1
じっとりと、汗ばんだ皮膚に下着が張り付く。この頃になると、体感的な暑さには気温だけではなく、湿度も重要な要素であると否が応でも実感する。つい先週辺りまでと気温は大差がない筈なのだが、夜は寝苦しく感じるようになってしまった。
空気がもったりとした質量を携えている。
先月辺りまで、青草のような匂いと、花々の香りの残滓が鼻腔を擽っていた筈であるが、今やそれは、水草で緑に濁り底の見えぬような川に近似した香りへと代替されている。
正しく、梅雨目前といった装いの空気である。
空を見遣れば、少しずつ少しずつ、地層が堆積するように雲は厚くなっている。軈て私達に向いた底面の水分は、上方から注ぐ光を奪われ続け、純白から鈍色へと変色する。
そうして明暗のコントラストがくっきりし始め雲に輪郭というのが現れ始めると、「しとしと」「ぽつぽつ」「ざあざあ」と、自らの体の一部を地に向け一斉に殴りつけるのだ。
中途半端な季節が来た、と私はそう思う。
雨音はどこか心安らぐ音色を奏で、鼓膜を打つ分には専ら心地の良いものであるのだが、いざその雨に触れ合おうとなるとまた別だ。それに対する心の機微は鬱屈とした鬱陶しい不快感へと様変わりするのである。
雨とは、その点でホラーの様だ。
見て聞く分には良いのだが、自分事となると途端に御免被りたくなる。
しかし、傘を忘れ思い切り雨に降られると、さっきまでの不快感は何処か快感のような姿に形を変え、なんだか吹っ切れてしまう。
もっともっと降られたくなる。
だから、中途半端な季節なのだ。
私はそれ故に、梅雨と言う季節を、雨というものを好きか嫌いか測りかねている節がある。
そんなことを、ここ、【怪談屋】のソファの上で膝立ちし、事務所の窓に頬杖をつき乍ら考えている。
如何せん、暇なのだ。
週三くらいで放課後ここへ訪れているが、依頼という物が全くない。
怪談屋ってのは何をする仕事かって?
怪談屋の主、森須 八雲に言わせれば、「怪談を仕入れて精査する」仕事らしい。それが基本業務で、時折、その怪談を解決してくれとか、その正体を突き止めてくれ、みたいな案件が入ってくる。
それが無い場合の精査の基準は、「語り手の語り具合で本当に起こっているかどうか」で判断するらしい。
また、その時は精査するだけで終わるのか、と一度聞いたことがあるが、「精査して実在していて、且つ危険がある怪異なら然るべき奴らに任せる。害がない場合や危険すぎる場合は放置だな。触らぬ神に祟りなしって言うだろ」と返された。
どうやら怪異に対処することを生業にしている人達がいる様だ。そこら辺もかなり複雑なのだが、「退治する側から情報を求められる場合」は怪談屋が金銭を受け取るが、「こちら側が危険だとか依頼の為に助けを求める場合」は怪談屋が金銭を支払うと言う。
先月の私の依頼についても、私があの時に怪談屋に「桜の破壊」を依頼しなければ、程度によってはそう言った妖怪バスターみたいな職の人に頼んでいたらしい。
そのため、私の依頼の料金は割安にして出世払いで構わないとそう言ったのだと教えてくれた。
そこを私は「借りを作りたくない」と言って、お手伝いをしているのだが……。
先述した通り、依頼が来ない。
当然と言えば当然ではあるのだが、なんとも暇なものである。
来たとしても、創作の怪談や、ネットで拾ってきたような話許りである。あの日、怪談屋が私を「冷やかし偏屈芋女」と出会い頭に言ってきた気持ちが何とは無しに分かった気がする。
先輩助手の虎さんに聞いてみると、矢張り私の時のが異常だったのだと言う。
当の虎さんは今、暇すぎて私の隣、ソファに座って眠っている。
加えて、現在、怪談屋の主である森須もここを留守にしている。どうやら諸事情で四国の方まで行っているようだった。あと三日は戻らないと言う。
そうしていると、入口の黒檀で出来た扉を三度、軽くノックする音がした。
漸くの来客だと、柄にもなく元気に「はーい」と応答してドアを開ける。
そこには虎さんと同じか少し小さい位……つまり、180程身長があると思われる女性が立っていた。
薄ら緑が混じったような黒髪を「お姫様カット」と呼ばれるような髪型に整え、釣り上がり気味の閉じているように見える細い目、顔の輪郭はシュッと流れるような美しさをして、鼻筋は綺麗に通っている。所謂狐顔と言われる顔だった。
レインコートを着ているが、その上からでもスタイルがいい事が確認できる。
その女性は貼り付けたような笑顔で口を開いた。
「森須君今ここにおる?」
どうやらあの男の知り合いらしかった。
森須の不在を伝えたが、その女性は「そうなん?いっつもタイミング悪いねんなぁ。まぁええわ。ちょい、今外雨降っとるし雨宿りさせてくれん?」と言って事務所の中に入り、レインコートを脱いだ。
より一層、その体躯の美しさが露わになった。
肩や胸は美麗に流れるような曲線を湛えており、視線を下げると絵に描いたような柳腰だった。それでいて、鹿のように長い四肢には程よく筋肉がついており、それが猫のようにしなやかに動く。
膝上までの黒いスカートから覗く、タイツを履いた足はもとより、ワイシャツに包まれた腕でも、それは分かった。
そこで気付いたが、腰元に何かを携えている。
それは刀だった。
吃驚して一歩、後退ると、それに気づいたのか「あぁ、驚かしてもうてごめんな。でも安心してや。これ刃の部分無いねん」
そう言って刀を抜くと、確かに鍔から先には何も無かった。
その後、寝ている虎さんを起こし、「多分先生の知り合いが来た」と伝えてお茶とお菓子を用意した。
「おおきに」
と言って、女性はつい、とお茶を口に含んだ。無駄がなく、洗練されている。名家のご息女とかなのだろうか。そんなことを考えていると
「君らに会うんは初めてよな?」
と話しかけてきた。虎さんなら知ってるかもと思っていたが、どうやら初対面だと言う。
「ほな、自己紹介しとこか。うちは飯綱 節子言うもんや。あんたらんとこの森須君とは幼なじみでな。時折依頼を受けては妖怪退治とかしとるんやわ」
彼女が、森須の言う妖怪バスターなのだろう。
「俺、伊坂 虎太郎って言います。先生の助手やってるっす」
と、虎さんが名乗る。それに続いて私も
「小泉 牡丹です。……その、一応助手というか……お手伝いをやってます」
と名乗った。
「伊坂君に小泉ちゃんね。よろしゅう。ほんで用件なんやけどな、最近なんやおかしいことあらへんかったかなって」
と、飯綱さんは言った。
「なんか最近、雨女が出とるらしいんよ」
雨女?
「それは……雨を降らせるみたいなあの?」
と、私は聞く。
それだけなら先月の一件の方が、余程おかしな事件だとそう思ったが、どうやらそれだけではないらしい。
「まぁ普通の雨女ならそうなんやけどな。今回のはなんか変っちゅうかなんちゅうか。行方不明者が出とるんよ」
そう言い淀んでから「ほいでな」と、こう続けた。
「雨女がその人引きずって歩いとるらしいんよ」




