来ていない人間の悪口
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「人を裁くな。あなたがたも裁かれないためである」マタイによる福音書、七章一節。
要するに、他人を勝手に評価するなということだろう。
自分が相手を無能だと思うように、相手も自分を性格の悪い人間だと思っているかもしれない。
人を測るために持ち出した物差しは、いずれ自分にも当てられる。
だから最初から、物差しを持つな。
たぶん、そういう意味だ。
正しいと思う。
俺も、人間を上か下かで判断するような人間は嫌いだった。
その言葉を読んだ三十分後、俺は居酒屋の座敷で、歴史研究会の人間を上から順番に並べていた。
一位は神谷陸。
次期代表。元サッカー部。友人が多い。顔も悪くない。
卒業後も大学時代の友人と定期的に集まり、結婚式には大勢を呼び、亡くなったときには「本当にいいやつだった」と言ってもらえる種類の人間だ。
二位は藤崎美優。
二年生。研究会の広報担当。
歴史の知識は浅いが、写真を撮るときの顔を三種類ほど使い分けられる。神谷ほどではないが、人から必要とされる場所を見つけるのがうまい。
三位以下は、その日の参加者と座席によって変わる。
俺はおそらく四位か五位だった。
誰とでも話せる。
呼ばれれば大抵参加する。
しかし、俺がいなければ成立しない関係は一つもない。
世の中には、宴会へ遅れて到着すると歓声が上がる人間と、誰にも気づかれず上着を脱ぐ人間がいる。
俺は、気づいた何人かが「あ、来たんだ」と言ってくれるくらいの人間だった。
最下位は、この場にいない黒川だ。
来ていないのだから、順位へ入れるべきではない。
しかし集団では、欠席も一つの評価になる。
来なかった人間は、その場の人間関係が更新されるたび、少しずつ順位を下げていく。
俺はそれを知っているから、ここにいた。
◇
「直人、副代表就任おめでとう!」
神谷が生ビールのジョッキを持ち上げた。
個室に乾杯の声が響く。
十人分のグラスが中央へ集まり、俺も笑顔でジョッキを差し出した。
全員参加ではなかった。
神谷はグループへ「来られる人は来て」と送っていた。
研究会の部員は三十人ほどいるが、今夜集まったのは十人だけだ。
強制されていない。
だから俺も、自分の意思でここにいることになる。
「就任ってほどじゃないだろ」
俺は言った。
「こういうのは形が大事だから」
神谷は笑った。
今日の店を探したのも神谷だった。
人数を確認し、予約し、乾杯の音頭まで取っている。
料理が届けば入口側から奥へ回す。店員が空いた皿を探していれば、自分の近くの皿をまとめる。
よく気がつく。
声が大きいだけの人間なら簡単に嫌えた。
「三浦さん、本当にやりたくなかったら、断ってくださいね」
藤崎が言った。
薄いベージュのニットを着ている。肩までの茶色い髪は、毛先だけが内側へ巻かれていた。
大学へ来るだけなのに毎朝それを整えているのだろう。
俺には一生理解できない努力だった。
「もう引き受けた後に言う?」
俺が笑うと、藤崎も笑った。
「だって、断りそうになかったから」
「なら先に言ってよ」
「断りたかったんですか?」
一秒だけ迷った。
「冗談。やるからには頑張るよ」
そう答えると、藤崎は安心したように笑った。
俺はいつも、この瞬間を見逃さない。
相手が求めている言葉を返し、その顔から不安が消える瞬間。
小さな達成感がある。
自動販売機へ硬貨を入れ、狙った飲み物が落ちてくるのに似た快感だ。
そのたびに、自分が少し空っぽになる。
しかし、空っぽになることと引き換えに、相手から好かれる。
悪い取引ではない。
少なくとも、その場では。
「副代表として最初にやりたいこととかある?」
神谷が聞いた。
何もない。
それが本音だった。
歴史研究会へ入ったこと自体、大学で孤立しないためだった。副代表として実現したい理想などあるはずがない。
しかし「特にない」と答えれば、やる気がないと思われる。
俺は少し考えるふりをした。
「まあ、今までどおりでいいんじゃない? 来たい人が普通に来られる感じで」
何も決めていない言葉だった。
現状を否定しない。
新しい仕事も増やさない。
それでも、少し配慮のある人物に聞こえる。
「直人らしいな」
神谷が言った。
何が俺らしいのかは分からない。
「一年生も、もう少し来てくれたらいいけどな」
神谷は続けた。
藤崎が頷く。
「白石君とか、活動では一人でいること多いですよね」
白石蒼。
今年入った一年生だ。
小柄で、いつも少し大きめの灰色のパーカーを着ている。前髪が長く、相手と目が合いそうになると、視線を机へ落とす癖があった。
活動には何度か来ている。
話しかければ普通に答える。
ときどき妙な冗談も言う。
ただ、声が小さいため、近くにいる人間にしか聞こえない。
今日の飲み会にも誘われていたが、来ていない。
「三浦、前に白石と話してたよな?」
神谷が尋ねた。
「何回かね」
活動の前後に、短く言葉を交わしただけだ。
それでも神谷から見れば、俺は白石と話せる人間らしい。
「どんな感じ?」
どんな感じ。
人は仲よくない相手のことを説明するとき、簡単にその人間の人生を要約する。
おとなしい子。
変わっている子。
コミュニケーションが苦手な子。
輪へ入れない子。
それらしい言葉を一つ貼れば、相手を理解した気になれる。
「普通だよ。話しかければ結構しゃべる」
俺は答えた。
白石を「輪へ入れない人間」として説明しなかった自分を、少し善良だと思った。
「じゃあ、直人がもう少し話してやってよ」
「副代表の仕事?」
「適任じゃん。直人、誰とでも話せるし」
また褒められた。
褒め言葉は、仕事を押しつけるときの手数料として使われる。
君は優しいから。
あなたは責任感があるから。
お前は誰とでも話せるから。
そう言われた人間は、頼みを断るために、自分は優しくなく、無責任で、人付き合いも嫌いだと説明しなければならない。
そんな自白をするくらいなら、引き受けた方が早い。
「まあ、次来たら声かけてみるよ」
俺が答えると、神谷は満足そうに頷いた。
一人でいる人間へ声をかける。
会話に参加できていない人へ話題を振る。
飲み会へ来なかった人を次も誘う。
どれも優しい行為だ。
ただ、一人でいる人間が、本当に輪へ入りたいのかは分からない。
白石は黒川とは違う。
黒川は誘いを断る。
白石は返信を迷った末、既読だけをつけることがある。
一人でいたいのか。
誘いを待っているのか。
行きたいが怖いのか。
本人が言葉にしない以上、俺たちは想像するしかない。
そして人間は、他人について想像するとき、自分が善人になれる筋書きを選ぶ。
白石は本当は仲間に入りたがっている。
ただ、自分から動く勇気がない。
だから俺たちが助けてあげる。
その物語なら、俺たちは救う側に立てる。
「でもさ」
斜め向かいに座っていた柴田圭吾が言った。
柴田は神谷と最も親しい三年生だ。
短く刈った黒髪に太い眉。体格がよく、座敷であぐらをかくと一人分以上の場所を取る。
声は神谷より大きい。
神谷には周囲を見ながら場を回す能力があるが、柴田にはない。
その代わり、自分の発言で空気が止まっても気にしない強さがある。
「あいつも大学生なんだから、入りたいなら自分から来ればよくね?」
藤崎が少し困ったように笑う。
「そういうの苦手な人もいるんですよ」
「分かるけどさ。ずっと受け身のやつって、こっちも疲れない?」
柴田に悪意はない。
たぶん、白石を嫌っているわけでもない。
自分が簡単にできることを、できない人間の気持ちが分からないだけだ。
そして分からないものを、人は怠慢だと判断する。
俺は柴田のような人間が嫌いだった。
会話が得意な人間は、話さない人間を努力不足だと言う。
努力を続けられる人間は、続かない人間を甘えだと言う。
恋人のいる人間は、焦らなくてもそのうちできると言う。
友達の多い人間は、一人でも気にしなくていいと言う。
偶然自分へ配られた能力や環境を、人間としての正しさへ変換する。
最悪だと思う。
「まあ、得意不得意はあるから」
俺は穏やかに言った。
柴田の意見を否定しすぎない。
白石を擁護しているようにも聞こえる。
「本人が困ってるかも分かんないしね」
言葉を足した。
藤崎が頷く。
神谷も、
「それはそうだな」
と答えた。
柴田も反論しなかった。
誰の機嫌も損ねなかった。
うまく言えたと思う。
そしてこの瞬間、俺は柴田より自分の方が、人間として少し上だと思った。
弱い人間の事情を想像できる。
自分の価値観を絶対視しない。
孤独を無条件に悪いことだと決めつけない。
少なくとも、目の前の男よりは。
直後、自分も柴田と同じことをしていると気づいた。
価値観を押しつける人間は悪い。
孤独を理解できる人間は善い。
物差しの種類を変えただけで、やっていることは同じだった。
俺はジョッキに残ったビールを飲んだ。
ぬるくなっていた。
◇
飲み会の後半、来ていない人間の話が増えた。
黒川は相変わらず付き合いが悪い。
四年生の先輩は、卒業研究が忙しいらしい。
二年生の一人は恋人との予定を優先したのではないか。
白石は大人数が苦手なのだろう。
欠席者は、その場にいないので反論できない。
俺たちは、来なかった理由を勝手に作った。
本人たちを責めているつもりはない。
むしろ理解しようとしている。
理解しようとしながら、一度も本人へ聞いていない。
「写真撮ろう」
藤崎が言った。
十人が中央へ寄る。
俺は神谷の隣へ座らされた。
店員へスマートフォンを渡し、全員が同じ方向を向く。
「もう一枚いきます」
店員が言った。
俺は笑った。
写真を撮るとき、口角をどの程度上げれば自然に見えるか知っている。
過去の写真を見て覚えた。
目は少し細める。
上の歯だけを見せる。
顎を引きすぎると顔が大きく見えるので、首をわずかに前へ出す。
努力した。
俺だって、社会へ適応するための努力はしている。
ただ、こういう努力は成功者のインタビューでは語られない。
写真が撮り終わると、藤崎が研究会のSNSへ投稿した。
数分後、俺は自分のスマートフォンでその写真を開いた。
中央には神谷がいる。
その隣で、俺が楽しそうに笑っている。
俺を知らない人が見れば、大学生活を満喫している学生に見えるだろう。
実際、楽しくなかったわけではない。
柴田の発言に腹を立てた。
神谷の善意を鬱陶しく思った。
白石を擁護する自分に酔った。
何度か心から笑った。
料理もおいしかった。
副代表就任を祝われ、少しうれしかった。
全部嘘だと思っていたが、全部本当でもあった。
自分が分からないのは、仮面が多すぎるからではない。
どの仮面にも、少しずつ本物が混じっているからだ。
集合写真には、黒川も白石もいない。
二人が写っていないことで、写真の中の俺の順位が少し上がったように感じた。
その考えを恥じた。
恥じながら、もう一度写真を見た。
一次会が終わり、店の外へ出る。
神谷が二次会の話を始めた。
「直人は当然来るよな。今日の主役だし」
帰りたかった。
酒を少し飲んでいたこともあり、普段より簡単に答えられる気がした。
「ごめん、今日は帰るわ」
言った。
神谷は一瞬だけ目を丸くした。
「マジ? 明日早い?」
明日は午後からしか予定がない。
「ちょっと用事あって」
嘘を足した。
断ることには成功した。
正直になることには失敗した。
「そっか。じゃあまた今度な」
神谷はそれ以上、引き止めなかった。
誰も俺を責めなかった。
柴田は既に別の人間と、二次会の店について話している。
藤崎はスマートフォンで人数を数えていた。
俺が帰ることによって生まれる失望など、どこにも見当たらない。
うれしいはずだった。
俺の選択は尊重された。
実際には、俺が帰るかどうかなど、他人にとってはその程度の出来事だった。
「じゃあ、お疲れ」
俺は笑って手を上げた。
何人かが同じように返す。
駅へ向かう途中、研究会のグループに写真が届いた。
二次会へ向かう神谷たちだった。
全員が笑っている。
俺がいない。
当然だ。
自分で帰ったのだから。
それでも写真を拡大し、俺がいないことを確かめた。
少し寂しかった。
帰ったことを少し後悔した。
それでも駅へ向かった。
今日は、自分で帰ると決めた。
理由は嘘だったが、選んだのは俺だ。
その程度のことを成長と呼ぶなら、人間はずいぶん安く成長できる。
電車へ乗り、空いている席へ座った。
朝に読んだ聖書の言葉を開く。
人を裁くな。あなたがたも裁かれないためである。
俺は今日、多くの人間を裁いた。
神谷の善意を傲慢だと決めつけた。
藤崎の生活を浅いと見なした。
柴田を想像力のない人間だと思った。
白石を、自分より弱い人間として扱った。
黒川を、自分より自由な人間として羨んだ。
全員を裁き、順位をつけ、そのたびに自分がどこにいるかを確認した。
他人を見下したいのではない。
自分より下に誰かがいないと、自分の立っている場所を確認できないだけだ。
それはたぶん、見下すより情けなかった。
俺は画面を閉じた。
三十秒後、もう一度グループを開いた。
二次会の写真を見る。
これで四回目だった。




