ある巫女の話
これは遠い昔。この物語が始まるよりもずっと昔の物語。
ありし日の物語。
ある、恋のお話。
⭐︎ ⭐︎ ⭐︎
時々、土の巫女──アリーシャはベルにとある質問をする。
「ベルが私を守ってくれるのは私の騎士だから?」
「……もちろん、俺は君の騎士だからアリーシャを守るよ」
そして返す言葉は、いつもと同じフレーズ。
決まった質問には、決まった答え。
錠に、鍵を刺すように。
「そっか」
短い相槌。
声音に寂しさが滲んでいる気がして、ベルは手繰り寄せるように問いかける。
「アリーシャはよくその質問をするが、なぜだ?」
「んー、なんでだと思う?」
アリーシャは、ニコニコしながらはぐらかす。
どうやら素直に教えてくれるつもりはないようだ。
ベルも腕組み考えてはみるのだが、結局、皆目見当がつかなかった。
「教えてくれないか」
「いーやー」
揶揄うように間延びした返事をしながら、トトトとアリーシャはベルの先を往く。
「いつかベルが自分で分かってくれたらいいなって」
そして、アリーシャは勢いよく振り返って体を傾げながら花のように笑った。
⭐︎ ⭐︎ ⭐︎
巫女としての公務を終えて、大地の神殿へと戻って来た二人。
そのまま神殿の中庭へと直行する。
そこには花々が思い思いの花弁のドレスで着飾っている。
庭というよりも、花畑。そんな空間の中心でアリーシャは腰を下ろした。
そして、花を幾つか摘み取ると花冠を編み出した。
慣れているのか、スルスルと編まれていく。
けれど、よくよくアリーシャの表情を見てみると、何処となく暗い。
疲労が滲んでいた。
「アリーシャ、大丈夫か」
体調を慮ってベルは声を掛けた。
けれど、アリーシャは首をフルフルと横に振る。そして、笑顔を取り繕った。
「大丈夫。私は巫女だから、民の前では気丈に振る舞わないと」
だからこそ、民のいない今は心労を吐露してほしいという労いの言葉だったのけれど。
ベルの意に反して、アリーシャは気丈な振る舞いを再度纏った。
「祝詞上手く詠めてたかしら」
「上出来だった。みんな安心していたよ」
「それなら、よかった」
フッと取り繕った笑顔が和らぐように綻んだ。
自分よりも周りを優先する。
他者を安心させることで、やっと自分も安心できる。
アリーシャはそういった女性であった。
「戦争が終わったらベルと一緒に旅に出たいな。各地を巡礼してみんなを安心させてあげたいの」
「ああ、きっとみんな喜ぶ」
二人で旅をしよう。
度々、二人はそんな約束を交わしていた。
そんな日々がいずれ来てくれたらいいなと二人して心待ちにしていた。
(……きっと、旅に出ればアリーシャも羽根を伸ばせるだろう)
アリーシャを暖かく見守りながら、ベルは側で腕を組んで目を閉じた。
それから、ややもして。
「ほら、ベルできたわ!」
「うん?」
頭に軽い感触がして、目を開ける。
アリーシャは完成したばかりの白草の花冠をベルの頭にそっと載せていた。
花冠を載せられたまま、ベルは渋い顔をする。
「むぅ、俺に花の冠なんて似合わないだろう」
「ベルはムスッとしてて第一印象怖いから花冠でもつけたらマシになるかなあって」
その言葉に、ベルは目を見張る。
「俺は怖いのか」
「話してみたら全然怖くなんかないんだけどね」
アリーシャは、すこし気まずそうに頬を掻いた。
「でも、これからこの竜が従者になるって初めて会った時はすごく怖かった。自分から喋ってくれないんだもん」
「すまない」
ベルは素直に頭を下げた。
そうか……。俺は怖いのか……。
ベルの曇ってしまった表情を見て、アリーシャはフフッと微笑むと言葉を続けた。
「今は従者になってくれたのがベルでよかったって思ってる」
「そうなのか、よかった」
曇っていたベルの表情が少し明るくなった。
けれど、アリーシャは腰に手を当て作った真剣な表情を浮かべると、ピッと立てた人差し指をベルへ突きつけた。
「でも、私の騎士なんだからね。みんなに怖がられるんじゃなくて安心を届けられるようにならないとダメよ?」
「うーむ……」
怖がられているようじゃダメと言われても……。
どうしたものかとベルが頭を悩ませてると、アリーシャはベルに被せたばかりの白草の花冠を手に取ってベルの眼前へと突きつける。
なんだなんだ!? と、ベルが目を白黒とさせドギマギしていると、アリーシャはふふんと鼻を鳴らした。
「手始めに、一緒に花冠の作り方練習しましょ!」
妙案を思いついて自信満々に提案した調子で、アリーシャは胸を張る。
「努力の方向性はそっちでいいのか……?」
ベルが溢した素朴な疑問の声に、アリーシャは耳を塞いでアーアー聞こえなーいという真似をした。
アリーシャには、時々、突拍子もないことを思いついてはベルを振り回す悪癖があった。
結局、それから小一時間ほど二人で花冠を編んだ。
……色々な予定をそっちのけで。
アリーシャの指導の甲斐もあり、ベルは不恰好な花冠を編めるようになった。
「アリーシャ、もしよかったら……」
その不恰好な花冠をお返しにアリーシャに手渡すと、アリーシャは大きく目を見開いた。
「嬉しい!」
そして、大はしゃぎし始めた。
ベルからもらったばかりの花冠を早速被り出す。
「無理しなくていいんだ。あまり俺のは……、上手じゃない」
「いいの! これがいいの!」
とっくに成人しているというのに、まるで少女に戻ったかのように花冠を被ったままクルリと回る。
そこまで喜ばれると思われなくて、ベルは戸惑っている。
「アンタたち……、何してるのよ」
すると、呆れた声が降ってくる。
声の主へ視線を向けると、そこには桜色の竜の姿があった。
その手には絵筆とキャンパスを脇に抱えている。
宮廷画家の竜、ダイアナだ。
「巫女様が来ないって騒いでたわよ」
ダイアナは訝しげな視線をベルとアリーシャの二人に向けていた。
あ、忘れていた! とベルは口を開けた。
すっかり公務をサボってしまっていた。
「ダイアナ、これ見て!」
けれど、アリーシャ気にも留めずにダイアナに頭の花冠を見せびらかすのに躍起だ。
「はぁ、何コレ。不恰好な花冠ねえ」
「ベルが編んでくれたの!」
「ああ、そう」
「いいでしょ!」
「……ああ、まあ、そうね」
ダイアナは興味なさげに応対するも、アリーシャは相変わらずはしゃいでいる。
あまりの喜びようにダイアナはベルに耳打ちをした。
「(……ベル、あんなに喜ぶんだからもう少し頑張って綺麗に編んであげなさいよ)」
「(……善処する)」
その二人の前で、アリーシャはずっとニコニコとしていた。
「本当、しょうがない奴らね」
肩をすくめながらも、ダイアナはヤレヤレと息を吐いた。
けれど、どこかその表情は笑っていた。
……この時はまだ、平穏な日常の中でベルとアリーシャは笑い合えていた。
⭐︎ ⭐︎ ⭐︎
空が燃えていた。
本来は雲があるはずの空に炎が猛っている。
世界の全てが赤く染まる。
分かりやすい世界の終焉だった。
「【火の氾濫】が始まってしまったのね……」
大地の神殿の自室の窓から、ベルと共にアリーシャは燃える空を眺めていた。
【火の氾濫】
何者かが火の原初の光を濫用し、神の怒りに触れた。
故に、このままではこの世界は均衡を崩し、全てが燃え尽きてしまう。
この場合、暴走する火の原初の光を静めるため、意図的に【水の氾濫】を起こさなければならない。
そして、【水の氾濫】を早急に起こすためには──。
「ベル、私、世界のためにこの命を──……」
アリーシャは自身の胸に手を当て、観念するかのように目を閉じた。
そう、水の原初の光の力を抑え込む土の巫女は死ななければならないのだった。
アリーシャは土の巫女である。
故に、自分が成すべきことをしっかりと把握していた。
「ベル、申し訳ないのだけれど、介錯を頼めるかしら」
アリーシャは、申し訳なさそうにしながらも困り眉で微笑んだ。
「こんなことを頼めるのは貴方ぐらいなの」
淡々とするべきことのため、信頼を寄せるベルへと頼み事をする。
けれど。
「…………」
さっきからベルは無言を貫いて俯いていた。
「ベル?」
不安になってアリーシャは、その名を呼んだ。
「…………っ!」
ベルは俯いたままギリッと音が鳴るほど歯を噛み締めたかと思えば、バッと弾かれるように顔を上げた。
その瞳には、決意があった。
「アリーシャ、逃げよう!」
思わぬ言葉に、アリーシャは目を見開いて首を振る。
「でも……、私が死ななきゃこの世界は……!」
お務めを放棄するわけにはいかない。
そうしなければ、この世界は燃え落ちて苦痛の中で皆が死に絶えるのだから。
けれど、ベルは引かなかった。
逆に、アリーシャを説得するように言葉を重ね続けた。
「なんでアリーシャ一人が世界のために犠牲にならなきゃいけないんだ! そんなしきたり従わなくたっていい!」
「ベル……」
「俺が君を守る! 他の竜からも、【火の氾濫】からも!」
ベルの言葉で、アリーシャは完全に言葉を失った。
目が潤んでしまう。
自分は、死ななければいけないはずなのに。
覚悟していたのに。
けれど、いざその時になって死ななくていいと頼れる相手から言われてしまったら、どうしたって揺らいでしまう。
「アリーシャ、行こう!」
そして、ベルはアリーシャへと手を差し出した。
黒い竜の騎士の大きな手を、アリーシャはジッと見つめた。
一瞬の逡巡。
「……うん!」
しっかりと頷いて、涙ぐむアリーシャは差し出されたベルの手を取った。
ベルが握ったアリーシャの手は、震えていた。
(やっぱり、アリーシャだって怖かったんじゃないか)
ベルは、しっかりとアリーシャの手を握る。
決して、この手を離さないように。
そうと決まれば、ここに留まってはいられない。
扉を勢いよく開け放ち、アリーシャの自室を出て、二人は駆け出した。
神殿の回廊を、ベルはアリーシャの手を引いてひた走る。
ベルは走りながら願う。
(どうか、このまま誰にも会わずに……)
けれど、回廊を走る二人の行手に見知った顔が現れた。
桜色の宝石を身に纏った竜。
「ダイアナ……」
アリーシャは、名前を呼んで立ち止まってしまう。つられてベルも立ち止まった。
「──くっ」
ベルは歯噛みする。いま自分がしている行為は背信行為だ。
けれど、ダイアナは二人には大して興味がなさそうにそっぽを向いた。
「行きなさい」
それは二人にとって意外な言葉だった。
いままさに自分たちは役目を放棄し、逃げ出そうとしているのに。
「でも」
「アタシはね、別に絵さえ描ければ世界が滅ぼうとなんでもいいの。だから、アンタたちも好きになさいよ」
みなまで言わせるなとでも言いたげに、大袈裟にため息を吐く。
いつもと変わらぬその尊大な態度は、いまの二人にとっては温かった。
「ありがとう」「ダイアナも無事でいて」
口々に言葉を告げて、ベルとアリーシャの二人はダイアナの横を通り過ぎていった。
「……バカね、アタシの心配なんてする必要ないわよ」
二人の小さくなっていく背中を見つめながら、ダイアナは目を細めた。
「地母神ともあろうものが約定を違えるのですかな」
声がした。老いた声。
それはいまダイアナが一番聞きたくなかった声だった。
ダイアナが振り返ると、風竜族の一団がいた。
その中心にいるのは、長老然とした風竜族の竜人──ロエルガシズナ。
風竜族、ひいては、竜族全てを統括する最長老だ。
ロエルガシズナの問いに、ダイアナは応えなかった。
代わりに、問い掛けた。
「門の衛兵は?」
「彼ならば、通してくださりましたよ」
「……そう。どうせアンタが甘言を囁いたんでしょ」
「ええ」
悪びれないロエルガシズナにダイアナは目を閉じて小さく首を振った。
(清濁併せ飲まねばならないってよく言う爺様なのは、わかっていたけれどね……)
唆されたのであろう同胞の姿を思い浮かべて、ため息を吐いた。
そして、目の前の『敵』たちをギロリと睨みつける。
「アンタたちは行かせないわよ」
「貴方様に足止めができるとでも? テレポートで避けて行けばよいだけですとも」
身も蓋もないことをロエルガシズナは告げる。
しかし、ダイアナはせせら笑った。
「そう、ならなぜアタシと話をしてくださるのかしら? ロエルガシズナ様は?」
「その方が納得ができるでしょう?」
ロエルガシズナはニコリと微笑んだ。
「偉大なる母君である貴方も、あの子らも──」
つまり、ロエルガシズナは。
こんなふうに話したりする必要などないが、時間稼ぎにわざわざ乗ってやると言っているのだった。
それがせめてもの慈悲なのか、なんなのかは知らないが。
「……納得なんかできるわけないじゃない」
ダイアナは声を絞り出した。
「ええ、本当に」
ロエルガシズナも不本意であるという表情を隠さず、深く頷いた。
そうしなければ世界は滅んでしまうから。だから、アリーシャは死ななければならない。
そんなことはダイアナもわかっている。
だけど──!
ダイアナの脳裏には、先日、ベルから花冠をもらってはしゃいでいるアリーシャの笑顔が浮かんでいた。
その表情は、どこにでもいるような恋する女性が浮かべるもので。
「ここは絶対に通さない、あの子たちに手を出すって言うのなら私を倒してからいくことね」
ダイアナは一人風竜族の軍勢を相手に対峙し、構える。自身と同じ、桜色の魔力感応光を身に纏う。
瞬時に、ダイアナの髪が伸び、ロエルガシズナたちの行手を阻むように張り巡らされた。
ピアノ線のように張り詰めるダイアナの髪は、ヴンという音を経てて目に見えて微細に振動している。
触れたもの全てを切り刻むとでも告げるかのように。
「ええ、それでよいのです」
魔法による敵意をあたりに張り巡らしたダイアナを前にして、ロエルガシズナは涼しく微笑んだ。
────────
────
──
ダイアナと別れたベルとアリーシャは、目的の場所すぐ側までやってきていた。
二人が目指しているのは、裏門だ。
表門からは、人目についてしまい、他の竜に見つかってしまう。
けれど、裏からならば、きっと二人でどこまでも逃げていけるはずだと希望を抱いて。
「アリーシャ、もうすぐ、もうすぐだ!」
「う、うん……」
そして、回廊を駆け抜けてたどり着いたその先──。
そこには先客の姿があった。
ズラリと門を塞ぐように立ち並んでいる風竜族の一団。
その装いは、僧衣を身に纏いながらも手には長槍などの武器を取っている。
僧兵だ。
そして、その中心では老齢な風竜族の竜人がシャンと背筋を伸ばして佇んでいた。
まるでここに二人が来るのを分かっていたかのように。
「あ……」「ロエルガ……」
二人は待ち伏せに表情に影を落とす。
けれど、そんな二人の気持ちは斟酌されることはなかった。
「お待ちしておりましたぞ、土の巫女様」
ロエルガシズナはニコリと微笑むと、腰を折って深々と一礼した。
そして、一礼から顔を上げると冷たく告げる。
「土の巫女様を殺さねばならぬ」
その声と共に、風竜族の一団は皆思い思いに構えを取った。
風竜族は探知の魔法を持ち、瞬間移動の力さえも持つ。
追跡者として見るのなら、これほど最悪の手合いはいない。
最初からアリーシャとベルが逃げ仰る道なんてものはなかったのだ。
けれど、ベルは黙って彼らの矛を受け入れるわけにはいかない。
一歩前に出てアリーシャを庇い、刀を抜く。
「やらせはしない」
「ベル……」
「大丈夫だ、アリーシャ。俺が君を守る」
背中でそっとアリーシャを後ろに追いやる。
その一連のやり取りを見ていたロエルガシズナは、小さく首を横に振った。
「そうか、そうであろうな。では、しょうがない」
ロエルガシズナは、最後に冷たく告げる。
「世界のため。その命、貰い受ける」
瞬間、唐突に現れた真空の斬撃の群れが、アリーシャの前に立ち塞がるベルに殺到した。
その刹那──。
不意に後ろから、ベルは勢いよく押し退けられた。
「な──」
そして、ベルは押し退けられて体勢を崩しながら信じられない光景を見た。
自らが守るべき主君であるアリーシャが、本来、自分が喰らうはずだったその斬撃へと身を晒して──。
血飛沫が上がった。
ベルの視界の中で、アリーシャは緩慢にその場に倒れ込んだ。
「アリーシャ!」
すぐにベルはアリーシャに駆け寄った。
傷を押さえつけても血が止まらない。アリーシャの土の巫女の白い法衣が血に染まっていく。
あからさまな致命傷だった。
「アリーシャ、アリーシャなぜ俺を庇った! 君を守るのが俺なのに、これじゃあ意味がないじゃないか……」
「死ぬってもっと怖くて痛くて嫌なものだと思ってた。でも、案外そうでもないのね。ベルを守れて誇らしいの」
必死になるベルとは対照的にアリーシャは何故か笑う。
どこか悪い冗談のようだった。
ベルにとっては、冗談じゃなかった。
「死ぬなんて言わないでくれ! 大丈夫、大丈夫だ。まだ生きているんだから! 治癒の魔法を……!」
けれど、アリーシャはフルフルと小さく首を横に振って、微笑んだ。
「いいの、私が死んだらベルまで殺される必要はないでしょう?」
アリーシャは、自らを手にかけたロエルガシズナへとそっと視線を走らせる。
その視線に応え、ロエルガシズナは小さく頷いた。
ベルとアリーシャを取り囲む風竜族たちは、武器を構えて警戒しながらも手を出してくる様子はない。
ただ、アリーシャの命の灯火が消えようとしているのを見守っている。
その様子を見て、アリーシャは「よかった」と安心するように小さな声を溢した。
そう、アリーシャがベルを守るつもりならば、自らがこの場で死ななければならないのだとアリーシャが一番よく分かっていた。
「あのね、ベル。私を土の巫女からアリーシャに戻してくれて、ありがとう。世界よりも私を選んでくれて、ありがとう」
自分を連れて逃げようとしてくれた。
それだけでよかったのだ、と。
アリーシャは最後の数少ない残された時間をベルのためだけに使うことにした。
「そんなこと……、お礼なんかいい! 俺はただ君と……!」
一緒にいられたらそれだけでよかったのだ、と。
ベルは、その言葉の先を口にすることができなかった。
それは巫女を守る騎士として、押し殺さなければいけない感情だったから。
けれど、アリーシャはその感情へ手を伸ばした。
「私ね、ベルのことちゃんと分かってるから。分かってるからね」
そして、アリーシャは血濡れの手でベルの頬をゆっくりと撫でた。
それはとても愛おしいものに触れる手つきで。
血の跡がベッタリとベルの頬に轍を残す。
「すきだよ」
その言葉に、ベルは両の目を見開いた。
それは、その言葉は、ベルもずっとアリーシャに伝えたくて、けれど蓋をして封じ込めた言葉で。
「ベルの腕の中、あったかいな」
アリーシャは甘えるように、ベルの胸元へ鼻元をこすりつけた。
それが、最後だった。
ベルの腕の中でアリーシャの首が垂れた。ダラリと力が抜けている。
重力に引かれるままに頬を撫でた手が落ちる。ベルは血で汚れるのも厭わずに咄嗟にその手を受け止めた。
けれど。
もうその体が動くことはない。
笑わない。喋らない。
事切れたのだとその場にいる誰もが察した。
ベル以外は。
「……アリーシャ? アリーシャ? アリーシャ!!」
ベルは反応がなくなったアリーシャを、気づかせるように体を揺すっていた。
目の前に横たわる現実を拒むように。
いや、ベルも本当は頭の中では分かっていた。
分かっては、いたのだ。
それでも信じられなくて、必死に声を掛けた。
「俺だって、君のことが好きだ! 君より大切なものなんてなに一つだってない! そうだ、一緒に旅をしよう! ずっと約束してたじゃないか、だから──」
目を覚ましてくれ。
ようやく素直になれたベルのその必死の呼びかけに、アリーシャは応えなかった。
もう、応えられなかった。
「────っ!!」
物言わぬ身となったアリーシャを、ベルは震える体でぎゅっと抱きしめながら声にならない声で慟哭する。
慟哭はすぐに憎悪へと形を変えた。
「ロエルガぁあああああああ!!」
アリーシャをそっと地面へと横たえると、地面に放り出していた刀を手に取って、ベルは怒りのまま地面を蹴って駆け出した。
怨敵ロエルガシズナに向けて、刃をただ一心に突き立てようと鬼気迫る憎しみを込めて。
けれど、その刃が届くことはなかった。
事の次第を見守っていた風竜族の僧兵たちが行手を阻み、ベルも抵抗するも多勢に無勢。そして、ベルを組み伏せた。
「放せっ、放せぇっ!」
ベルは首のところで左右から交差するように武器を突きつけられ、身動きが取れないよううつ伏せに地面に押さえつけられている。
「ロエルガ様、ご無事ですか! こいつっ!」
ロエルガシズナの側に控えていた僧兵の一人が、ベルの暴挙に対して言葉を荒げながら、ベルの眼前へと薙刀を差し向ける。
けれど、すぐさまロエルガシズナは血相を変えた。
「やめぃ! 武器を納めよ!」
老齢とも思えないほど通る威厳のある声が、この場の空気をビリビリと震わせた。
「ですが!」
「巫女様がこの者の身を案じて、その身を差し出したのが分からぬか!」
そんなことはこの場の誰もが分かっていた。
威勢よく楯突いた風竜族の僧兵は、バツが悪い顔をして薙刀の穂を納め引き下がる。
ロエルガシズナはゆっくりとベルへと跪いた。
「……すまぬの、今はまだこの世界のため殺されてやるわけにはゆかぬのじゃ。巫女様の死を無駄にせぬためにもワシは方舟の陣頭指揮をせねばならぬ。……じゃが、全ての責はワシにある。いずれ時が来たらワシの元に来なさい。その時はワシは抵抗せぬよ」
アリーシャの死を無駄にしない。
そう言われてしまっては、ベルにはもうどうしようもなかった。
風竜族の僧兵たちに抑え込まれたまま啜り泣くことしかできなかった。
嗚咽が、その場にいるみなの耳朶を裂いた。
ベルの殺意が収まったと見て、左右の風竜族の僧兵たちもベルを押さえつける武器をやっと収めた。その表情は目的を達成したというのに、みな一様に晴れない。
ロエルガシズナは続けた。
「もうすぐ水の氾濫が始まってしまう。その前に逃げるのじゃ。よいな! 巫女様に救われた命、ゆめゆめ無駄にしてはならぬ」
それだけ言い聞かせると、ロエルガシズナは風竜族に撤収を命じ、その場を後にした。
ベルだけが、その場に残された。
一人になったベルはヨロヨロと立ち上がると、アリーシャの元までトボトボと歩いた。そして、両腕でアリーシャの亡骸を抱き抱える。
もう、冷たくなっていた。
「……行こう。アリーシャ。一緒に旅に行くんだ」
そして、アリーシャを抱き上げたままヨロヨロと歩き始めるのだった。
ベルが去った後【水の氾濫】は始まった。
押し寄せる濁流は、平等に、公平に、全てを押し流す。
アリーシャの好きだった神殿の花々も、全てが水の底へと沈んでいく。
そして、世界の罪は洗い流された。




