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古来より、様々な国の神話や伝説に「異界」が描かれ、地獄やら天国やらもそれに該当する。現代のグローバル化した社会とは異なり、それらが生まれた時代には国単位どころか、村単位や民族単位が人々にとっての世界だった筈だ。
畢竟、それらの「異界」は自分達の住む世界の外側に対する憧れであり、畏れであったのではないだろうか。
また、その異界の入口と言うのは酷く陰険なものが多いように思われる。
死後の世界等はいい例で、人は死という最大の負のプロセスを踏まねば異界に立ち入ることは叶わないのである。
しかし、ものによってはその異界に生きながらにして立ち入る方法が存在するものもある。
日本神話においての黄泉比良坂が良い例だ。本来は坂であるらしいのだが、現在では鬱蒼とした森の中に佇む苔の生した岩がそれである。その岩で出口を塞いだのだ。
坂の出口を千引岩で塞いだ、ということは、その坂は地下に向けて伸びているのだろう。つまり、岩の下にあるのは穴である。
また、欧州の神話に目を向けてみれば、井戸や洞窟がそれにあたる。
何れにせよ、決して明るいものではない。
異界を外の世界への憧れや畏れと仮定した場合、そこに行く、ということは当時の人々にとって船旅や長距離の移動と同じことであろう。
つまり、生きて帰れる確証の無いものなのだ。だから、暗く陰険な場所が入口となっているのではないか。
また、後年では「鏡」が異界の入口として置かれることがままある。
これは先程の例とは少し条件が違い、もっと直観的な観念に由来しているのではないだろうか。
目に見えるもうひとつの世界。理屈を知ってしまえば単なる光の反射だと言えるが、見えない壁に隔たれたもう一つの世界であると思えるのは不思議なことではない。
吸血鬼やら合わせ鏡やら、怪談の中では真実を映したり虚構を映したりと、何かしら目に見えるものとは違うものを映すものとして描かれることもある。
だからこそ、雲外鏡と言う怪異の解釈を私の「嘘の怪談」でねじ曲げて、国木田先生のいる異界との通路に置けたのだろう。これが怪談屋の言った「策」、国木田先生を安全に助け出す方法らしかった。3つ目の「嘘の怪談」を語ったことになる。
現代に於いて、異界の入口として井戸や洞窟は一般的ではない。鏡を通路にしたのはそういう理由からだろう。
この、体育館の鏡を。
壁についた、引き戸に隠されたあの大きな鏡を。
心臓が早鐘の様に鳴る。
私は今から、世界の外に出るのだ。
大昔の人間の、共同体を飛び出して旅に出る時も、こんな心持ちだったのだろうかと推察する。
それにしても……素戔嗚尊に八岐大蛇。
スケールが大きすぎて実感が湧かない。
「準備はいいっすか?」
虎さんが私に向けて声をかける。
深く呼吸をして、私は応えた。
「はい」
「よし。それじゃあ行くぞ」
怪談屋が一歩、先に出た。
私達もそれに続く。
怪談屋のすぐ目と鼻の先に鏡が近づく。普通なら鼻頭や額をぶつけて止まるだろう。
しかし、鏡面は彼が入るのに合わせて波打つ。まるで水面のように波紋が広がっては鏡の縁で跳ね返る。軈て波のように揺らめいて、怪談屋が渡りきると同時に鏡面は凪ぐ。
鏡の中に彼の姿は無かった。
事前に「鏡の中の世界ではなく、あくまで入口として機能するだけ」と聞かされていたが、矢張り吃驚するものは吃驚する。
虎さんが鏡の前で立ち止まった私の背中をぽん、と押す。私は彼の方を見遣り、手を握った。
そうして前を向く。
意味があるのか無いのかは分からないが、鏡を通り過ぎる時は息を止めて目を瞑っていた。無意識のことであった。
三、四歩ほど歩くと、握っていた筈の虎さんの手の感触が無くなった。
思わず目を開く。
真っ暗な学校の廊下に私は一人だった。
見慣れた通路だった。白地に異界、と言う感じは無かった。しかし、窓の外で何かが怪しく光る。夜とは思えぬ程の明るさで。
窓の方に目をやるとそれはあった。
いつの日か、河川敷で見たあの大きくて発光する桜だった。神々しく、それは輝いていた。
ふと、どこかで何かが聞こえた。
唸る様に、畝る様に、それは響いていた。
それが赤子の泣き声であると気づくのに、そう時間はかからなかった。
*
「どこっすかー!牡丹さーん!」
屋上から、出来る限りの大声で俺は叫んだ。こっちに来た瞬間、手を繋いでいたはずの牡丹さんが消えた。
先生曰く、ここは「あの世」らしい。一人でいるのは文字通り、死ぬほど危険なはず。それにこんな異様な場所に女の子一人……。
俺と先生は近い場所に飛ばされていたみたいで、すぐに合流できた。移動後の転送先はこちらでどうにかできる要素では無かったらしい。
さっきから先生はずっと悩ましそうに何かを考え込んでる。「当てが外れた」とも言っていた。この、異様な雰囲気の、校庭に生えた桜を見てから様子が変だ。
そして……さっきから聞こえてるこの心臓の音みたいなのはなんだ。ドクンドクンと腹の底に響くような重低音だ。
気味が悪い。
「とにかく、牡丹さんを探しに行きましょう」
そう言って俺は屋上から降りるため、ドアノブに手をかけた。
瞬間、気づいた。
すりガラス越しに影が見える。
扉を挟んですぐ正面に
誰かが立っている。
固まっていると、影がふっと消えた。
階段を駆け下りる音。
「待て!」
そう叫んで俺は扉を勢いよく開けた。
*
見慣れた廊下。
見慣れた教室。
見慣れた天井。
ただ、その全てが今は異質だ。この四、五日だって十分異質で異常な体験ばかりだった。
怪談屋のポスターを見かけて
気の迷いで会いに行って
そこで語った嘘の怪談が現実に起きて
怪異はこの世界に実在して
この目で現実になった怪異を見て
その怪異を車で轢いて
馬鹿みたいにデカくてひかる桜を見て
そして今は鏡から入った異界にいる。
取り敢えずあの二人と合流しなくては。国木田先生を探すどころの話ではない。
気になることは山ほどある。この桜は何故ここにあるのかとか、この赤子の泣き声はなんなのかとか。
蛇目堂で盗み聞きした怪談屋の話では、私にかけられた呪いは「素戔嗚尊と八岐大蛇」ではないかということだった。
呪いの影響で生まれた怪異の神隠し先であるのだから、ここはその呪いの本拠地なのだろうか。だとすれば蛇やら益荒男やらが出てくるというのか。
廊下を渡っていると、一際大きな声で、赤子の泣き声が聞こえる部屋があった。
部屋の札を見てみると……2年3組。私の教室だ。ガラッと開ける。
異質な光景だった。
教室の中心に向けて、囲うように机が円形に並べられている。三周の円であった。
臭いも変だった。妙に生臭くすえた臭いが充満している。塩素のような、魚介のような臭いが混ざった感じだ。
そして円の中心には
赤黒く、水のようなものがかかっているのか、表面にてかりがある肉のような塊が落ちていた。
声はそこから聞こえている。
悲痛な声だった。
まるで、ここにいるのを嘆くかのような慟哭……私にはそう思えて仕方がなかった。




