第三章《薫り立つ暗雲》 4
「あれ? あんたは……えーと、勇輝だっけ?」
その声に振り返ったのは、地獄のような訓練メニューを全て消化し、夕方からの特訓に備えて露天通り沿いの広場で身体を休めていた時だった。
「ミーシャさん。こんにちは」
「こんにちは。自警団の仕事は終わったのかい?」
「ええ、ここで疲れを癒してるところですよ」
「そう、ご苦労様」
クラフト色の紙袋を抱えた青年はそこから赤く熟した林檎を取り出すと、勇輝に放った。
「それはお近づきの印ってことで」
「どうも」
一口齧ると、口の中に蜜の甘みが広がる。ファーレシアの林檎は地球のそれとなんら変わらないもののようだ。
「美味しい……それになんか懐かしいな」
「勇輝の故郷も林檎が採れるの?」
「ええ、と……実家がある地域では採れないんですけど、流通が発展してるから遠くで収穫されたものでも一日あれば手に入ったんです。母が林檎好きだったんで、子供の頃からよく食べてました」
「へえ、一日で?」
勇輝の言葉にミーシャは目を丸くした。ファーレシアの文明水準は地球のそれにまで発展している訳ではないので、驚くのも無理からぬことかもしれない。
「それでも結構前から地元で採れたものを消費するっていう意識が高くなってきて、遠方からの食材には手を出さなくなってきてるらしいですけど」
「勿体ないなあ……そんな便利なものがあるなら使えばいいじゃないか」
「その利便性にもコストがかかりますからね。地元のものを消費した方が安くあがるっていうのも一つの理由ですよ」
便利だから使うべきという考えは半永久的な資源である響素を持つファーレシアだからこそ言えるものだろう。響力機関はその製造以外にかかる金銭負担がほとんどないと聞く。
自分の持つ電気やガスの利用方法などの知識を伝えればファーレシアの技術や経済は加速度的に発展するだろうが、それはきっとファーレシアの人々からそうしたおおらかな気質を奪いかねないことなのだろうと勇輝は思った。
「生活の知恵っていうことかな……けど、それなら今までより不便になって故郷が懐かしいって思わないのかい?」
「懐かしい、か……」
言われて思い返せば、自分の中に今の生活への不満や元の生活へ戻りたいという気持ちを抱いていないことに気付く。
「確かに元の世界にはパソコンや携帯というものがあって、欲しい情報や物は簡単に手に入れることができました」
日本の文明社会の中で暮らす上で最早無くてはならないものである電子機器はファーレシアには存在しない。普通ならば文明レベルが一瞬で極端に落ちれば、まともな生活だって送れる自信は持てないかもしれない。
「けど、俺は元々自分の生き方も生きていた場所も好きじゃなかったからかな……不思議と懐かしいとは感じません。まあ、両親には何も言わないで家出したみたいになってるから、それだけが気がかりですけど、こればかりはどうしようもないですし」
可能なら両親に自分の健康を知らせるくらいはしたいと思う。しかし、その手段も見つからない以上、勇輝にできることは前向きに日々を過ごすことだけだと思った。
「まあ、自警団の訓練が大変で故郷のことを懐かしんでいる暇なんてないっていうのもありますけど」
「はは。仕事を始めたばかりの頃って疲れるよね……僕も初めはきつかったよ」
場が深刻な空気にならないように明るい声で言うと、ミーシャもまたそれに呼応するように笑った。
「サーベラスに来ておやっさんに雇ってもらってから三ヶ月はもう怒鳴られっぱなしでさ、何度辞めようと思ったことか……それでもまあ、おやっさんには恩もあるし、全部返すまでは辞めらんないなって思い留まったんだけどね」
「恩?」
オウム返しに聞くと、ミーシャは静かに頷いた。
「僕の故郷はロステルのシェルーメルっていう村なんだけど、林檎と辛い料理が有名な村でね、馬を走らせて二日のところにあるガルファスっていう町から商人が買い付けに来るくらいだったんだ」
言ってミーシャは紙袋から林檎を取りだし、服で拭って一口齧る。
「それでも、お金がうまく回らない時期っていうのはあってさ、林檎が豊作だっていうのにまったく売れない時期があったんだよね」
ミーシャの言葉で日本でも一時的にとはいえいくつかの食品が経済事情によって売れにくくなったことがあったことを勇輝は思い出した。
「それで、村の大祭りを控えて物入りになったのにお金がない。誰かが林檎を売ってお金にしなくちゃいけないっていう時に僕が売り手に選ばれてさ、もう大変だったよ。何件店を回っても話すら聞いてもらえなくて」
当時のことを思い出したのか、ミーシャの眼は勇輝ではなくどこか遠くのものを捉えている。
「三日三晩探し続けて売れたリンゴは100程度。残る林檎は5000近く。そんな体たらくじゃ村にも帰れなくて、路地裏で夜を明かそうとしてた時に野盗に遭ったんだ」
ミーシャによれば当時は不況が祟り、一般市民の中からも夜盗や追いはぎ紛いの行為をする人間が増えていたのだという。
「そんな時、偶然通りがかったおやっさんが僕のことを命がけで護ってくれてさ……二年前に亡くなったおやっさんの奥さんが町の自警団を連れて来てくれてその場は乗り切ることができたんだ。その後も、事情を知ったおやっさんは自分が林檎を3000買って、残りの2000個を伝手を使って捌いてくれて……予想してた金額の二倍のお金になったんだ」
「……凄いな、マルクさん」
酒場の店主というだけではない、彼の人徳には不況すら押し退ける力があったということだ。
「その時に仲介してくれた分のお金も受け取ってくれなくて、申し訳ないと思っててさ……それで、その後もいろいろあって行商団の一員になった僕がサーベラスに着いた時におやっさんと再会して、あの時のお礼をしようと思ったんだ」
林檎を芯まで食べ切り、ミーシャは照れ臭そうに頬を掻いた。
「その時に、礼なんていらないって言われて、それならここで働かせてくださいって衝動的に言っちゃってから、行商団を抜けて今に至るってわけさ」
「そうだったんですか」
「後から聞いた話じゃ、幼いうちに病気で亡くなった息子さんと僕が似てたからなんて理由があったらしいけど、それでも本当の息子みたいに接してくれるおやっさんだから、恩返ししたいっていう気持ちが萎えないんだろうと思うんだ……って、長話になっちゃったな。ごめん、そろそろ行かないとまたおやっさんにどやされる」
そう言って、慌てて立ち上がり服を払うと、ミーシャは片手を挙げて振り返った。
「それじゃ、これからも仕事頑張って。ついでに『宵月の美酒』をご贔屓によろしく!」
「はい。そちらも頑張って下さい」
「うん!」
軽快に走り去るミーシャの後姿を、これまでとは少し違う気持ちで見ながら勇輝は林檎に口をつけた。




