第六章《想う者たちの戦い》 1
赤銅色の髪を結えた侍女が淹れた紅茶に口をつけて、アーティアは視線を窓の外――大河の如き堀を超えた先に望める王都の街並みへと向けた。
――ここに閉じ込められて今日でちょうど一週間。一体、あの人は何を企んでいるの?
魔族としての正体を明かしたブランタージュは目覚めたアーティアに洗脳が通用していないことを憤慨していたが、結局仕掛けてきたのはあの日だけで今日に至るまで一切の姿を見せていない。
アーティアに対しての扱いが悪化することもなく、身の回りに関する雑事は部屋に常駐している二人の侍女によって処理され、驚くほど快適な生活が保障されていた。
「……はぁ」
「如何なさいました? お口に合わないようでしたら別のものを」
「あ、いえ」
扉の前で静かに佇み、森の木々を彷彿とさせる深緑の瞳で自分を見る侍女の気遣いに首を振ると、アーティアは穏やかな物腰の二人を視界に収めた。
「フィオナさん、ニーナさん。無理なことを言っている自覚はあるんですけど、どうにかしてこの城を抜け出すことは出来ませんか?」
「姫様、それは」
身の回りの世話のみを任せられた側仕えに対しては過酷としか言いようのない要求に二人の侍女は互いの顔を見やり、深緑色の眼を持つ侍従フィオナが口を開いた。
「姫様、私たちも姫様のご心中は察しているつもりです。お眠りの間に口にされる殿方のお名前を聞けば、侍従ならば万難を排してでもその方にお引き合わせしたいと思いましょう。ですが」
淡々とした口調ながらその眼に言葉通りの感情を浮かべたフィオナはそこまで言って視線を落とした。
「私たちの力では姫様を護宮壁までお連れすることは敵いません。この部屋を出れば第一宰相様の息がかかった兵士の監視を受け、彼が見ているものはどういう訳か別の兵士を通じて宰相様に逐次伝えられます」
「そう、ですか」
過去に宰相たちの住まう棟を清掃した際にその奇妙な光景を見たというフィオナの言葉にアーティアは歯噛みする。
――それでも、絶対に諦めない。きっと、皆も来ているはずだから。
絶望的な現状を目の当たりにしてもアーティアは自らに言い聞かせる。
この城に囚われてから毎夜のように邂逅する〝彼〟の言葉を根拠に、それだけを勇気に変えて、諦めなければ全てが動き出す切欠が見つかるはずだと。
「ごめんなさい、無理を言いました。あなたたちの安全のためにも今の話は忘れてください」
「……姫様、お力になれず申し訳ありません」
深々と頭を下げる二人に気にしないように伝えてアーティアが手許の紅茶に口をつけると、三人のやりとりが終わるのを待っていたようなタイミングで部屋の扉が叩かれた。
「失礼いたします。議長閣下が姫殿下に面会したいとのことです」
扉越しに通る大きな声で告げられた言葉に、三人は互いの顔を見合わせた。
――議長?
「私が対応いたします。ニーナは姫様のそばに」
「はい、姫様はこちらへ」
指示に頷いたニーナがアーティアの姿を扉からは見えない位置に誘導したことを確認してフィオナは扉の向こうの衛兵に声をかけた。
「どなたかが来訪されるとは聞いておりませんが、一体何のご用でしょうか」
「それが、その」
「ああ、いいですよ。私が直に話しますので……失礼しますよ」
困惑の声をあげた衛兵を制する気配の後、ゆっくりと扉を開けてその男性は部屋に踏み入ってきた。
「お初にお目にかかります。姫様――姫様はどちらに?」
「議長閣下、如何に貴族院議会の長であるあなた様であっても、女性の部屋に押し入って、あまつさえ、部屋を眺めまわすのは礼儀にかけています!」
アーティアの姿を求めて室内を見回す男にフィオナが声を荒げると、議長と呼ばれた彼は気後れしたような声をあげた。
「それは、申し訳ありません。ですが有効な時間も少ないのもので、今のうちに姫様とお話がしたいのですよ。ブランタージュ卿の目が届かない内にね」
多分その声の主は意地の悪い笑みを浮かべているに違いないとアーティアは思ったが、相手の思惑はどうあれ今の自分には少しでも情報が必要だと考え、その男の誘いに乗ることにした。
「それは、ブランタージュに聞かれるとまずいことを教えてくれるということですか?」
「おっと、そちらにいらっしゃいましたか姫殿下。ご無礼をお許しください」
穏やかな口調で言葉を伝え、慇懃に頭を垂れた男の姿にアーティアは好悪の感情を持つことはなかった。
「あなたは……」
一切の印象がないことが印象的な男性。目の前に立つ男はそんな異常な雰囲気を纏った人間だった。
「無礼にも申し遅れました。お初にお目にかかります。王国貴族院議会で現議長の任を賜っております。エルドア=ソピアと申します」
顔を上げたエルドアの片眼鏡にアーティアの姿が映りこむ。190セルマル(約190センチ)はある長身を見上げる自分が気後れしていないことを確かめ、アーティアは一歩踏み出した。
「エルドアさん、聞かせてください。なぜ魔族がこの国の中枢に入り込んでいるんですか。あなたたちは私を連れて来て何をさせようというんですか?」
「時間が許す限りお答えしますよ。ただ、その前に少し腰を落ち着けましょう。レディと立ち話というのは主義に反しますので……ああ、私にも紅茶を頂けますか」
アーティアの気勢を押し留めるように手を突き出して、エルドアは鏡台に備えられた椅子に腰を下ろして厚かましくもフィオナに給仕を要求する片眼鏡の男に鼻白みながらも、アーティアはニーナが用意した椅子に座る。
「ありがとう。いい味を出している……さて」
無表情のフィオナに供された紅茶に口をつけたエルドアは静かな笑みを浮かべてアーティアを振り返った。
「では、お話ししましょう……クレスエント王国に魔族が入り込んでいるということは、その事実ほど複雑な実情はありません。聞いてみればつまらないことだと思いますよ」
そう断って、エルドアは口火を切った。
「事の始まりは十年前、今なお国境での小競り合いが続く荒廃戦争の一戦に国王であるダイン陛下が出陣し、負傷したことに端を発します。当時はただの国家間戦争という認識でしかなかったその戦闘は魔族によって仕組まれたものだったようです」
あくまでこの数年で自分が調べた内容からの推測ですが、と呟いて男は続けた。
「戦争を企図した魔族たちの目的は恐らく七千年前に自分たちの主である魔王を討伐した聖王ラティス・マグナの系譜への復讐でしょうか。これはブランタージュ卿の言動からそう推察するしかないでしょう」
「そう言うということはあなたも彼の正体を?」
「ええ、存じていますよ。ともあれ、魔族が裏で糸を引いていた戦争によって負傷した国王陛下はその際に魔族への隷属を強いられる呪いを受けてしまいました。呪いは一年ほどをかけて徐々に進行していき、彼の身体を完全に蝕んだ頃、ブランタージュという男が突然第四宰相という位に召し抱えられたと聞いています」
紅茶を一口含み、湯気で曇った片眼鏡を拭きながら、そこからは加速度的に物事が進んだのだと語った。
「私が議院に所属した時には彼は既に第一宰相という最重要職に就き、王城の兵士の六割は彼の手駒となっていました。ですので、今話した内容は亡命した者などに伝え聞いたものばかりですが、信憑性はあると思いますよ」
「……そう、ですか」
片眼鏡を拭いた乾布を懐にしまうエルドアの言葉を信じていいか一瞬だけ考える。
彼の言う通り、魔族の目的が王族への復讐ならば説得力がある話だが、前提となるその目的が正しいという保証もない。
――それにあの言葉……空虚にして完全なる王。
ブランタージュが口にした存在が引っ掛かり、アーティアはエルドアの話を心に留める程度にしておくことに決めた。
「魔族が王城に入り込んでいる経緯はわかりました。でも、本当に私たちへの――王族への復讐が目的なら、なぜ拉致してきた私にこんな丁寧な扱いをするんですか? 魔王の仇だというならブランタージュと話したその日に処刑されていてもおかしくない……私に何を求めているんですか」
「ラティス・マグナ」
「――っ!?」
「そう言えば思い当たることがあるのではないですか、サーベラスのアーティア=ヴァレンシュタイン嬢?」
口許をティーカップで隠したままその言葉を発したエルドアにアーティアは握ったままの右手が汗ばむのを感じた。
「魔族の復讐の矛先は私たちクレスエント王家だけではなく、当代のラティス・マグナも含まれるということですか。彼が実在することはサマリルから?」
「どちらも半分だけ正解という所ですね。ブランタージュ卿にとってはクレスエントの処遇の方が大事で新しい勇者への関心は薄いようですし、一緒に始末できれば重畳と考えているようです」
「私は彼に対しての人質として生かされていると? お生憎ですけど、私には人質としての価値なんてありません。それに私が今ここにいることを知らない彼が来れるはずがないもの」
咄嗟に自分が口にした言葉をアーティア自身は信じていない。どれだけ困難な状況でもアーティアが信じる少年は必ず来ると確信している。
「来ますよ」
そんな心を見透かすようにエルドアは窓の外に広がる今の天気を話題にするような口調で断言した。
「彼は来ますよ。少なくとも、私の知る彼はそうだ。どれだけ利己的に振る舞っていようと、朝凪勇輝という少年は自分に関わる誰かを見捨てることは出来ない」
「あなたは、一体何を――」
知っているのかという言葉はティーカップがソーサーに触れた金属音で遮られた。
「どちらも半分だけ正解だと言ったでしょう。私はこれでも物知りなのですよ」
不可思議な圧力を感じて言葉に詰まったアーティアをからかうように指先を突きつけて、エルドアは笑った。
「私の目的はブランタージュ卿とは違います。その目的のためにはあなたたち二人の存在が必要なのです。だから、この窮地を乗り越えてもらうために、あなたが動くための理由をあげましょう……」
立ち上がり、部屋を出ていく直前にエルドアはアーティアにだけ聞こえるような声量で囁いた。
「今夜、マルデュークの月が南天に至る時刻、一度だけこの棟から一切の兵がいなくなります。その時、どうするかはご自由に」
「それって――」
思わず振り向いた先に彼の姿は既になく、二人の侍女は好き勝手な振る舞いをして去って行った男の文句を言い合っている。
「動くなら、今夜……」
囚われの姫ではない、一人の少女の眼に宿った意志の光を知るものはまだいない。




