第四章《白刃踊る歌劇》 1
ようやく空が朝の光を受けて明るくなった頃、ミーシャ=アスブロンドは彼の勤め先である酒場『宵月の美酒』の下拵えを終え、自宅への帰路を歩いていた。
彼にとってはこれまでが活動時間で、これから店が最も混雑する昼時や夕方までが睡眠時間である。
「ミーシャ。ミーシャ!」
ふと、睡眠を求める脳が自分の名を呼ぶ声を認識する。ミーシャは瞼を重くしながら辺りを見回すと、視界の中に彼が兄貴分と慕うフリミングの姿があった。
痩身で不健康と思えるほどに白い肌とは裏腹に、麻の服に包まれた四肢は鍛え上げられた肉体が持つ威圧を感じさせる。
そんな肉食獣を思わせる空気とは別に、年下の人間に対する面倒見の良さにミーシャはいつの間にか強い信頼を抱くようになっていた。
「あれ、兄貴? どうしたの、こんな早くに?」
ミーシャの記憶の中でもフリミングが姿を見せるのは午前十時頃だけだったはずだ。このような人も出歩かないような時間に町の中で会うことは非常に珍しかった。
「ミーシャ、悪いんだが実はまた頼みがあるんだ」
片手を立てて謝罪の意を示しながらフリミングが歩み寄ってくる。ミーシャは仕方がないなと思いながらも口許に疲れた微笑を浮かべた。
「また勇輝や自警団のことを見てくればいいの? それとも酒場のツケかな?」
過去にフリミングがしてきた頼み事といえば、酒場のツケを払うための一計を案じるのを手伝うか、町の様子を調べて教えるくらいのことだった。その全ては大した手間をかける必要がないものだったが、ミーシャはこれまで熱心に頼み事に取り組んでいた。
それほどまでに目の前にいる男へ全幅の信頼を抱いていた。
「いや、そうじゃないんだ。今回はそういうのじゃない。今度の頼みっていうのは……」
「……兄貴?」
兄貴分の調子がおかしいことに気付いたミーシャが心配した声音でフリミングへと近付く。そのまま顔色を窺おうとした瞬間、ミーシャの顔が驚愕に歪んだ。
「町の連中を騒がせるために、死んでくれってことだ」
ミーシャの視線の先にいたのは見知った頼りがいのある兄貴分などではなく、悪魔に魂を売り渡したような冷酷な笑みを浮かべる一人の野盗だった。
「あ、あに、き……?」
口から出た言葉に遅れて心臓の辺りに鈍い衝撃と酷い灼熱感。恐る恐る視線を下ろせば、意匠も何もない武骨な刃物が深々と自らの胸に突き刺さっているのが見えた。
「大丈夫、大丈夫だ。そいつには神経毒が塗ってある。すぐにでも痛みは感じなくなるさ。これからお前を解体さなきゃならんっていうのに、弟分の叫び声なんて聞きたくないもんナァ?」
愉悦に満ちた声が耳朶を叩く。しかし、音は聞こえていてもミーシャの目は既に光を失っていた。
――どうして、あに、き……。
兄貴と慕う男の豹変した姿を再び見ることは叶わず、ミーシャの意識は戻ることのできぬ闇の中に呑まれて消えた。
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サーベラスの町を襲っている異常に最初に気付いたのは露店通りの商人だった。王都から流れてきた小物細工商人の彼女は今朝一番に入ってくるはずの素材の納入が遅れた為に、その時間には人がまだいない露天商広場で早めの昼食を摂るところだったという。
朝食を抜いてまで商品を待っていた彼女は手軽につまめるホットドッグを食べながら広場へと踏み入り、そしてその土地の中央で〝なにか〟に群がる烏の集団を目撃した。
好奇心に負けてその〝なにか〟を確認した彼女は既に食事を終えていたことを後悔した。それを見てしまった瞬間に胃の内容物を全て吐き出してしてしまったのである。
反射的に嘔吐してしまうようなもの。その〝なにか〟とは、バラバラに解体されたミーシャ=アスブロンドの変わり果てた姿だった。
「これは、酷いな……」
「ああ、ジュリオと他の連中は真っ先に路地裏まで走っていきやがった。今頃路地裏じゃ、壮大な吐瀉の海(ゲロ溜まり)ができてるだろうさ」
目撃者からの通報を受けて現場へとやって来たのはアルダレスとジュリオ、そして自警団員四名と協力者として籍を置く勇輝だった。とは言っても勇輝とアルダレスを除いて五人全員が早々に一時離脱している。
「無理もないですよ。これはさすがに普通の死体じゃなさすぎる」
丁寧に内臓までもが刳り貫かれ、ばら撒かれている。並のスプラッタよりも不快感を誘う光景だ。
「確かに……しかし、驚いたな。こんな死体を目にしても平静でいられる人間なんて、この町には場馴れした俺とナターシャしかいないもんだと思っていたが……」
驚くというよりは感心したように自分を見るアルダレスに苦笑で返すと、勇輝はうんざりした顔で口を開いた。
「違いますよ。平静なんかじゃない」
口にした言葉は本当だ。確かに勇輝の心は暗い気持ちに囚われていた。しかし、それは凄惨な死体の不快さが原因ではなかった。
現実感がないということはないだろう。現に生まれて初めて嗅いだ死体の匂いは顔を顰めるほどに強烈でその存在を主張している。これで現実感云々と言っているのは余程の鈍感か事態を理解できない愚か者のどちらかだ。
そして勇輝はそのどちらでもなく、同時にその二つに似た別の何かだった。
「何も感じない……知り合いが殺されても何も感じられないなんて、俺は……」
自分でも驚くくらいに平淡な声が溢れ出す。声が震えることもなく、全ては対岸の火事のように心が凪いでいた。
「勇輝……」
目の前に立つ男のように修羅場や地獄を見てきたであろう人間とは違う、どのような世界にいても他者とは違い続ける性質。
「まるで、心を持たない化け物じゃないか……」
人でなしでしかない、自分が最も嫌いな自身の汚れた心を、勇輝はこの瞬間にはっきりと認識した。
「あのな、勇輝……」
アルダレスの気遣うような声音に勇輝は苦い感情を噛み締めながら首を振る。
「いえ、なんでもないです。今言ったことは忘れてください……」
アルダレスにではなく、自分に言い聞かせるための言葉を口にして勇輝は儚く微笑んだ。
その表情を見つめていたアルダレスは突然視線を逸らして、勇輝の頭に右手を置いた。
「なぁ勇輝、お前にとっての自分自身ってのは今のお前には認められないものかもしれないが、今のお前はお前が思っている昔の勇輝とは違う。自分が変わることを望んで、受け入れている一人の人間だ。だから、お前はお前なりのやり方で、この世界で、本当の意味で〝朝凪勇輝〟になればいい」
こちらの心を見透かしたような言葉に傍らの師を仰ぎ見ようとすると、「こっち見んな」と強烈な力で押し返された。
「いいか、勇輝。お前はこれから人間として成長すればいい。アーティアやジュリオ達と一緒にな。それが人生の先輩としてしてやれる俺からの助言だ」
アルダレスはそれだけ言い終えると、頭に置いていた手を退かして勇輝の胸を小突いた。
「まあ、若い間は精々迷えってことだ!」
その一撃で、勇輝の心の中にあった靄のようなものが、少し晴れた気がした。
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「た、ただいま戻りましたぁ」
勇輝とアルダレスの会話から程なくして、ジュリオ以下四名の自警団員は胃を軽くして平衡感覚をぐらつかせながら戻ってきた。
「おかえり。後片付けはある程度終わっているから皆安心してくれ」
アルダレスの言葉に若干の喜色を浮かべる面々だったが、彼らの長の傍らに置かれた蘇芳色の麻袋を見て再びげんなりとした様子になった。
「あー、それより皆、これを。少しでも胃に物を入れてないと辛いだろ」
「う、うん。ありがとう勇輝」
「悪いな、勇輝」
引き攣った笑いを浮かべながらも面々は差し出された携帯食料を口に放り込み、味わうことなく水で流し込んだ。
「よし、それじゃあ取り敢えず遺体を運ぶぞ。一時的に自警団の詰所で預かることになるからな。丁重に――」
アルダレスの指示は最後まで言い終えることを許されなかった。彼らから少し離れた場所にある露店通りから怒号と悲鳴が聞こえてきたからだ。
「なんだ……この感じ、露店通りから?」
徐々に大きくなる騒音の方角、サーベラス南門がある場所から背筋をざわつかせる感覚が勇輝に何かを語り掛けているような気がした。
「野盗団だ!」
しかし、勇輝がその感覚の正体に思案を巡らせるよりも早く、露店通りから響く悲鳴に交じってそんな言葉が聞こえてくる。同時に、その場にいた者は全員が電撃を浴びたように反応した。
「チッ! こんな時に来やがったのか! お前たちは詰所に戻って隊ごとに賊の制圧に当たれ。勇輝とジュリオは俺と来い!」
悪態の後に矢継ぎ早に指示を飛ばすと、アルダレスは愛用の斧槍を手に走り出した。他の団員も、一瞬の後に動き出す。
「団長! どうして僕たち三人だけでこっちに!?」
アルダレスの背に追いついたジュリオが叫ぶように問いかけると、アルダレスは二人を一瞥することなく怒鳴った。
「露店通りの端。そこから随分と手強い奴の気配がする! 注意しろ!」
「わかってますよ! 尋常じゃない殺気だ」
「これが、殺気……」
ジュリオの叫びに自分が感じていた悪寒の正体を知り、勇輝は胸中に生じた戸惑いを振り切るように一際強く足を踏み出した。
● ●
サーベラスの露店通りとは、この町にとってまさしく玄関口というべき商店街だ。通りの始まりは無論のこと町の入口であり、正面からの襲撃によって最も被害が出るのが早い場所でもある。
しかし被害が出る可能性が高いということは、逆を言えば対策を講じている者がほとんどということでもある。そのような性質を持つためか、露天商たちに出た被害は人的、物的なものを問わず最小限で済んでいた。
「みんな、逞しいんだな」
そんな街の状況を確かめながら、勇輝たちはひたすらに露店通りの果てを目指して駆け抜ける。
「……いたぞ! 団体さんがお待ちのようだ!」
アルダレスの言葉がなくとも勇輝たちには眼前の敵が既に見えていた。十人程度の男たちが好き放題に無人となった露店の商品を荒らしている。
そして、そんな一団を統率していたのは勇輝にとっても見覚えのある人間だった。
「お前は、フリミング!」
ジュリオの憤る声が男の名を呼ぶ。痩身の男は、蛇を彷彿とさせる気味の悪い笑みで以て三人を迎えた。
「ヨォこそォ! 自警団長サマに期待のホープ君、それに伝説の勇者サマァ!」
芝居がかった仕草で自分たちを迎えたフリミング言動に、勇輝とジュリオの二人は戸惑いを隠すことができなかった。
「な、なんだ? こいつ、こんな奴だったか?」
「いつもの言動は芝居だったっていうこと、なのか?」
「落ち着け! ミーシャを殺したのは恐らく見てこの男だ。これが奴の本性であろうとなかろうと、俺たちの敵であることには変わりない!」
アルダレスは動揺する二人を戒めるように斧槍の柄で地面を叩くと、固くなった声音で切り捨てた。
「ッハ! 正解! ミーシャは俺の可愛い弟分でナァ……自警団の情報とか、町の状況とか、俺じゃ調べられねえことを教えてもらったりしてたんだよ! 俺は本当にアイツが好きだった。だからコソッ! 俺自身の手で、綺麗に、丁寧に解体してやったのサァ!」
狂った言葉で喋るフリミングの言葉に、アルダレスとジュリオは唇を噛んだ。それと知らずに内通者となり、無残にも殺された同胞の無念を噛み締めているのだろう。
「まァ? 最初っから殺すことは決まってタンだけどナ! アイツは俺タチにとってノ狼煙の種火だからヨォ!」
「……もういい、黙れ。それ以上喋るな、耳が腐る」
勇輝が聞き取ったのはとても静かで平坦な声だった。静かでありながら重いその声に振り返れば、アルダレスが死者へ黙祷を捧げるように目を閉じていた。
溢れんほどの激情を抑え込んだ上で発された言葉は、それ自体が相手を傷付ける武器のようだ。
「勇輝、ジュリオ。お前たちは奴の周囲にいる九人を叩け。あいつは俺に任せろ」
そっと囁くように二人に呼びかけると、アルダレスは斧槍を構え直してフリミングに突撃した。
その姿を見送り、勇輝とジュリオはお互いの目を見て頷いた。
向かい合った友人の瞳には、出会って初めて見る彼の憤怒――荒ぶる炎が垣間見えたような気がした。
――ジュリオにとっては家族を殺されたようなものだもんな。
今の自分にはない激情を身の内に秘めた彼を案じながら、勇輝は左手を胸の前に掲げた。
「五人は俺が」
「わかった。けど、もしかしたら僕が全員やるかもしれない。それだけ、僕も頭にきてるんだ」
片や手元に聖剣を召喚し、片や腰のホルスターから銃を取り出すと、二人は互いの得物の柄を打ち合せて、左右へとわかれるように駆け出した。
そうして、勇輝の剣士としての初陣は思わぬ形で幕を開けた。




