第五章《それぞれの足音》 2
クリスマスイブということで、プレゼント投稿
これが今年の最終投稿になりそうです。
料理が食卓に並べられて半刻も経った頃、四日分の空腹を埋める勢いで食事を済ませて、勇輝はその両手を合わせた。
「ふぅ……ごちそうさま。とても美味しかったです、マナリスさん」
「お口にあったみたいでなによりだわ。それに美味しいって言ってもらえると作り手冥利に尽きるものね。アドラはそういうことを言わないから」
「不味いなんて言ってねぇだろ? 毎度美味いなんて言ってたら言葉が軽くならぁ」
「……こういう人だもの」
荒い所作で腕を組んだアドラの姿に肩を竦めて、マナリスはさり気なく夫のティーカップに茶を注ぎ足した。
「あ、その爪……」
「え?」
その一瞬、彼女の爪の鮮やかな赤が目について、勇輝は声をあげた。
「マナリスさんとアドラさんの爪……怪我じゃ、なくて……赤い模様ですか?」
アドラの右手とマナリスの左手それぞれの指先に描かれた5つの模様。その赤色に勇輝は不思議と温かな力を感じた。
「俺も気になってたんだよな……なぁ、婆さん。それ何なんだ? 爺さんと同じ模様ってことは対になってるんだろ?」
その野性的な勘で勇輝と同じものを感じたのだろうライガが核心をつく問いを口にするとマナリスは左手を撫でて微笑んだ。
「そう……若い子はもう知らないのね。これはね、聖婚の響紋っていう婚姻儀礼の証よ。今だと結婚指輪の方が一般的だけど、ここみたいな辺境だと風習が残ってるのよ」
「残ってるって言うても、この村じゃもう俺たちしかしてねぇ上にいつの間にか本物になってたモンだっけどな」
照れたように話すマナリスを茶化すように口を挟んでアドラは勢いよく茶を飲み干した。
「いつの間にか本物になってた? それって、初めは偽物だったってことですか?」
「それ以前に、何がどう違うんだよ?」
二人の若者がそれぞれ口にすると、穏やかな瞳でマナリスは答えた。
「そもそも聖婚の響紋っていうのは本当なら神話に出てくるような不思議な力を持つお伽噺なの。私たちが風習にしている響紋はそれになぞらえて爪に模様を刻んだだけの紛い物」
茶で喉を潤わせた老女は静かに揺れる視線を窓の外へと流しながら続ける。
「ラティス・マグナの伝説に並んで――いいえ、こちらの方が古いだけ忘れている人も多いのでしょうけど、私たち年寄りには慣れ親しんだ剣神アルファストと女神リーリアの絆を謳ったお伽噺では、愛し合う二人がいつまでも寄り添う証として最愛の人を護る力を与えてくれるものだって言い伝えられているの」
「力を、与える?」
繰り返す言葉は勇輝の物だったか、あるいはライガのそれか。マナリスの言う響紋に何かを感じるその言葉に頷いて老女は昔日の日の出来事をその瞳に浮かべた。
「あれはもう五十年以上前のことだったけど、今でもよく覚えてるわ。この辺りは昔から冬になると雪が積もるけど、その年はとてもひどい豪雪で、雪の重みで何軒かの家も潰れてしまったくらいだったの。そんな大雪の中じゃ、馬だって走らせることができないのに、私は命に関わる病気を患ってしまった」
その時の病が原因で、今でも大きな声は出せないのだと彼女は言う。
「村中の人がお見舞いに来てくれたけど、誰の眼にも死にゆく女を見る憐れみみたいなものがあった気がしたのはよく覚えてる。そんな空気の中で私も生きることを諦めようと思った時、アドラが私を背負ってお医者様のいる隣町に出かけると言い出したの。一つ間違えれば二人とも死んでしまうというのにね」
道を覆い隠し、方向感覚を狂わせる吹雪の中を行く。それがどれだけ危険なことか、話しながら指先を震わせるマナリスの姿が物語る。
「一マルトラ先も見えない道をアドラの背中に揺られながら歩いている時、どうしてこの人は自分の命を懸けてまで私を連れだしたのかと思ったわ。まだ結婚して一年足らずの新婚だったけど、それでも付き合いの長い村の人間は諦めていたんですもの」
聞けば、アドラはマナリスと夫婦になる半年前まで生まれ故郷のアマツハラを旅立ってからずっとヴァイグレイドで傭兵をしていたそうで、当時のマナリスとアドラの面識は二年程度だったのだという。
「村を出て二日経った頃、アドラにどうしてかって聞いたらなんて答えたと思う? 『お前がいなくなるとメシが不味くなる。お前がいるなら少なくとも不味い飯は食わんでええてな』なんて言うのよ。あの時は予想外すぎて笑っちゃったわ」
思わずマナリスの隣で腕を組んだままの老人を見る。その視線は窓の外に向けられ、口も真一文字に結ばれてはいたが、紅潮した顔は隠しきれていなかった。
「それから、たしか次の日のことだったわ……ようやく吹雪も弱まって、運良く正しい道を進んでいた私たちが遠目に隣町の灯を見つけた時、巨大な獣魔に襲われたの」
その獣魔は今勇輝たちがいる屋敷ほどの巨大さで動くたびに地震のように地が揺れたと彼女は言う。
「七十年生きてきたけど、未だにあの時を超える大きさの獣魔には出会ったことがない。そのくらい大きくて、希望の光を見つけたばかりの私にとっては致命的な絶望だったわ。けれど、アドラの背にしがみつく力もなくなって積もった雪に尻餅をついた私の目の前には、それでも逃げずにあろうことか私を庇って槍を構えるアドラの背中があった」
そこまで語って、マナリスは僅かに咳込んだ。そんな妻の様子を見て取ったアドラが暖炉に薪をくべると、しばらくして室温が上がった。
「当時は有名な傭兵として名を馳せていたアドラは、果敢に戦っていたけど、私という荷物を抱えて雪道を歩き続けた身体にはもう体力なんて残っていなかった。気が付けば槍は折れて体中に傷を負ったアドラが倒れていて、私はこの人に覆い被さって獣魔を睨み付けていたわ」
今にしてみれば、どうしてそんなことをしたのか、自分でもわからないと笑って老婦人は続ける。
「そして獣魔の爪が振り上げられて、死を予感した時――いいえ、違うわね。この人だけはなんとしても生き残って欲しいって心の底から想った時だったわ。その瞬間、この響紋が突然強く光ったの」
杯に両手を添えたまま、マナリスはその時を振り返るように眼を閉じ、語る。
「優しさを感じる温かい光だった。その光が辺り一面を覆って、寒さも忘れてアドラの体温だけしか感じられなくなった時、始まりと同じように唐突に光が消えて、後に残っていたのは私たち二人と私たちを襲っていた獣魔を小さくしたような子犬だけだったわ」
「子犬って……まさか、獣魔が元の動物に戻ったってのか!?」
驚愕するライガの言葉に頷いてマナリスは己の膝の上で丸くなっているカルスの背を撫でた。心地よさげにしているその姿は犬というよりは猫のようだな、と勇輝は思った。
「どうしてかはわからないけれど、多分そういうことなんでしょうね。あの時の光が獣魔になっていたマリス――この仔の曽祖父を天素の侵食から救った。女神リーリアの奇跡なんだって思うわ」
「女神リーリア……」
勇輝は静かにその名を繰り返した。この世界に住む遍く人々が知る名前。慈愛の女神。
「ふふ、リーリア教の修道士さんにそんなことを話すのもおかしなものね。女神の奇跡なんて本当なら勇輝ちゃんが説法で話すことだもの」
「え? いや、そんなことないですよ。あはは」
突然話を振られたことに戸惑いながらも勇輝は笑ってその場を誤魔化した。
――このまま聖鎧服を着て動くなら、しばらくは修道士で通した方が良いよな……
アーティアを助け出すまではできるだけ秘密裏に動かなくてはならない。そのためにはラティス・マグナの噂がたたないように立居振る舞う必要がある。
――嘘をつくのは仕方ない。全てが終わったら、もう一度話に来ればいいんだから。
自分に言い聞かせながら飲む紅茶の味は、心中を満たす感情が混じったように苦い気がした。




