序奏の章《喧騒(シアワセ)を呼ぶ明星(うぶごえ)》 1
煌めく陽光が泉に反射し、どこか幻想的な明るさに満ちた森の中を、一対の燕が駆けるように飛んでいる。
そんな風景に静かな平穏を感じながら、朝凪勇輝は足元に生えていた香草の一つを摘み上げた。
「……どれも同じに見える。これ、食える方だっけ?」
呟いた独り言が耳に届いたのか、傍らで同じように採取を続けていた少女が振り返った。暖かな日差しを受けて美しく輝く銀髪が踊るように舞う。
「それは食べられる方だよ。今晩のメインディッシュに使う香辛料。生でも食べることができるから、一口食べてみたら?」
「……いや、味を知らない香辛料を生でいくのは厳しいだろ、アティ」
首を振って香草を食品用の籠に入れると、勇輝は嘆息して少女へ振り向いた。
アーティア=ヴァレンシュタイン。それがこの少女の名前であり、現在は生活を共にしている人間だ。
「え? 勇輝、一昨日もそれ食べてたよ? なんだっけ、『コショウっぽい味がする』って言ってたけど?」
「あぁ、あれか。それなら余計に、これだけじゃ食えないな」
刺激物を単品で摂取する趣味は勇輝にはない。それは目の前の少女も知っているようで、口許を手で押さえて笑っている。
「そうだね。食べるのは今日の夕食に、だね」
「ああ。夕食は楽しみにしてるよ」
アーティアの言葉に肩を竦めて微笑むと、勇輝は籠を地に置いてその隣に横たわった。
「お疲れさま。ごめんね、病み上がりなのに」
「病み上がりって言っても、ただの風邪だからな。この程度の仕事は苦にもならないよ」
隣に腰を下ろしたアーティアに返答し、勇輝は空に浮かぶ六つの月を眺めた。
勇輝が逗留している町――サーベラスを襲った事件は二週間も前の出来事となっていた。
事件で負った傷と、数えて一週間もの長期に亘って雨に打たれていたことで高熱を出した勇輝は、この一週間の間満足に動くこともできなかった。
その間献身的に勇輝のことを看てくれたアーティアには感謝や恩義の念を禁じ得ないし、可能な限り恩を返していきたいと思う。
「……静かだな」
「そうだね」
風に流れる雲を目で追いながら、勇輝は初めてこの場所を訪れた時のことを思い出した。
「そういえば、前は獣魔っていう怪物に追われて大変だったな。あれってよく出るのか?」
尋ねながら視線を向けると、アーティアは軽く首を振った。
「普通ならあり得ない。だってここは聖域だもの」
アーティアの言葉は確信に満ちていた。たしかに、あんな怪物と遭遇する危険が万に一つでもあるのなら、たった一人で全裸の沐浴などするはずはないだろうなと勇輝は思った。
「ここはね、神竜の聖域って呼ばれていて、特別な結界が張られているから、獣魔みたいな天素に侵食された生き物は入ることができないの」
「結界……それで財布も持ってこなかったのか」
ファーレシアで流通している通貨には獣魔から取り出された天素の結晶が象嵌されている。外出の際、メア・ピースと呼称されるこの貨幣を持ち出さないように注意されたが、どうやらそれは結晶化した天素にも結界が影響するかららしい。
「そういえば、あの獣魔から出てきた天素ってどうしたんだっけ? 俺が倒れた時にはまだ持ってたような気がするけど」
「あの時は勇輝を運ぶことで頭がいっぱいだったから、覚えてない、かな? だけど、ベッドに寝かせた時には持ってなかったと思うよ」
――ってことは、途中で落としたのか。
アーティアの言葉にそう推論すると、軽く溜息を吐いた。
「惜しかったなぁ……あれなら結構な値で売れたはずなのに」
メア・ピースに象嵌されている天素結晶は自然から採掘されるわけではない。冒険者や自警団の人間が獣魔を狩り、その体内から取り出すことで得られるものなのだ。その上、一定期間を経ることで天素結晶は摩耗し消滅していくため、その都度新しい結晶を象嵌する必要がある。
通貨に使用する結晶であるだけにその取引価格はそれなりに高く、冒険者にとっては旅をする上での収入として、自警団にとっては活動資金の足しとして重要な立ち位置を占めている。
それは与えられた資金で運営しなければならない教会も同様であり、可能ならばあの時の天素結晶を換金しておきたかったところである。
記憶の通りならあれは拳大の大きさで、隊商にでも売れば7000ミープ――勇輝の感覚に置き換えれば約14000円――程度の値で売れるものだったと思う。
「過ぎちゃったことは気にしても仕方ないよ。それに、無理に稼がなくても我が家の家計は問題なしだよ」
「……ああ、そうなんだけど」
笑って言うアーティアに消沈しながら頷き、勇輝は服の裾を払った。
「でも、どうしてあの時は獣魔がいたんだろうな」
勇輝がファーレシアに召喚された日、確かにこの森には獣魔が入り込んでいた。あの時の行動に後悔はないが、アーティアの言う通りに結界が作用していたのならば、勇輝自身も大した怪我をしなくて済んだはずだ。
「わからない。でも勇輝がファーレシアに来た日のことだから、ラティス・マグナに関係する何かがあるんだと思う」
遠い目をするアーティアの言葉に同意して、勇輝自身もその日のことを振り返る。
――もう一ヵ月になるんだな。いや、まだ一ヵ月しか経ってないのか?
あまりに波乱に満ちた一ヵ月だった所為もあり、時間の感覚が曖昧だ。自分の育った世界とは別の世界での生活は驚きと楽しみと、未だ胸を穿つ哀しみで足早に過ぎていたように感じる。
――マティアス。俺、頑張れてるよな……。
心の中で、今はいない異世界での親友に呼びかける。それまでの暮らしとは一線を画する生活は、完全に慣れたとはいえないが、自分なりに適応できているとは思う。
――だけどなんだろうな、この感じ。イラつき、とは違う感じだけど。
同時に浮かんだのは、生活への順応以前の言葉にならないわだかまり。日本の暮らしの中では感じなかった疼きが勇輝の心の中で生まれていた。
――まだこれから先のことに不安を感じてるってことかな。元の世界に帰るまで、もっと頑張らないと。
服越しに首にかけたリングペンダントを抑えながら、自分自身を叱咤すると、アーティアとの会話の流れを乱さないように顔を上げた。
「俺が来たことが原因の可能性は高いよな……って、そういえば俺の荷物!」
この森で目覚めてすぐにアーティアの悲鳴を聞き、荷物も持たずに駆け出したのは一月も前だ。特定の人間以外が侵入することのない森であっても、動物たちに荒らされて悲惨な状態になっている可能性は大いにある。
「荷物って、勇輝がファーレシアに来た時にはあったの?」
「ああ。どうして忘れてたんだろうな、財布も鞄の中だってのに……仕方ないな、一応見てこようかな」
今更気付いたところで後の祭りだが、気が付いた以上は放置するのも心の据わりが悪い。溜息を一息吐いて、勇輝は立ち上がった。
「取りに行くのはいいけど、場所わかるの? 勇輝、この森の土地勘なんてないでしょ」
「あ、そうだな。だけど、ここってアストネリアのあった泉だろ? なら、ある程度は覚えてるから大丈夫だよ……たしか、こっちに――」
自分が眠っていた巨木のある方向を指そうと視線を向けた瞬間、視線の先――木々に遮られた森の奥から、穏やかな音色と共に淡い光の輝きが発せられた。
――なんだ? あっちは俺が眠ってた……?
「この音……勇輝と会った日にも聞いたことがある。ねえ、行ってみようよ」
「ああ、行こう」
アーティアの言葉に頷いて、勇輝は不思議な現象の許へと歩き出した。




