幕間 《騒乱の予感》 2
一週間の間降り続いて溜まった雨水が水滴となって暗い地下牢に跳ねる。それを繰り返して溜まった汚水の音を静かに聞きながら、男はその瞼を開いた。
男の名はサマリル。一月ほど前にサーベラスという町を襲撃した集団の首魁であり、町の自警団によって捉えられた果てにこの王城の地下牢へと移送されたばかりである。
「貴様が自ら来たということは、とうとう俺も用済みということか……醜いヒトモドキめ」
唾棄するような言葉と共に向けた視線の先には、不衛生なその場には似つかわしくない、華美な礼装に身を包んだ男――ブランタージュが佇んでいた。
「そこまで衰弱しても減らず口が聞けるというのは、いっそ見事というべきだなサマリル。この無能者が」
「人ではない貴様に比べれば無能者の方が百倍マシだな」
「よく言う。罪状は反逆罪だけでは足らんと見えるな」
侮辱の言葉に対しても余裕を見せながら話すブランタージュの瞳には子供の持つ無邪気な残忍さにも似た感情が覗いている。
この地下牢へと移されて早三日。身動きできないように手足の腱は断ち切られ、満足な食事すら与えられていない。
羽をもがれた状態で天敵の棲む虫籠に入れられた蝶の気分というものを味わいながら、サマリルは明確な敵を射殺さんばかりに睨めつけた。
「性根の腐った魔族め。嬲っているつもりか? 確かに、普通の人間であればこの空気にあてられてしまうだろうが……生憎と俺は、こういう扱いには覚えがある。貴様如きの思うようにはならん!」
「明日には死ぬ貴様をいたぶっても、面白味などあるまいよ」
隙あらば喉許を噛み千切る気概で話すサマリルを冷たい眼差しで見下ろし、冷笑を浮かべたままでブランタージュは続けた。
「……まあ、戯れだ。愚かしい人間族の中でも貴様やあの騎士団長などは、比較的気骨のある男だというのは私も認めているのだ。そんな貴様が死ぬ前に何を思うのか知りたくなってな」
どこまでも上からものを言うその姿を視界に収めることすら厭わしく思い、サマリルは痛む身体に鞭を打って寝返りを打った。
「貴様に話すことなど、何もない。王を誑かした悪魔が」
「その忠義は素晴らしいと思うぞ。私はそういう忠臣というものが嫌いではない。例え無能な人間族であってもな」
耳心地の悪い、不快な笑い声が地下に響く。同時にガラス同士が触れ合う音が聞こえて、サマリルの不快感は否応なく増した。
「こんな場所で酒とは本当にふざけた男だな貴様は」
「そう言うな。こうして最後に腹を割って話し合うためだけに貴様には我が正体を晒してやったのだ。本来ならば貴様は真実を知らぬまま無為に死を拝することになっていたのだぞ?」
薔薇の押花をラベルにしたボトルの栓を開け、器用に二つのグラスへと注ぐとブランタージュはその片方をサマリルの隣へと置いた。
同時に怪訝な眼差しで自分を睨むサマリルの右手に触れて、笑みを消さずに魔族とは思えない癒しの力――金色の奏術を発動させてみせた。
「右手の腱は治しておく。まぁ、好きに飲め」
「……ふん」
眼前の仇敵が言うままにグラスを取り、不機嫌そうに鼻を鳴らしてサマリルは赤く染まった果実酒を一気に呷った。
「おいおい、これでも最上級の酒を持ってきたのだぞ? 人生最後の晩餐くらい味わったらどうだ」
「余計な世話だ。どんなにいい酒でも貴様と飲むのでは泥水と変わらん」
脚が割れるほどの強さでグラスを置き、不機嫌さを隠す気もないサマリルの姿に冷笑にも似た苦笑を浮かべ、興味深そうにブランタージュは果実酒に口をつけた。
「絶対的な死を前にしても揺るがず、私を邪険に扱うか。本当に悪くない。だが、なぜ貴様はそこまで私を嫌う? 貴様は別にこの国が滅んだとしても構いはしまい」
「たしかに、俺にとっては国など価値のないものだ。しかし、それをあの方に、国と民を愛してやまないあの高潔な陛下自身に壊させる真似をした貴様を俺は絶対に許さん」
「個人に対する絶対的な忠誠心か。貴様の出自を考えればむしろ逆の考えを持つはずだが」
グラスの中の酒を混ぜながら、ブランタージュは以前に調べたサマリルの経歴を思い出した。
幼少の頃より国家の暗部に携わっていたサマリルは、とある事件によって国からの裏切りを受け王国への復讐に身を窶した。
しかし、所詮は個人による反逆行為。確かな実力を持っていても精鋭揃いの騎士団に囲まれては為す術もなく捕えられ、騎士団の一部を私物化していた軍務卿によって処刑される寸前となった。
その危機を救ったのは今の彼が忠誠を誓う国王だった。王はサマリルの処刑に際して彼の事情を傾聴し、その場で軍務卿をこそ処断すべしと裁定を下した。そして自らは身分で遥かに劣るサマリルに対して数々の非礼と自らの至らなさを跪いて詫び、こう言った。
――失った信頼を取り戻すのは難しいだろうが、どうかもう一度我が国のことを信じてほしい。その為ならばこの命を差し出しても構わない。君の願いをなんでも叶えよう。
一国の王とは思えぬ発言に臣下は目を剥いて諫言を呈したが、サマリルが返事をするまで王が頭をあげることはなかった。
――なんでも叶えてくださるというのであれば、俺をあなたの影として使ってください。そして、その言葉に偽りがあった時は――この国に仕えるだけの価値がないと分かった時には俺の手であなたの命をいただきます。
自らの命を対価としてでも王国への信頼を取り戻そうとするその誠実さに触れて、サマリルの心は僅かながらも動いたのだろうか。
不敬の極みともいうべき言葉で答えたサマリルに大臣たちは髪を逆立てたが、その言葉を受けた王は彼らを諌め、ただ礼を言ったという。
その後は幼少からの経験を活かし、実体としては公表されぬ勅命部隊『天の星団』を立ち上げ、今日まで国を影から支えてきた。
当時から王家に仕える大臣たちから聞き出したサマリルの情報はこの程度だが、この忠誠を見る限り自分が操る前の王は大変な人格者だったのだろう。
「本当のところは本人にしかわからぬというものだが……いや、詮索はやめておこう。くだらない真実を聞いて醒めるのは愉快ではないからな」
「もとより貴様に話すことなどない。満足したなら早々にお引き取り願おう」
頑なともいうべきその態度に肩を竦めてブランタージュはグラスの中身を一息に呷った。
「まるで牢名主のような言い草だな。まあ良い……最後に聞くが、王を捨て私の下につくというならば命は――」
「話すことなどないと言ったぞ」
「フフ……」
予想通りの返答に肩を揺らして、ブランタージュはサマリルに背を向けた。
「少し残念だ。これから起こることは貴様のような男にこそ見せておきたいものなのだがな」
そう残してブランタージュは歩き出す。まるで未来を見据えたような言葉を発して離れていく男の背中をサマリルは射殺さんばかりに睨みつけた。
「ブランタージュ……一体、貴様は何が見えているつもりだ」
「無論、全てだ。我らが王の復活のカギとなる、7000年前のラティス・マグナに最も因子が近い王女は手に入れた。全ては我が手中、意図の中だ」
そこに世界の全てがあるかのように空を握りしめて言い切ると、ブランタージュはしかし、と口許に手を当てて視線を落とした。
「この話を持ち掛けてきた〝あの男〟の考えは読めんな……一体何を企んでいるのか、調べる必要があるか。もしも障害となるならば――」
そこまで言って、ブランタージュは今度こそ地下牢を後にした。
「全て、か……貴様の言う全てがどの程度の真実をついているというのだ」
誰に言うでもない独り言。
魔族が先程までこの場にいたという残滓が消え去った頃に零れ落ちたその言葉に誘われるように地下牢に響いた足音に振り返って、サマリルの顔に初めて驚愕の色が浮かんだ。
「お前は――!?」




