俺の人生には伏線がない
これは小説に現実性を求めるバカ野郎の嘆きを綴った物語です。
「この世と妥協してはならない」ローマの信徒への手紙、十二章二節。
俺の人生には、まだ一度も伏線がない。
幼い頃に助けた老人が、実は大企業の会長だったことはない。道端でぶつかった女の子が、翌日、同じ教室へ転校してきたこともない。
交通事故に遭って特殊能力を得たこともなければ、押し入れの奥から異世界へつながる扉が見つかったこともない。
両親は健在だ。
家庭は裕福でも貧しくもない。成績は上の下か、中の上。運動も苦手ではなく、高校まではサッカー部にいた。
ただし、全国大会を目指したわけではない。
友達に誘われ、小学生の頃に始めた。辞める明確な理由が見つからないまま、高校まで続けた。
勝てばうれしかった。負ければ少し悔しかった。
引退の日には、仲間と写真も撮った。
翌週にはゲームをしていた。
いじめられたこともなければ、クラスの中心だったこともない。何人かと付き合ったことはあるが、運命の相手ではなかった。別れた夜は少し落ち込み、二週間ほどすれば別のことで笑っていた。
大きな傷はない。
人へ語れる成功もない。
俺の人生を一文で説明するなら、
特に行きたい場所はなかったが、立ち止まると置いていかれそうだったので、人の流れについてきた。
になる。
ひどく面白くない。
もし俺が小説の主人公なら、読者は三ページくらいで読むのをやめると思う。
ただ、俺自身は読むのをやめられない。
人生には閉じるボタンも、倍速再生もないからだ。
その代わり、俺はスマートフォンを開いた。
午前十時七分。
三限の授業まで二時間近くある。
二時間あれば、何か有意義なことができる。
本を読む。
資格の勉強をする。
運動をする。
将来について考える。
成功者が「大学生のうちにやっておくべきこと」として挙げそうな活動なら、すぐにいくつも思いつく。
俺はショート動画を開いた。
『二十代で行動できない人は、三十代でも行動できません』
知らない男が、上下に揺れる字幕と一緒に断言していた。
プロフィールには、二社経営、最高月収七桁、人生を変える習慣を発信中、と書かれている。
七桁が百万円なのか、九百九十九万円なのかは書いていない。
会社名もない。
何を売っているのかも分からない。
それでも、自信だけは十分に伝わってきた。
成功者は不思議だ。
自分が成功した理由は細かく説明するのに、自分が何に成功したのかは曖昧にする。
動画を閉じる。
次に表示されたのは、人気俳優のインタビューだった。
整った顔をした男が、下積み時代について語っている。
毎朝五時に起きて発声練習をしたこと。小さな役も断らなかったこと。夢を諦めなければ、いつか誰かが見てくれるということ。
いい話だった。
顔もよかった。
たまたまその顔で生まれ、たまたま演技に適性があり、たまたま努力を継続できる性格を持ち、たまたま業界の誰かに発見された。
無数の偶然を、成功した後から「諦めなかった」という一本の線で結んでいる。
もちろん、努力したのは事実だろう。
俺より努力していることも間違いない。
だからこそ腹が立った。
努力した人間の大半は見つけられない。見つけられた人間だけが、「努力は報われる」と語る。
沈んだ船の乗客には話を聞かず、生還者だけを集めて正しい泳ぎ方を教わっているようなものだ。
俺は動画を最後まで見た。
コメント欄も見た。
「努力できる人はかっこいい」というコメントに、二万件以上の反応がついていた。
鼻で笑った。
そのあと念のため、俳優の名前を検索した。
出演作品。出身高校。家族構成。恋人の噂。推定年収。
気づけば、午前十時三十八分になっていた。
三十一分消えていた。
俺が何者にもなれない理由は、その三十一分の中へ全部入っている気がした。
ただし、動画を見なかった三十一分で、何者かになれた保証もない。
そう考えて、もう一本だけ見ることにした。
通知が来た。
歴史研究会のグループだった。
俺は大学の歴史研究会に所属している。
歴史は、別に好きではない。
一年生の春、新入生を勧誘していた先輩から、
「歴史、好き?」
と聞かれた。
「普通です」と答えたら、つまらない人間だと思われる気がした。
だから、
「好きです。戦国時代とか」
と答えた。
小学生の頃に、武将が出てくるゲームをしていた。完全な嘘ではない。
人間がつく嘘の大半は、存在しない話を作ることではない。
事実の中から、相手に受け入れられそうな部分だけを選び、それ以外を黙ることだ。
俺は今でも同じ方法を使っている。
あれから二年半。
俺は歴史が好きな三浦直人として、この大学で生きている。
嘘は長く続けると、経歴になる。
グループを開く。
『来年度、俺が代表やるとして、副代表は直人でよくない?』
送り主は神谷陸だった。
同じ三年生で、次期代表になることがほぼ決まっている。
神谷は高校時代、サッカー部だった。
同じ元サッカー部でも、俺とは種類が違う。
明るめに染めた短い髪。日に焼けた肌。白いシャツの袖は、季節に関係なく肘までまくられている。
どこへ行っても三日以内にあだ名をつけられ、一週間後には飲み会を企画しているような男だった。
神谷が歴史研究会へ入った理由は、歴史が好きだったからではない。
以前、本人が笑いながら話していた。
「運動部は高校でやり切ったから、大学では違うタイプの人とも関わりたかったんだよね」
違うタイプ。
その言葉を聞いたとき、俺たちは神谷にとって、異文化交流の対象なのだと知った。
それでも、神谷を嫌っている人間は少ない。
声をかけられて迷惑に思う一人より、声をかけられて救われる十人の方が多いからだ。
神谷は悪人ではない。
かなりいいやつだ。
だから俺は、あいつが嫌いだった。
神谷のメッセージには、既読が十三個ついている。
続いて、二年生の藤崎美優から返信が来た。
『いいと思います! 三浦さん話しやすいし!』
藤崎は研究会の広報を担当している。
歴史の知識はほとんどない。しかし、彼女が作った十五秒の紹介動画は、去年の投稿すべてを合わせたより多く再生された。
歴史を知らない人間が、歴史を好きな人間より研究会の役に立っている。
世の中は、そういう嫌な正しさに満ちている。
『賛成』
『直人なら安心』
『いつも来てるしね』
賛同が続いた。
どうやら俺は、話しやすく、安心できて、活動熱心な人間らしい。
どれも完全な間違いではない。
俺は相手が望む話題を選べる。
揉め事が起きれば、双方の意見を適度に肯定する。
活動にもほとんど毎回参加している。
ただ、その理由が少し違う。
話しやすいのは、相手に嫌われるほど強い意見を見せないからだ。
安心できるのは、責任を負いそうな発言を避けているからだ。
毎回参加するのは、休んだ日に自分抜きの人間関係が作られるのが怖いからだ。
俺は断ろうと思った。
副代表になりたいと思ったことはない。
そもそも歴史が好きではない。
しかし、既に十三人が俺を適任だと思っている。
断れば、十三人分の小さな失望が生まれる。
一人ひとりは「あ、やらないんだ」と思う程度だろう。
俺の頭は、それらを自動的に合計する。
話しやすいと思われていた自分。
安心できると思われていた自分。
いつも参加すると思われていた自分。
それらすべてに訂正を入れなければならない。
俺はそこまで話しやすい人間ではありません。
安心できる人間でもありません。
歴史が好きで参加しているわけでもありません。
誘われなくなるのが怖いから来ていただけです。
そう説明できれば、断れる。
ただ、そんな説明をするくらいなら、副代表をやった方が楽だった。
『俺でよければ!』
送信した。
一秒もしないうちに、神谷から親指を立てたスタンプが届いた。
『助かる! 直人ならみんな納得でしょ』
胸の奥へ、ぬるい泥を流し込まれたような感覚が残った。
神谷は何も悪くない。
俺を脅していない。
騙してもいない。
俺を評価し、仲間として役割を任せただけだ。
善意だった。
悪意なら嫌える。
善意に反発すれば、こちらが悪人になる。
◇
昼休みになり、食堂へ向かった。
一人で食事をすること自体は嫌いではない。
むしろ楽だ。
相手の食べる速度に合わせなくていい。口に物が入っているときに話しかけられることもない。
ただし、一人で食べているところを知り合いに見られるのは嫌だった。
俺は一人が好きなのであって、友達がいない人間だと思われたいわけではない。
その違いは俺の中では明確だが、外から見ると同じだった。
食堂の隅に、黒川怜司を見つけた。
同じ歴史研究会の三年生だ。
黒川は一人でうどんを食べながら、本を読んでいた。
少し長く伸びた黒髪。細い銀縁眼鏡。紺色のシャツに、色の落ちた黒いズボン。椅子の横には、一年の頃から使っている紺色の鞄が置かれている。
おしゃれに無関心というより、他人からどう見られるかという競技へ、最初から参加していないような格好だった。
黒川は研究会で浮いている。
飲み会には来ない。
合宿の夜も早く寝る。
興味のない話には笑わない。
サークル内の恋愛や人間関係にも、驚くほど関心がない。
その代わり、本当に歴史が好きだった。
一人で資料館へ行き、誰に頼まれたわけでもないのに古い論文を読み、発表では全員が途中から理解できなくなるほど細かい話をする。
普通なら、少し不幸でなければならない。
集団に馴染めないのだから、寂しいはずだ。
友人の多い人間を羨み、一人でいる自分を正当化するために、孤独を好むふりをしているはずだ。
そうでなければ困る。
黒川が不幸なら、俺が人に合わせてきたことには意味が生まれる。
行きたくない飲み会に行き、興味のない会話に笑い、誰からも嫌われない人格を作ってきた努力が報われる。
ところが黒川は、腹の立つことに、少しだけ幸せそうだった。
本を読みながら、ときどき口元が緩んでいる。
誰かに見せるためではない笑い方だった。
俺は黒川の向かいへ座った。
「副代表になった」
黒川は本から目を上げた。
「見た」
「おめでとうとかないの?」
「なりたかったの?」
「別に」
「じゃあ、おめでたくないだろ」
そう言って、また本へ視線を戻した。
こいつは悪意なく人を不快にする。
神谷とは逆だった。
神谷は善意で人を動かす。
黒川は無関心で人を置き去りにする。
俺はどちらも嫌いだった。
「黒川がやってもよかったんじゃない?」
「嫌だよ」
「即答だな」
「やりたくないから」
「それだけ?」
黒川が顔を上げる。
「やりたくない以外に、断る理由って必要か?」
必要に決まっている。
人は集団の中で生きている。
自分が断った役割を、誰かが引き受ける。自分が来ない飲み会を、誰かが企画する。自分が帰った後の机を、誰かが片づける。
黒川の自由は、誰かの不自由の上にできている。
そう言おうとした。
だが、黒川が断った仕事を、俺が代わりに引き受けたことはない。
俺が引き受けてきたのは、頼まれたときに断れなかった自分の分だけだ。
「すごいよな」
俺は笑って言った。
「そうやってすぐ決められるの」
皮肉は、褒め言葉の形へ変換した。
黒川は俺の意図を気にした様子もなく、
「嫌なだけだから」
と答えた。
スマートフォンが震えた。
神谷からだった。
『副代表就任祝いで今日飲もうぜ!』
すぐに喜ぶスタンプが並んだ。
続いて、
『来られる人は来て!』
という一文が送られる。
強制ではない。
俺は参加したくなかった。
帰って、買ったまま起動していないゲームをしたかった。
おそらく十分で飽きる。その後は攻略動画を見ながら別のアプリを開き、SNSで成功者を馬鹿にしながら、成功者の生活を一時間ほど眺める。
何の価値もない夜だ。
それでも、俺の夜だった。
返信欄を開く。
今日は予定がある。
体調がよくない。
急用ができた。
嘘ならすぐ思いつく。
本当の理由は一文で済む。
行きたくない。
ただ、それだけだった。
『もちろん行く!』
送信した。
黒川は俺の画面を見ていなかった。
「今日、黒川は?」
「行かない」
「そっか」
俺は笑った。
たまには来ればいいのに。
その言葉が喉まで上がったが、飲み込んだ。
黒川に言っても仕方がない。
それに、俺が最も嫌っている種類の言葉だった。
せっかく大学へ来たのだから。
せっかくサークルへ入ったのだから。
せっかく若いのだから。
誰かが機会を捨てると、人はなぜか腹を立てる。
自分が苦労して活用しているものを、他人が簡単に手放すのが許せないのかもしれない。
「三浦は行くんだ」
黒川が言った。
「副代表になったしね」
「副代表になる前から行ってたじゃん」
「まあ、嫌いじゃないから」
嘘ではない。
楽しい瞬間もある。
料理も酒も嫌いではない。
何度か本当に笑うだろう。
行きたくないことと、行けば多少楽しいことは両立する。
人間が一つの感情だけを持つと思う方が間違っている。
「じゃあ、行きたいんだろ」
黒川は本へ視線を戻した。
何か違うと思った。
行きたくはない。
ただ、行かなかった結果に耐えられない。
俺がいないところで新しい冗談が生まれるかもしれない。人間関係が完成するかもしれない。次から誘われなくなるかもしれない。
それは、行きたいということなのだろうか。
黒川へ説明しようとして、やめた。
説明したところで、何も変わらない。
「そうかもね」
俺は答えた。
今朝保存した聖書の言葉を開く。
この世と妥協してはならない。
正しいと思う。
今も正しいと思う。
正しい言葉は便利だ。
実行しなくても、読んだ瞬間だけは正しい側に立てる。
俺は画面を閉じた。
その日、歴史が好きでもない俺は、歴史研究会の副代表になった。
誰にも強制されず、自分の意思でもなく。
空気によって決められ、最後には自分で賛成した。
俺の「はい」は、今日も俺のものではなかった。
ただ、送信ボタンを押した指だけは、間違いなく俺のものだった。
お察しのとおり主人公えげつないくらい捻くれてます、




