第三章《薫り立つ暗雲》 6
勇輝が去ってから一時間ほどが経った頃、マティアスは山の中に仕掛けていた罠を確認していた。
「この程度かな。これ以上数を変えても意味はないだろうし、この辺りなら普通の人が踏み入ることもないだろうな」
誰に言うでもなく一人呟くと、マティアスは確認のついでに回収した罠を採集用の籠へと放り込んだ。
――それにしても、野盗か……。
一六年の生涯で初めての親友からの忠告が今日でよかった、とマティアスは心の底から思う。
実際のところ、勇輝の言葉がなくとも明日には町へと下りる予定だったのだが、今回のように野盗の活動を警戒するというのであれば話は別だった。
この山はサーベラスという町にとって、防衛の上での致命的な死角となっている。山へ侵入する前に視界を遮る森があり、山越えが難しい地形であることも手伝って門すら設けられていないので、山からの襲撃には意識が割かれていないからだ。
「杞憂かも知れないけど、以前とは状況が違う……」
以前も、野盗が出没したと騒ぎになったことがあったが、その時とは規模が違う。今回のように計画的な行動を執っていると臭わせている上、件の野党はそれなりの統制が執れた集団であると考えて良い。或いはその人数も相応の規模であるかもしれない。
そうである以上、敵が人数を分けて行動する可能性は考慮して然るべきだ。
先も挙げた通り、この裏山は襲撃を受けるには決定的な弱点として強調されているのだから。
近い内に対抗策が組まれるとは思うが、その際の手間を省けるに越したことはない。殺傷目的ではないとはいえ、罠を残しておくことで対策の実施までの時間的な猶予ができることは精神的に大きな援助となるはずだ。
「慧眼ね。危機に対する備えを怠らない所から見ても、要注意人物であることが窺えるわ」
「――っ! 誰!?」
突然頭上から降ってきた声と共に殺気を感じ、マティアスは一瞬で見抜いた声の主へと威嚇の矢を放った。
乾いた金属音が鳴り、矢が地面に落ちる音が耳をくすぐる。直後にマティアスの前方に一人の女性が飛び降りてきた。
「いきなりご挨拶ね。いくら相手が殺気を放っていたからって、女性相手にこの仕打ちはないんじゃない?」
「無害な人間は不躾に殺気を浴びせてきたりはしないよ。あなたは一体誰?」
マティアスの問いかけに、女性はショートカットの赤い髪を払う仕草の後に口元を緩めた。
「素性を訊かれたからと言って正直に話すとは限らないわよ? まぁ、隠すことでもないから教えてあげるけれど……漆黒の魔女と言えば、この町の人間ならわかるかしら?」
女性の言葉にマティアスは体中が強張るのを自覚した。
漆黒の魔女。それは、ここ数か月の間サーベラスに立ち寄る隊商や巡礼者を無差別に襲っている野盗の俗称だ。
王都の武闘大会で優勝した経験のある傭兵が満身創痍になって逃げ出すほどの化け物。マティアスは町の人間からそのように聞いていた。
それが、眼前の女性だというのか。
「……その魔女が、一体僕に何の用かな?」
魔女は腰から奇怪な装飾の施された短剣を抜くと、指先で弄ぶようにナイフを捌きながら、「簡単なことよ」と嗤った。
「サーベラスを襲撃する上で、目立った戦力はできるだけ潰しておきたい。ただ、事前に始末するには自警団の団長は厄介すぎるし、噂の勇者は実力が未知数。その上、他の面子にしても近所付き合いの多い町中では噂が広がる可能性が高くて手を出しにくい――だから」
ひたり、とそれまでの運動を無視するように停止した短剣をこちらに向け、魔女はそれまで以上に妖艶に微笑んだ。
「町でも指折るほどに手強くて、人目に付かない場所で暮らしている狩人さん(キミ)を狩ってしまおうという訳」
魔女が言い切ると同時、耳に届いた微かな旋律に、マティアスは魔女を見据えたまま右後方へと跳躍した。
刹那、先程までマティアスが存在していた空間を貫くような銀光が閃く。
「銀色属性系統の奏術……それも無詠節で第二響階、か」
光の正体を一瞬で看破し、マティアスは一人呟いた。
一口に奏術といっても様々な種類が存在する。
基本的に五色の属性に大別され、その力の強弱によって響階が設定される。今の奏術を例に挙げるなら、攻撃の意思を具現化する銀色に属し、属性内でも下から二番目の難度を示す第二響階の奏術という具合だ。
――奏術師か、手強いな。
マティアスの知る限り、第二響階の奏術を詠節することなく扱うことができるのは特別な才能を持ち、高度な教育を受けた奏術師と呼ばれる者だけである。一部には例外も存在するが、それは聖剣のように強力なアーティファクトを持つ資格があるものだけに限られる。
「まさか、奏術師が野盗をしているなんてね。それも、凶暴な銀色系統の使い手」
「アタリ。一目で見抜いた辺り、キミの使える奏術も銀系統かしら? それとも、博識なだけかしらね? どちらにしても、時間は取らせないから観念なさいな」
こちらの内心に浮かぶ焦りを感じ取っているのか、魔女は笑みを一層深めて短剣を縦横無尽に振り回す。それだけで、短剣の軌跡から奏術が連続して放たれた。
「くっ! 面倒だな!」
その全てを必要最低限の動きで躱しながら、距離を取って弓を射る。しかし、その悉くが魔女の銀光によって迎撃される。空中に放つ曲射を絡めた工夫をしたところで結果は同じだった。
「……フフ、愉しませてくれるのね。いいわ、狩人を獲物にしているなんて滑稽で素敵じゃない! 君の体力が尽きるまで、思うままに遊びましょう!」
「こっちは遊んでいる余裕なんてないんだけどね!」
頭のねじが外れたように叫ぶ魔女に矢を射りつつ、マティアスは木の陰から陰へ移動してこの状況を打開する方法を考える。
――奏術の詠奏には精神的な負荷がある。けど、あれだけ乱発して消耗した気配がない。なんだろう、何かが引っかかる。この直感が正しいなら……。
脳裏を光速で駆け抜ける思考が、明確な形に固まっていく。そして、矢筒の残数が元の半数となったところで対抗の策は決定した。
「……よし、これでいこう」
自らに言い聞かせるためだけに言葉を口にして、マティアスは残る矢を全て番えた。深く息を吐く。
すぐ近くから魔女の息遣いが聞こえている。その音から、彼我の距離を大まかに測定する。
魔女との距離は問題ない。先程までの撹乱も功を奏して魔女はマティアスを見失っている。故に、必要な時間も稼ぐことができる。
流れはこちらに向いている。そう自分に言い聞かせる。
「――命は恵む力を従えて、その思いのままに豊穣を享受し続ける……」
呼吸を制して紡ぐのは詠節。本来、奏術を行使するために必要な響素に捧げる祝詞だ。
「――高らかに唄え」
その言葉を鍵とするように、周囲を金色の光が包み込んだ。マティアスも、魔女も、二人がいるその空間そのものを包むような淡い光。
「これは、金色系統の奏術? けど、それじゃ自分の居場所を教えているようなものよ」
魔女の顔に笑みが浮かぶ。金色系統の奏術は癒しの力を持つが、使用している間は他系統のどの奏術よりも目立つ。体力を回復させるための方法だとしてもこれは悪手だと言わざるを得ない。――これが本当に回復の為の行動ならば。
「囮っ!? 本命は上ね!」
微かな月明かりに移された雨のような矢の影に気付いた魔女は咄嗟に奏術を上空へと放った。――マティアスの狙い通りに。
「それも、囮だよ!」
木陰から身を躍らせて魔女へと斬りかかるマティアスの手には、先刻まで勇輝との稽古で使用していた両刃の剣があった。
「なっ!? くうっ!」
甲高い金属音。音の残滓が消えた後には魔女と鍔迫りをするマティアスの姿があった。
魔女は奏術を使ってこない。
「やっぱり、あなたは奏術師という訳じゃない……無詠節の第二響階は、その短剣が補助していたんだ。その短剣は先端からしか放てない銃のようなアーティファクト!」
恐らくは刃の表面を覆う装飾に意味があるアーティファクト。魔女を自称する彼女にとっては魔法の杖といったところか。
「あっさり見破られちゃったわね。けど、ここまで距離を詰めれば何もできないというのは勘違い。……これなら本来の目的よりもいい結果が得られるわ」
愉快そうに口の端を歪めながら放たれた言葉と共に、魔女の目が怪しく発行する。
「っ!?」
不吉な予感がした時には既に遅く、マティアスの意識は不可視の手によって押し潰されたように朦朧としていく。
――これは、何だ? 不快な感覚が、段々薄れていく……。
辛うじて動く唇を噛み締めて意識を繋ぐが、抵抗する心は次第に弱くなり、思考は泥酔したように鈍重になっていく。
「まさか、魔眼? く……僕、は、まだ……」
振り絞るようにして出した言葉は力を持たず、マティアスの意識は暗闇の中に溶けていった。
「――ここまで抵抗力が落ちればいいかしら……狩人さん。あなたにはやるべきことがあるわ……」
暗闇の中から声が聞こえる。しかし今のマティアスは声の主が誰なのか、判別することもできなかった。
「僕の、やるべきこと……」
意識に反して口が動く。いや、既に意識すらもないだろうか。
「そう。あなたは――」
――ごめん、勇輝。後は、お願い……。
暗闇の声が聞こえる度に深くなる思考の闇の中に、マティアスの声が儚く呑まれていった。




