親切な人間になりたかった
「右の手のしていることを、左の手に知らせるな」マタイによる福音書、六章三節。
善いことをしても、それを自慢するなという意味らしい。
誰かを助けたことを周囲へ話した瞬間、親切は他人を救う行為ではなく、自分の価値を宣伝する道具になる。
だから、本当に善い人間は黙っている。
分かりやすい。
俺には無理だと思った。
誰かへ親切にした日は、最低でも三人には知ってほしい。
大々的に褒められたいわけではない。
露骨に自慢するのも品がない。
ただ、何かの拍子に偶然知られてほしい。
俺が黙っているうちに、助けられた本人が、
「実は三浦さんがやってくれたんです」
と皆の前で明かす。
周囲は驚く。
俺は困ったように笑い、
「大したことじゃないから」
と答える。
この一連の流れまで含めて、俺の親切だった。
右手のしたことを左手には知らせない。
しかし、できれば周囲の人間には知らせたい。
その日、俺の右手には、白石蒼へ送るメッセージが握られていた。
『次の活動、来られそう?』
文章だけを見れば、ごく自然な連絡だった。
副代表が、最近あまり活動に来ていない一年生へ、次回の予定を確認している。
親切で、責任感があり、後輩を気にかけている人間に見える。
実際、俺は親切なつもりだった。
白石が研究会で一人になることが多いのは事実だ。
先日の飲み会にも来なかった。
本人がもっと交流したいのであれば、こちらから声をかけた方がいい。
神谷からも「次に来たら話してやって」と頼まれている。
副代表としての役割でもある。
送る理由は十分にあった。
問題は、文章を書いてから二十分以上、送信できずにいることだった。
短すぎれば、単なる出欠確認に見える。
長すぎれば、気を遣わせる。
『最近来てないけど大丈夫?』
これでは、来ていないことを責めているように見える。
『この前あまり話せなかったから、次来るならまた話そう』
少し気持ち悪い。
俺が一年生の頃、三年生の男から同じ文章が来たら、何かの勧誘を疑う。
『無理しなくていいけど、次の活動どうする?』
自由を認めているように見える。
しかし、その言葉の裏には、
無理をするほどではないけれど、少しくらいなら頑張って来てほしい。
という期待が透けている。
文章を消しては書き直す。
『次の活動、都合どう?』
事務的すぎる。
『次の活動来る?』
これでいい。
疑問符だけでは冷たい気もする。
末尾に「笑」をつけようとして、やめた。
一つも面白くない文章に笑いをつける文化を、俺はあまり好きではなかった。
好きではないが、普段は使う。
相手を不安にさせないためだ。
正確には、相手を不安にさせる人間だと思われないためだった。
結局、最初の文章へ戻った。
『次の活動、来られそう?』
送信した。
既読は、すぐについた。
返事は来なかった。
スマートフォンを伏せる。
一分後、表へ戻す。
通知はない。
もう一度伏せる。
三十秒ほど待ち、また見る。
善行とは、これほど反応を待つものだっただろうか。
白石が来るかどうかを気にしているのか。
自分の親切が正しく受け取られたかを気にしているのか。
たぶん、後者だった。
俺は白石を救いたいわけではないのかもしれない。
白石に「話しかけてくれた先輩」として記憶されたい。
神谷や藤崎から、
三浦が声をかけてくれたおかげで、白石が来るようになった。
と思われたい。
親切は、自分が善人であることを味わうための、手軽な娯楽だった。
十分ほどして、返信が来た。
『行きます』
それだけだった。
感謝も、絵文字も、行けなくて申し訳ないという謝罪もない。
俺は少しだけ腹を立てた。
来るなら、それでいいはずだ。
目的は達成された。
それなのに、何かが不足している。
『了解! 待ってる!』
俺は返した。
待っているかどうかは分からない。
ただ、「了解」だけでは、親切な先輩として完成しない気がした。
◇
次の活動日、白石は開始時刻の五分前に来た。
歴史研究会が使っているのは、講義棟四階の小教室だった。
長机を四角形に並べ、中央に空間を作っている。
正式な決まりではないが、入口から最も遠い席に代表の神谷が座る。
俺は副代表になってから、その斜め隣へ座るようになった。
役職が決まってから、まだ数日しかたっていない。
それでも座る場所だけは、既に肩書に合わせて変わっている。
人間は役職を与えられると、その役職に合った場所へ移り、その場所に合った声を出す。
俺も以前より、少しだけ大きな声で挨拶をするようになった。
「お疲れ」
白石が小さく頭を下げる。
今日も灰色のパーカーを着ている。
体に合っていないのか、袖が手の甲まで隠れていた。背は俺より少し低い。長い前髪が、黒縁眼鏡の上部へ触れている。
肩から下げた黒い鞄には、小さなキャラクターの飾りがついていた。
丸い頭に、短い手足。
どこかで見たことがある。
名前は思い出せない。
「白石君、それ好きなの?」
飾りを指すと、白石は一度、鞄を見た。
「まあ」
会話が終わった。
こういうとき、社交性のある人間は質問を続ける。
どこで買ったの。
どのキャラクターが好きなの。
最近の作品は見ているの。
俺も、似たような質問を探した。
「かわいいよね、それ」
白石が俺の顔を見る。
「バトル漫画ですけどね」
「え?」
「見た目はこうですけど、毎回生活圏を脅かす敵が出るし、修行するし、武器も使うので。登場人物の頭身を上げたら、かなり普通のバトル漫画です」
白石の声は小さい。
しかし、口元が少し笑っていた。
俺は一拍遅れて笑った。
「そうなの?」
「主人公、三回くらい死にかけてます」
「見た目から想像できないな」
「敵の見た目も大体かわいいです。やってることは侵略ですけど」
面白かった。
少なくとも、昨夜ショート動画で見た芸人の切り抜きよりは面白かった。
ただ、白石の声は、近くにいる俺へしか届かない。
少し離れた場所で、神谷と藤崎が次の発表について話していた。
もし今の言葉を神谷が聞いていれば、大きな声で笑っただろう。
藤崎なら、その説明を短い動画にしたいと言ったかもしれない。
白石は一つ、周囲から評価される機会を失った。
本人は気にした様子もなく、壁際の席へ座った。
俺は白石の近くへ座るか迷った。
声をかけると約束したわけではない。
しかし、メッセージを送った以上、その後も気にかけなければ、すべてが形だけになる気がした。
一方、俺の席は神谷の斜め隣だ。
副代表がいつもと違う場所に座れば、何か意図があるように見える。
白石を輪へ入れるため、あえて近くへ座った。
そう解釈される可能性もある。
それは少し魅力的だった。
俺は鞄を、白石から一つ空けた席へ置いた。
隣ではなく、一席離れた場所にしたのは、あまり露骨に見えないようにするためだった。
親切には、適切な距離が必要になる。
もっとも、適切かどうかを決めたのは俺だった。
「直人、今日の進行お願いしていい?」
神谷が声をかけた。
「俺が?」
「副代表にも慣れてもらいたいし」
「何も聞いてないけど」
「いつもどおりで大丈夫だって」
いつもどおりが何を指すのか分からない。
分からないまま、俺は「分かった」と答えた。
白石がこちらを見ていた。
副代表らしく見せなければならないと思った。
「じゃあ、そろそろ始めます」
少し大きな声を出す。
教室内の会話が止まった。
十二人分の視線が俺へ集まる。
視線を浴びるのは嫌いだった。
嫌いだが、全員が自分の声で動きを止めたことには、わずかな快感があった。
これまでなら神谷が言っていた言葉を、今日は俺が言っている。
役職には実体がない。
それでも、実体のないものによって、人は一斉に黙る。
「今日は、次回の発表担当を決めてから、今月の活動予定を確認します」
用意されていた紙を見ながら話す。
大した進行ではない。
神谷が事前に決めた内容を読み、何人かへ希望を聞くだけだ。
それでも滞りなく進むと、自分にはこういう役割が向いているのかもしれないと思った。
人の話を聞き、問題が起きないよう整える。
嫌われないために身につけてきた能力が、役に立っている。
そう考えると、少しうれしかった。
発表担当を募ったとき、白石は手を挙げなかった。
ほかの一年生も同じだった。
神谷が、
「一年生も、興味あるテーマがあったら遠慮しないでね」
と明るく言う。
誰も手を挙げない。
神谷は責めなかった。
「まあ、最初は先輩の発表を見てからでもいいか」
一人で結論を出し、次へ進んだ。
優しかった。
同時に、神谷の中では、一年生はいずれ発表する人間として既に数えられている。
発表したくない可能性は考えられていない。
俺はそれに気づいた。
気づいたが、何も言わなかった。
活動は問題なく終わった。
皆が帰り支度を始める。
俺は白石のところへ行った。
「今日は大丈夫だった?」
白石は鞄へノートを入れながら、少し首を傾げた。
「何がですか」
「いや、久しぶりだったから」
「ああ」
鞄のファスナーが閉まる。
「別に大丈夫です」
「無理しなくていいからね」
口にした瞬間、一種の満足感があった。
理解のある先輩らしい言葉だった。
白石は俺を見る。
黒縁眼鏡の奥で、目がわずかに細くなった。
「三浦さんって、僕のこと気にしてます?」
思っていなかった質問だった。
「まあ、副代表だし」
「神谷さんに言われたからですか」
「それもあるけど」
白石は少し黙った。
「別に、そんなに気にしなくても大丈夫です」
拒絶されたように感じた。
白石のために声をかけたはずなのに、相手が必要ないと言うと傷ついた。
親切を拒絶されたことより、親切な人間として受け入れられなかったことが悲しかった。
「でも、いつも一人でいるから」
言ってから、失敗したと思った。
白石の手が止まる。
怒ったわけではない。
ただ、俺との間へ見えない線を一本引いたように見えた。
「一人でいたら、駄目ですか」
黒川と似た言葉だった。
しかし、白石の声には黒川ほどの確信がない。
本当に一人が好きなのか。
輪へ入れない自分を守るため、一人が好きだと思おうとしているだけなのか。
俺には判断できない。
それでも、どちらかに決めたかった。
本当は寂しい。
本当は誘ってほしい。
そう解釈すれば、俺が声をかけたことは正しくなる。
「駄目じゃないよ」
俺は答えた。
「ただ、俺が勝手に気にしてた」
白石は俺を見る。
「そうですか」
それで会話は終わった。
感謝されなかった。
本音を話してくれたわけでもない。
これから積極的に参加すると約束したわけでもない。
俺の親切には、分かりやすい結果が一つも残らなかった。
白石は小さく頭を下げ、教室を出ていった。
入れ替わるように、神谷が近づいてくる。
「直人、ありがとうな」
「何が?」
「白石。ちゃんと気にかけてくれてたじゃん」
神谷は笑っていた。
俺の右手がしたことを、神谷は見ていた。
望んでいたはずの展開だった。
親切にしたことを偶然知られ、本人から報告することなく、周囲から評価される。
ここで、
大したことしてないよ。
と言えばいい。
その言葉まで準備されている。
「いや、別に」
俺は答えた。
少しだけ気分がよかった。
白石には距離を置かれた。
しかし神谷からは、後輩を気にかける副代表として認められた。
親切は無駄ではなかった。
そう思った自分が、ひどく気持ち悪かった。
「白石も、直人には話しやすそうだったし」
神谷は続けた。
先ほどの会話を聞いていたら、そんな解釈はできないはずだ。
しかし俺は訂正しなかった。
訂正すれば、神谷の中に生まれた「後輩の面倒を見る副代表」という評価まで消えてしまいそうだった。
「まあ、できる範囲でね」
俺は答えた。
自分に逃げ道を残す言葉だった。
◇
帰りの電車で、白石からメッセージが来た。
『今日はありがとうございました』
俺は画面を見た。
句点も絵文字もない。
念願の感謝だった。
それなのに、少しもうれしくなかった。
先ほどの会話の後で、自発的に送ったのか。
神谷か藤崎に、三浦へ礼を言った方がいいと勧められたのか。
これからも気にかけられるのが面倒で、とりあえず送ったのか。
あるいは、本当に感謝しているのか。
分からない。
本人へ聞いても、答えが本当だという保証はない。
相手の言葉を信じられないのは、俺自身が言葉を本心以外の目的で使いすぎたからだ。
『気にしなくて大丈夫。また次回!』
俺は返信した。
白石から、既読だけがついた。
それでよかった。
たぶん、よかった。
スマートフォンをポケットへ入れる。
三十秒後、もう一度取り出した。
新しい通知はない。
俺は今日、親切な人間になれただろうか。
分からない。
ただ、親切な人間だと思われることには、少しだけ成功した。
朝に読んだ聖書の言葉を開く。
右の手のしていることを、左の手に知らせるな。
俺の右手がしたことを、神谷は知っている。
左手も知っている。
白石がどう受け取ったかだけが分からない。
だけど親切とは本来、そこが一番重要なのではないか。
考えるのが面倒になり、ショート動画を開いた。
『本当に優しい人だけがしている五つの行動』
最初の動画が、答えを教えてくれようとしていた。
俺は最後まで見た。
五つとも覚えていなかった。
捻くれすぎか、自分みたいだ、




