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産声は、生まれたての赤子が臍の緒を通した母からの酸素の供給から離れ、自力での呼吸を開始したことの証左である。
ただの泣き声とそれの間に概念的な、観念的な差以外は無いと言える。
それでも、これは「産声」であると、何故かそう直感した。
確証は無く、確信だけがあった。
赤子の声がホラーに用いられることがあるのは何故だろうか。本来、それは生命の始まり、無垢なる存在の神秘である筈なのに。私達は時にそれに恐ろしさを見出す。
赤子の泣き声は本能的に、脳に警告信号を出させると言う。だからだろうか。緊張感、不快感を与えられるから、演出として用いられるのだろうか。
今の私の、形容のし難い焦燥や身体の強張りは、それ故なのだろうか。
蛇に睨まれた蛙というのか。
足が動かない。
ここから立ち去らなければいけないと頭では分かっているのに、身体は意に反する。異常な現実に、脳が処理落ちしている。目は開いているのに、五感の情報が何も入ってこない。
ふと、足に何かが触れる。柔らかくて小さくて、薄らと湿っている。
ぺた。
踝の辺りに一つ。
ぺたぺた。
脛を少しずつ上がってくる。這い上がってくる。
ぺたぺたぺた。
異常なことに気づく。靴下を履いている筈なのに、肌に直接感覚がある。膝頭に触れられる。
ぺたぺたぺたぺた。
一つじゃないことに気づく。幾つも幾つも感触がある。そしてこれは……赤子の手だ。太腿を攀じ登り始めた。
そこで意を決して視線を下に向けた。
赤黒く、形の不完全な赤子が何人も何人も、私の太腿に手をつけて、這い上がって来ていた。私の両足は、実った葡萄の房の様に、それらの塊に埋もれていた。
そして木目のタイル張りだった筈の床は泣き喚く、真っ黒な漆塗りのような赤子の顔で埋め尽くされていた。
私の腰にひたりと感触がある。
「ま……ま」
不完全な赤子はそう言った。何度も何度もそう言った。軈てそれは振り子の様に連鎖していき、気付けば泣き声と母親を呼ぶ声でこの教室は埋め尽くされていた。
攀じ登っていた赤子は、私の臍の辺りにくると身を捩るようにして、身体の中に入ろうとした。
不快な感覚が全身を駆け巡る。
無意識に、叫び声を上げた。劈くようなそれは、到底私の喉から発せられているとは思えない程に大きかった。
赤子は既に、首の辺りまで私のお腹の中に入っていた。
刹那、爆発のような音が鳴って、教室の扉が吹き飛んだ。目を遣ると、勢いよく虎さんが入ってくる。どうやら力の限り体当たりをしたようで、バランスを崩して地面で一回転した。
気味の悪い黒い赤子の顔を滑っていく。
その背後から喪服のような黒いスーツを着た七三分けの男が走って中に入る。怪談屋だ。
そのまま円形に並べられた机の上に飛び越えて、その中心の肉塊に至ると、思いっきりそれを蹴り飛ばした。
途端、苦痛の声を上げて、私のお腹に入ろうとした赤子は吹き飛んで離れ、消滅した。
足に纏わり付いていた赤子や、地面に浮かんだ黒い赤子の顔も徐々に、霧のように消えていった。
すとん、と私はその場にへたり込んだ。
これ迄、二度ほど怪異と対峙したことはあるが、常に誰かが近くにいた。私一人では、為す術がない。本当に無力だ。このまま二人が来なかったら私はどうなっていたんだろうか……。
心臓が痛い。上手く息を吸えない。上手く息を吐けない。水中でも土中でもないのに窒息しそうだ。苦しい。苦しい。このまま息ができずに死ぬかもしれない。息は出来ないのに咳き込む。余計に肺から空気が抜ける。無理に息を吸おうとしてぐごお、と間抜けな音が鳴る。口から涎が零れる。
私の状態を見て虎さんが駆けつけて背中を摩ってくれた。
「落ち着いて。焦らずゆっくり息を吸って下さい」
私は彼の残された方の手を握って、ぎゅっと握った。言われた通り、ゆっくりと息を吸って吐くのを何度か繰り返した。
三分程度で、漸くまともな呼吸が出来るようになった。
「あれは……なんなんですか」
私は口元の涎を拭って、怪談屋に聞いた。
誰かの嘘の怪談が実現したというのだろうか。
「素戔嗚尊と……八岐大蛇でしたっけ。蛇目堂で言っていた……。その中にこんな伝説はあるんですか?」
盗み聞きしていた事はバレるが、この際そんなこと言ってる場合じゃない。続けて聞く。
「国木田先生も……この被害に遭ってるんじゃ」
もしそうなら、私の時と違って……きっと──────
「素戔嗚尊と八岐大蛇、と言うのは僕の……僕らの推察のミスだった」
怪談屋はそう言う。
「そして恐らく、君にかけられていた「嘘の怪談が実現する」という呪いは、それそのものが目的じゃないようだ」
怪談屋は続ける。
「恐くあの赤子こそ、今回の犯人のゴールだ」




