お願いね。──それじゃあ、エルナを部屋に……」
俺はそう言って、さり気なく彼女に近づいた。
……本当は、震えていた。下手のことを言えば、より一層エルナを傷つけてしまうのではと思って。
「あっ、はい。そうですね。……ではお客様、こちらの部屋にどうぞ……」
俺の発言を受け、メイドの一人がエルナを誘導しつつ彼女の背中に手を添えた。
いや、ただ添えるだけでは無く、寧ろ少し押して半ば強引に彼女を部屋の中に連れ入れる。──そうしなければ、彼女はずっとその場で立ち尽くしてしまうから。
「──。」
「……」
メイドたちに連れられて、エルナと俺は客間に入る。そこには簡易的な机と椅子に、殆ど締め切られたカーテン。室内を照らすための明かりと、部屋の中央には大きめのベッドが置かれていた。
そして、そのベッドの端に、彼女を座らせる。
「──では、レオンハルトお坊ちゃま。我々は一度、これで失礼いたします。またお食事の用意が出来た際に、こちらのお部屋にお伺いしますね」
「うん、分かった。皆ありがとうね。……あっ、それと。もしご飯を持ってきた時に何回か扉をノックしても返事がなかったら、その時はそっとしておいてあげて?」
「はい、かしこまりました。……それでは、失礼します」
エルナは、人が大勢いる空間が苦手なようだった。それに、今の状況ではきっと食事も喉を通らないと思う。……だから、少しの間だけだけど、彼女の気持ちが落ち着いてくれるまではそっとしておいたほうがいい。
────ただし、それは決して彼女を一人で放っておくという、意味では無い。
「──ねぇ……エルナ?」
そう思った俺は、意を決し……彼女に声を掛けた。
「……エルナ。……その、僕が分かる?」
ベッドの端に座らされ、エルナは俯いている。
そんな彼女の隣に座って、俺は必死に話しかけた。
「……レオンハルトだよ。昨日、君とこのお屋敷で一緒に遊んだ……」
……相変わらず、俺は何と声を掛ければいいのかわからなかった。
それに今のエルナには、きっと何を言っても返事は返ってこないのだろう。
「……それで、えーっと……しばらくの間、エルナにはこのお屋敷に居てもらうことになるみたいなんだ。理由は、その……そう! 君が、元気になるために……」
……だが、それでもいい。今はとにかく、彼女を励まさなければ。
元気づけて、楽しづけて、いつものエルナに戻れるように──まだ、完全な独りぼっちにはなっていないのだと、教えてあげないと。
「……今は、さ。たぶん考えたくない事があると思うし、何も楽しくないし、何もしたいとは思えないかもしれないけど……それでも、エルナのこれからにはきっと、そうじゃないことも沢山あって……」
……俺は話しながら、自分は何でこんなにも誰かを励ますのが下手くそなのだろうかと思った。
何が言いたいのかまるでわからないし、聞いていて楽しくもない。その上それを聞いた相手がどう思うのかとか全く考えられていないし、そもそも励ましたいと言っている本人が全然元気では無い。
「……だから、今は辛くても……きっと、明日にはいいことがあるよ。僕も協力するし、それに……エルナさえよければ、僕はまた君と遊びたい……あ、そうだ。また一緒に魔法の話をしようよ。今度は僕が、どうして魔法が好きになったのかもっと詳しく話すからさ……」
──はぁ、これはダメだ。
自分で言っていて、自分でそう思ってしまった。今は辛い、でも明日にはきっと良いことが……そんなことを、この瞬間に絶望を感じている相手に言い聞かせたところで、さほど意味は無いだろう。
そんな言葉で届くくらいなら、きっと彼女は今こんな目をしてはいない。
「──。」
「……、……。」
……案の定、俺が何を言っても彼女は何ら反応を示さなかった。
ずっと下を向き、何も映さないその瞳で、虚空を見つめ続けている。俺が隣で話しかけても、身動ぎ一つせず、只々そこに座っているだけ。
「──。」
「……はぁ……」
……どうやら、今はここまでにした方が良さそうだ。
話によると、彼女はあの襲撃の場に居ながら、つい先程先生たちに保護されて来たばかりだ。であれば心だけでなく体も疲弊しているだろうし、どちらにせよ休ませてあげないと……。
「──エルナ……今日のところは、ここまでにするよ」
俺はそう言って、ベッドから立ち上がった。
「……エルナも疲れてるでしょ? だから今は、ゆっくり休んでさ──また、来るから」
そのまま、俺はゆっくりと彼女から離れ、部屋の出入り口まで歩いていく。……そして、扉の取手に手を掛けた。
「──。」
「……。」
……最後に、俺は一度だけエルナの方を振り返った。
しかし彼女は、変わらずベッドの縁に座っていて、こちらに背中を向けている。
──そして、その時見えたエルナの後ろ姿は、とても小さなものに感じられた。




