第二章《変事の予兆》 3
「ふぅ……ようやく、ゆっくりできる」
騒がしくなりすぎた浴場の空気が醒め始めた頃、石造りの浴槽に張られた湯に心地良さを感じながら、アーティアは安堵の溜息を溢した。
「本当に、アリアはどうしてそう男性みたいな考え方で行動するの。相手をするの疲れるのよね」
「だからごめんてば……謝ってるじゃん」
「それは謝ってる態度じゃないの!」
アリアの行動に悩まされているエミリーの姿に苦笑しつつ女湯を見渡すと、頭の上にタオルを載せたマーテルと、衝立のすぐそばで一人湯に浸かるナターシャの姿があった。
ナターシャはどうやら衝立越しにアルダレスと話しているようで、何となく表情が柔らかいように見える。同じように柔らかい表情のマーテルは、この湯張りの入浴がお気に入りになったようだ。
「マーテル、なんでタオルなんか乗っけてるの? こっちの入れ物に入れればいいのに」
「これ? ユウキがしてたから。アティもする?」
「え、そうね……って、男湯を覗いたの!?」
「のぞいた? さっき、あそこからみえたよ?」
マーテルの指した方を見ると、男湯と女湯を区切る衝立の僅かに上部――星の見える夜空が広がっていた。
「……さっき浮いた時に見えたのね。いいマーテル? 女の子がそういうことしちゃダメ」
「どうして?」
「え……どうしてってそれは、あの……そういうもの、だから?」
「ちがう、ちがうよアティ。それは間違ってるよ」
「ア、アリア?」
「アリア、どうして?」
アリアが会話に入ってきたおかげでマーテルの疑問の矛先が自分から逸れたことに胸を撫で下ろしつつ、アーティアは一抹の不安を覚えた。あのアリアがまともなことを言うはずがない。
「アリア、ちょっと待っ――」
「それはね、マーテル。お風呂を覗くのは女じゃなくて男がするものだからだよ!」
「そうなの?」
「そうだよ!」
「ちがうわよ!」
質の良い紙でおもいきり机を叩いたような小気味のいい音が鳴り響いた。当たり前のような顔で嘘を教えるアリアの頭をエミリーが勢い良く叩いた音である。
「子供に嘘を教えるんじゃないの! マーテルもそういうことは大人になればわかることだから、今は知らなくていいのよ」
「だからって、叩くことないじゃん……」
うっすらと涙を浮かべるアリアに苦笑しながらも、これで当分騒ぎにはならないだろうと確信し、未だアルダレスと話を続けているナターシャを見る。
――何を話してるんだろう?
二人は夫婦だ。少なくとも十年の間、二人の姓はファンディエナだったとアーティアは記憶している。
――けど、何かが違う気もする。
それは本来ならスムーズに噛み合う歯車の間に一枚の薄布を噛ませたような違和感。時折二人から感じる意志という強力な動力によって辛うじて廻っているような、そんな異質さ。
自分の感じている疑問の正体が一体何なのかがわからないまま、ただナターシャを見つめてどれほどの時間が経っただろうか、そろそろ身体を洗おうと膝に力を込めたところで――。
「アーティ! 何見てるの?」
「きゃあ!?」
突然背後から抱きしめられ、アーティアは短い悲鳴をあげてその身体を硬直させた。
「アリア。な、何?」
「じぃっとナっちゃんのこと見つめてどうしたのかな、て……ははぁん?」
一瞬だけアリアの目が輝いたような錯覚を覚えると共に奇妙な怖気が背筋を駆け抜ける。
「アリア、なんでもな――」
「ああダイジョブ。別にアティが百合になったとか思ってないから。そっか、そうだよね、やっぱりこういう機会にやるものだもんね……」
「いやあの……アリア?」
突然ぶつぶつと独り言を囁き始めたアリアを訝しみながら声をかけると、彼女は見る者を怯えさせるようなニヤついた顔で振り返った。
「面白いこと思いついちゃった」
「面白いことって……あ、アリア!」
嫌な予感は止まないが、止める間もなくエミリーたちの方へと歩いて行ったアリアの背中を、アーティアは見送ることしかできなかった。




