幕間 《騒乱の予感》 1
蝋燭の火が揺らめいた。
僅かな光量に照らし出されたその一室は、その蝋燭一本では曝ききることができないほど広かった。
視界の届く範囲で見れば、部屋の中央には白いテーブルレースの敷かれた長机が置かれ、それを取り囲むようにして13の椅子が備えられている。
その用途を推測するならば会議室と考えるのが妥当な調度で飾られたその部屋には、たった二人の人影が闇に紛れるように存在していた。
「どうした? 続けよ」
影の片割れ、蔦を纏った剣と角の生えた獅子が刺繍された華美な衣装に身を包んだ男が告げると、身動ぎすらせず、呼吸をしているかも怪しいような生気のない男が僅かに喉を震わせた。
『ですから、目標の姫様は確保いたしましたと申し上げています。ただ、ダン殿がひどく警戒しているようで予定していた海路は使わずに陸路でそちらに向かうことを承認していただきたいのです、王よ』
その口から聞こえてきた音は肉声と呼ぶには不明瞭だった。少なくとも、目の前にある肉体が発する肉声でないことは確かである。
それもそのはず。その言葉を紡いでいるのは2000キルマルも彼方の地で密命を遂げた工作員であり、目の前の男――身なりからして中級以上ではあろう兵士は遠距離の人間と言葉を交わすための装置として彼が仕立てた存在――彼が言うところの遠隔回線なのだ。
「陸路では足がなかろう? まさか、荷物を抱えたまま一月かけて歩いて来るとは言うまいな」
王と呼ばれた男の言葉には茶番に興じる者特有の冷たさがある。兵士の口を通して話す男がどういう行動をとるつもりなのか、それを知っていて敢えて聞いているのだろう。
『ここから半日歩いた先に小さな農村があります。人口30人程度の小さな村で、まともな自警団すら置かれておりません。これではどこかの悪党に襲われてしまっても仕方がありませんな?』
「まったくだな。この悪党めが」
昏い笑い声を響かせた後に投げかけた言葉に、兵士を通した先にいる男が肩を竦める気配がした。
『何のことでしょうか? 私は盗賊に滅ぼされた村から逃げた馬を拾って有効活用するだけでございますよ。ええ、亡くなった村人たちのことを想えば胸が痛みます』
「言っていろ。半日で馬を調達するなら、使い潰して7日といったところか。戻ってくるときの入口は計画通りにせよ」
『御意に』
指示に応じる言葉を最後に兵士の口が閉じる。そのまま動かないところを見ると遠隔回線とやらは途絶えたようだ。
「やれやれ。見分けがつかないというのも便利なのか不便なのか……おい」
「え……はっ、国王陛下!? 大変失礼いたしました! 何用でございましょう?」
強めに肩を叩いたことで正気――この場合、元になった人間の人格という意味だ――に戻った兵士は狼狽しながら頭を垂れた。
「いいや、もう用事は済んだ。下がれ」
「は? いえ、ですが自分は陛下に呼ばれてここに――」
「下がれと言ったぞ。三度は言わん」
「ヒィ! 申し訳ございません。失礼いたします!」
状況を理解できずに困惑する兵士に今度は殺気を込めた眼差しと共に命じると甲冑に身を包んだ彼は浅く息を呑んだ後に最敬礼をして部屋を飛び出していった。
その足音も遠くに消えて、部屋の周囲に人の気配が無くなったことを確認して王は崩れ落ちるように椅子へと座り込んだ。
「……まったく。人間族というのは力がない、理解力もないと本当にどうしようもない種族だな。自らの王の命すら聞き逃すなど、我らであれば疾く自害する罪過だが」
嘆くような、あるいは憤慨するような口調で紡がれるその言葉は王の口からではなく、その部屋の暗い影――一層深くなっている闇の中からすべてを祟るように響いてきた。
「ブランタージュ卿、か。まさしく私共は貴公達の足元にも及ばぬ下卑た種だ」
王の言葉を受けて満足そうに声の主が鼻を鳴らした。
「当然だな。人間族が我らに刃向うなど、身の程を知らぬ所業というもの。貴様らは今度こそ我らが主の統治の下で家畜として暮らせばよいのだ」
発した己の言葉によって高揚したのか、闇の中に潜んでいた人影は肩を震わせながらその姿を現した。
「この7000年は貴様らの歴史と言えるのだろうが、我らからすれば偽りの世界が続いた暗黒の時代だ。そうとも、偽りの世界は正さねばならない」
その男はおよそ人とは思えぬ雰囲気を纏っていた。
姿形は確かに人としての特徴を備えており、言葉も通じる。しかしその瞳は血を望む性格を現したような真紅が爛と輝き、その口元は邪悪を形にしたように歪んでいる。そして何よりも、その身から立ち上る力を見れば、この男がただの人間でないことは窺えた。
その身体を包むように大気を淡く染める夜色の瘴気。それはまさしく、人にとっての害悪――天素と呼ばれる力だ。
魔族。広くファーレシアに言い伝えられる災厄の申し子。人の形をした魔性。
目の前の男は人間族にとって最も忌み嫌われ、同時に恐れられている種族に類する存在だった。
「そう、我が主の世界を今度こそ……7000年の屈辱を耐えた今こそ、かつての大願を成就させるべき時が近付いているのだ!」
「委細、貴公の思うままに」
興奮するままに叫ぶ男――ブランタージュに対し王は静かに跪いた。公的な場とは全く逆の主従関係を当然のように受け入れてブランタージュは頷いた。
「フフ。この国は最早我が手中に落ち、供物となる聖王の血筋も手に入った。我が主の復活はもう間もなくだ」
満足そうに机へ腰かけながら、ブランタージュは目の前の王へ話しかけるではなく呟いた。その言葉に一切の返事をしない王の存在も忘れたような哄笑がその身体を揺らす。
「いや、しかし懸念はまだ残っているのだったな」
ひとしきり感情を表現して、彼は突然何かを思い立ったように動きを止めた。鋭利な刃物を思わせる視線が向かうのは室内に掛けられた一枚の絵画だ。
白い剣を手に掲げた銀髪の青年。その絵は王国の歴史と共にあり7000年の間、この国を見守ってきた歴史の証人だ。
『白き聖王の誕生』というのがその絵の題名であることをブランタージュは知らない。しかし、その青年が手にする剣が今なお自分たちの前に立ちふさがろうとしている事実に苛立ち、強く歯噛みした。
「我が主の怨敵、勇者ラティス・マグナ……我らが理想の為に排除せねばなるまいな」
呟いたブランタージュは『白き聖王の誕生』へと手を触れ、愛しささえ感じられるほど優しく撫でた直後に爪を立てて絵を引き裂いた。
「何があろうと始末する。その為に必要なものは、最早すべてが揃っているのだからな」
底冷えするような笑みと共にブランタージュは部屋を後にする。
そこに残ったのは無残に破かれた国宝と家臣であるはずの男に恭順の意を示して跪く王の姿だった。




