第三章《密計の見世物小屋(コンスピラシー・サーカス)》 4
店内に食器を洗う時特有の流水と食器同士が擦れる乾いた音が響く。
勇輝たちが帰り、閉店の看板を出したことで客の姿の消えた喫茶店『セピア』はまるで祭りが終わった後のような静かな雰囲気を醸していた。
「……なあ、ナターシャ」
「どうしたの? 乾燥棚いっぱいだった?」
鼻歌交じりに明日の仕込みの手を止めずに返事をするナターシャの声は明るい。
その声色から彼女なりにサーカスを楽しみにしていることがアルダレスには理解できた。同時に、自分がこれから話そうとしていることで彼女を再び不機嫌にしてしまうだろうことも予想し、言葉に詰まる。
「いや、乾燥棚のことじゃなく……もっと大事な話だ」
「大事な話?」
野菜を切る手を止めてナターシャはアルダレスを怪訝な表情で見た。日中のやりとりで話が終わったと認識している以上は無理からぬことだと思いながら、彼女の眼を見て頷く。
「その、な……まだ一度も謝ってなかったと思ってな」
「謝るって、なんのこと?」
腰に手を当ててナターシャは完全に振り返る。その眼を直視することができずに視線を逸らし、アルダレスは意を固めて瞳を見つめ返した。
「十年間、嘘の婚姻でお前を縛っていたことだ。これまでずるずると偽りの関係を引き摺ってきて、まだ一度も謝っていなかった。すまない」
「え……?」
頭を下げて謝るアルダレスの姿にナターシャが当惑し、すぐに思考が状況に追いついたのか、溜息を吐いて彼の頭を小突いた。
「突然っていうか、今更っていうか……急にどうしたの?」
「なんとなく、な。元々、あの子の傍にいるのは俺だけのはずだった。だというのに、気付けばお前まで巻き込んでもう十年になる。それも、夫婦なんて関係を偽って……」
壁に体重を預けて眼を伏せるアルダレスの姿にナターシャは再び溜息を吐く。その言葉で突然殊勝なことを言い出した理由がわかってしまったのだ。
「嘘吐き。昼間にエミリーが言ってたこと気にしてるんでしょ? 女の子にとってお嫁さんは特別だとか、そういうこと」
「……ぐ」
図星を突かれたアルダレスが妙な声をあげる。隠し事のできないその態度に笑みをこぼしながら、ナターシャは彼と並ぶように壁に背を預けた。
「あのね、アル。もう十年も前のことだから忘れてるかもしれないけど、仕事も何もかもを放り出してあなたたちに付いて行くって言い出したのは私なのよ。それなのに巻き込んだなんて言い方はおかしいと思わない?」
己の衝動に任せるままに行動した当時のことを思い出すと妙な気恥しさを感じ、ナターシャは手遊びに自分の髪を弄ぶ。
「覚えているさ。それでも、ここまで付き合う必要はなかったんじゃないか? 途中で別れて故郷に――サンタノエルに帰れば偽物じゃない、本物の幸せだって見つけられたんじゃないか……そう、思ってな」
――ああ、そういうこと。
落ち着かない雰囲気で話すアルダレスにナターシャは彼が本当の意味で気にしていることに気が付いた。
つまるところ彼はナターシャが未だにこうしていることを必要以上に自分の責任だと思い込んでいるのだ。
「てっきり私にファンディエナを名乗らせて暮らしてることに負い目を感じてるんだと思ったけど……そういうことじゃないのよね?」
「ああ。それも確かに俺の落ち度だが、そうじゃない。あの子を託されたのは俺だから、俺にとってもあの子は妹みたいなものだったから、俺が全てを懸けて護り続けるのはいいんだ。それは納得してる」
そこまで言ってアルダレスは深く息を吐く。伏せていた視線はいつの間にか完全に閉じられていた。
「ただ、これは俺じゃない人間からすれば貧乏くじみたいなものだ。いつ終わるのかもわからない時間を、いつ襲われてもおかしくないことを意識しながら過ごさなければならない。そんな使命を背負わせることを理解していて、お前を連れてきたことが正しかったのか……勇輝がやって来てからの最近は、そればかり考えていた」
――そして昼間の一件でその感情が表面に噴出した、と。
アルダレスとは故郷のサンタノエルにいた頃からの長い付き合いだが、彼が抱えるこうした悩み事に関してはいつも相談されるまで気付けなかった。今回も同じであったことを悔やみながらも、ナターシャは考えすぎな幼馴染兼パートナーにこれ見よがしな溜息を吐いて見せた。
「あのね、アル。私がそんなこともわからない女だとでも思ってたの? 全部わかった上で一緒にいたに決まってるでしょう。確かに嘘の夫婦生活に思うところがないわけじゃないけど、あの子を護りたいと思っていたのはあなただけじゃないのよ」
口にした言葉に偽りはない。それだけの覚悟や思いがなかったならば、きっと自分は今もここにいるはずなどないのだから。
「だから、そのことに関してはアルが責任を感じるのは筋違い。私が十年間アルとアティの傍にいるのは私の意思だし、私にとって最善の選択だった。それを勝手に悩むのは私に対する侮辱よ」
「……そう、だな」
返ってきた声は未だに悩み事を秘めたままだった。
「まあ、もしあの時サンタノエルに帰っていても、未だに結婚なんてしてなかったでしょうね……」
「え、何か言ったか?」
「私もそろそろ30歳になっちゃうから、全部解決してから結婚しようにも相手がほとんどいなくなったのは痛いって言ったのよ」
囁く程度の声で呟いた言葉を聞き返したアルダレスを誤魔化して、ナターシャは仕込みの作業へと戻っていく。
その日、夕食の頃にはアルダレスの様子も平素の状態に戻っていたが、彼がどのようにして自身を納得させたのかをナターシャが知ることはない。
ただ、近い将来に自分たちの関係を変える何かが起こることを心のどこかで予感していた。




