第二章《変事の予兆》 11
携帯式照明の光に照らされたテントの中、十を数える獣の檻に囲まれたその場所で、アントニオは杯を傾けた。
「フフ……まさか計画の実行前に標的と接触できるとは思いませんでしたね。僥倖というべきものでしょうか」
《なにが僥倖よ。そうなるようにマレウスに走らせたのはアンタじゃないか》
アントニオ以外に人影のないその場に突然響いた声は肉声というよりは密室を数度反響したような音声だ。
「そういった下積みによる幸運こそ、私にとっては僥倖なのですよニェウさん。あなたとヴォルガ君の同調が順調であることも含めて、ね」
姿の見えない部下の名前を呼びながらそばの檻へと視線を投げれば、理性など持たないはずの獣魔が人間のような挙動で言葉を介していた。
《ハ、そうかい。そいつは良かったわね……そーいえば、アンタ本名名乗ってんでしょ? 身バレとか心配しなくていいワケ?》
大して興味のなさそうな口調で投げかけられた問いは、恐らく本当に興味はないのだろう。獣魔との意思接続の調整をしている間の世間話程度の問いかけに過ぎないことをアントニオは理解していた。
「問題はありませんよ。サマリル殿は星団に関わる前にも色々あった人ですから身分を詐称していましたが、私は基本的に表舞台に立たない主義なので、名前を知られてはおりませんから。今更昔のことを探ったところで私の過去は完全に隠滅してありますし、ね」
《その慢心が身を滅ぼさないとイイねぇ……アンタに死なれたり逃げられたりするとアタシも結構困るし》
「ご忠告痛み入りますねぇ。それが私欲や保身からのものであれば特に素直に受け入れられます」
口許の笑みは解かずに答えると、獣魔は不快そうに鼻を鳴らした。
《イヤミなトコは変わらずだね。興行商人の皮被ってすこしはマシになったかと思ったんだけど?》
「性分ですので……ところで」
照れたように頭を掻き、アントニオはその糸目を開いた。先程までの柔和な雰囲気とは違う独特な威圧感を放つ眼光が獣魔を捉える。
「どう思いましたか、あの少年のことは?」
《白い服の子? なんか変だったのは感じたけど、そこまで警戒する必要ある? アタシ達の視線に警戒してたのって茶色い子の方だったでしょ》
「たしかに、一緒にいたもう一人の少年の方が厄介だろうとは私も感じましたが、ですが彼こそが例のラティス・マグナです。情報不足であったとはいえ、サマリル殿の部隊が敗北を喫するほどの相手。十分に警戒せねば、慢心で身を滅ぼすことになりかねませんよ?」
先刻かけられた言葉をそのまま返して、アントニオは再び笑顔の仮面を被る。その様子に獣魔は苛立たしそうに歯軋りした。
《アンタに言われなくてもわかってるわよ! 要するに、あの子が未熟な今だからこそ付け入る隙も大きい上に多いってことでしょーが!》
「その通りです。わかっているなら結構」
透明な杯に注がれた赤い液体を混ぜるように揺らしながら、アントニオは低く笑った。
「最悪、足止めだけでもしていただければ、その間に私が始末することも可能でしょうがね」
《そんな心配は無用だよ。あの子が勇者だろうがなんだろうが、私と私の獣魔達が負けるはずはないんだ。強い獣は瀕死の獲物も全力で狩るものなんだよ》
「ええ、あなたの言葉も行動も信頼していますし期待していますよ」
呼気を軽く吐くような笑みを漏らして赤い液体を一息に飲み干すと、獣魔は心の底から不思議そうな声をあげる。
《いつも思うんだけど、アンタそれ何飲んでるの? 薔薇酒に色似てるけど》
「これですか? 処女の血です、と答えたら信じて頂けるでしょうか?」
《普通なら冗談だと受け取るんだけど、アンタの悪趣味を考えれば冗談に聞こえないわ》
獣魔の返答に満足したのかアントニオは堪えもせずに噴き出した。
「それは光栄ですが、私もそこまで人間止めていませんよ。これは異世界からの流入品です。響透酒とは違う酔いが味わえますよ?」
《アンタ、自分で言う大事な作戦前だってのに酒盛りって……どーでもいいけど、やっぱり慢心が過ぎるわ》
「なに、問題はありませんよ……」
愉悦を帯びた声色で呟き、アントニオは杯を檻の隣に据え置かれた標的板へと投げつける。衝突の衝撃で砕け散ったガラス片が照明の明かりを反射し、標的板に張り付けられた似顔絵を照らし出した。
「お姫様を迎えるには少し陽気なくらいで丁度いい」
銀色の髪の少女の絵を眺めながら、男は暗く笑っていた。




